アイオライトを抱えて

海ノ10

本編

わがまま




――盗られる


ただ、そこにあったのは暗いだけの世界。


――居なくなる


たった一つの大事な人が離れていってしまう世界。


――捨てられる 置いて行かれる


心を満たしてくれていたものが消えてなくなる。


――やめて!!


そう叫んでも何も変わらない。


ただ、二度と会えないところに連れていかれた家族大事な人と、今残っている大事な人を重ねてしまっただけ。

でも、この場所では恐怖しか感じない。

ただ、心に棲む不安が喰らいつくそうとする。



「はぁ、はぁ……」


まだ差し込む光は暗いほどの早朝、体中から噴き出る汗で目が覚める。


「夢……だよね。」


そう呟いても、この家に答えてくれる人は誰もいない。

もう消えてしまったから。

帰れないところに行ってしまったから。


「……何考えてんだろ、あたし。」


そう呟くも元気は無くて。

もう一度寝ようにも寝るのは怖くて。

布団から出ようにもそこには孤独しかないように思えて。


「大丈夫。大丈夫。」


そう自分に言い聞かせて、やっとその感情を抑え込む。

でも、いくら頑張っても消えていくことはない。








「おはよう、桜。」


桜が準備を終わらせて家から出ると、そう声をかけられる。


「うん。翼、おはよう。」


そう呟きながら、そこにいた少年に抱き着く。

それが、彼女にできる精一杯のこと。


「どうしたの?朝から酷い顔してるけど。」

「ううん。何でもないの。ただ、怖かっただけ」

「また夢?」


問いかけに頷いて答える彼女を優しく抱き返しながら、彼は気が付かれないようにため息を吐く。

彼は、彼女のことを何も知らない。だから、励ましてあげることもできなければ、なにをすればいいかすらわからない。

彼女から毎朝抱き着く理由を教えてもらえない自分が嫌になる。


「……心臓の音。」

「そりゃあそうだよ。僕だって生きてるんだから。」


毎朝同じようなやり取り。

でも、ただ『生きている。』という当たり前のことを感じるだけで、こっそりと流した涙も、心に抱いている思いも幽かなものになっていく。


「うん、もう大丈夫。」


本当はもっと長くこうして居たかったが、これ以上長く抱き着いていては、彼に迷惑がかかると無理やり笑顔を張り付けて離れる。


「そっか。じゃあ、学校、行こっか。」

「うん。」


は、彼女が無理やり笑っているのに気が付いている。

でも、そこに触れたらすぐに壊れてしまいそうなほど桜は脆く見えて、触れることはできない。

そう思いながらも、翼は桜の小さな手の平を優しく包むように握る。

その小さなことが、翼にできる最大のことだから。


(暖かい……)


二月の半ば。手袋をつけていない手は寒さを訴えていた。

そこで握られた手は暖かくて。

桜はこれを放したくないとさえ思った。

ただ、だからこそ、いつか離れてしまいそうなこの手を失う瞬間が怖かった。

まだ見ないその時を、大袈裟なくらいに怖がっていた。




そんな日常を繰り返していた。






「なあ翼、最近彼女とどうよ。」

「ん?別に変ったことはないけど?ああ、今日休んでるぐらい?」


三月も半ば、教室で友人に話しかけられた翼は、そのはっきりしない質問に首を傾げる。


「そっか。ならいいんだけどよ。」


そうは言っても、どこか歯切れの悪い友人の様子に、翼はどこかモヤモヤしたものを拭えない。

何か言いたいけれど何も言えない。そんな感じだ。


「どうしたの?そんな言い方して。何か桜の話でも聞いたの?」

「まあ、そんなところだ。」

「ふーん。どんな話?」


別に、桜が何をして何を言おうと、翼が桜に対する態度を変えることはない。

だが、この友人がここまで言いにくそうにすることには興味があった。


「それは個人の問題だろうから言えねえ。」


よくわからない友人の言葉は、翼の好奇心をくすぐるのには十分な要素だった。

特に、それが一番大事な人の事だとすれば、気になるのも当然である。


「ねえ、何のことか――」

「ほら、時間だぞ!席に着け!」


最悪と言っていいタイミングで訪れた英語教師に、翼は舌打ちをするが、学生である以上教師の指示に従わないわけにもいかず、嫌々諦めることにした。

一方の友人はそのことに安堵の息を漏らしていた。


(お前の彼女の両親がもう亡くなってるって聞いたんだけど、知ってたか?なんて、聞けねえよな。)











それと時を同じくして。

彼女は私服の状態で住宅街を歩いていた。


(……一人で出歩くなんて久しぶり。最近は、ずっと翼が居てくれたから。家にまで迎えに来てくれるし。)


そんなことを想いながら、とある場所に向かって歩いていく。

そこは、二年前から行くことのなかった場所。

行かないようにしていた場所。

でも、今日こそは行かなくてはいけない。


彼女は、手に持ったバッグから花束を取り出すと、見通しの悪いカーブのところにそっと置いて、手を合わせる。

詳しい作法も、これでいいのかも知らない。

けれど、ただそうすることに意味があるんだと信じて疑わなかった。


「お父さん、お母さん。お墓の方には行ってたけど、こっちには来てなかったね。」


そう、手を合わせながら言葉を選んでいく。


「ここに来るのは怖かったけど、いい加減来ないといけないかなって。」


いつまでも独りだと泣いていられないから。


あの日は、中学の卒業式だった。

思春期の最中だった桜も、その日ばかりは両親に惜しみなく笑みを送っていたし、二人も娘の成長を心から喜んでいた。


――その、帰り道


一台の自動車がカーブを曲がらずに、そのまま突っ込んできたのだ。


桜だけでも助かったのは、幸運だった。

いや、両親が咄嗟にかばった。そう思った方が自然な状況だった。


「じゃあ、もう行くね。」


そう呟いて合わせていた両手を放すと、ゆっくりと立ち上がる。


その、瞬間だった。



「っつ!!」



一台の車が、桜に向かって走ってきた。


それが、あの時と重なってしまって、ただ怖くて、腰が抜けてしまう。


しかし、その車は走るのをやめずに――
















「はぁ、はぁ……」


自分の目の前を曲がっていった車を、桜はただ見つめる。

大丈夫。あんなことはもうない。


そうわかっていた筈なのに、どうしても怖かった。

死ぬのも、また大事な人と離れなくてはいけないことも。


「翼……」


早く、この気持ちをどうにかしてしまいたかった。

でも、自分一人ではどうしようもない。


今すぐ、彼に会いたかった。


ただ、そばに居てほしかった。


「……これじゃああたし、面倒くさい女だよね。」


ただ、失いたくないと、そう思ってしまった。

本音を言えば、今すぐに彼に抱きついて、ずっと離れたくない。

いつもそばにいて、安心させてほしい。


でも、その本音を言うのには、勇気が必要だった。

面倒くさいと思われて、拒絶されたらもう立ち直れる気はしなかったから、それを言うことはできなかった。

彼の隣以外に居たい場所なんかなくて、彼を失ったら生きていける気がしない。

ここまで依存しきっている今の状況が良くないことぐらいはわかっている。

しかし、大事なものを失った彼女は、彼に頼ることしかできない自分を変えれない。


彼女はゆっくりと立ち上がり、先ほど通った道を戻っていく。

その胸に様々な感情を抱えながら。













「ねえ、桜のことでなんか聞いたんでしょ?」


英語の授業が終わってもその話を覚えていた翼に舌打ちしたい気分が込み上げてきたが、それを何とか抑え込む。


「なあ、翼。正直、友人であるお前にこんなこと聞くのは気まずいんだが……」

「ん?そんなやばい話なの?」

「やばいというか……」


こんな話を部外者の自分がするのは不謹慎だと考えていた彼は、何と言っていいかわからなかった。

仮に、この話を翼が知っていた場合は、ただの不躾な質問である。しかし、翼が聞いていなかった場合は、彼女である桜が言いたくなかったということになり、そんな話を自分が勝手にするのはどうなんだという気持ちがあった。


「ねえ。僕は桜の事ならどんなんでも受け入れる覚悟があるんだ。だから、話してよ。」

「……この話はもしかすると、お前の彼女が言いたくなかったことかもしれないんだぞ。」

「仮にそうだとしても、僕は桜のことをもっと知りたい。それが僕のエゴだって言われてもいい。」

「そうかよ。」


これ以上隠すのは無理そうだと判断した彼は、大人しく話すことにした。


「翼。お前の彼女の両親が亡くなってるって話、聞いたことあるか?」

「……どういうこと?」

「これは、俺が人から聞いた話なんだが、中学の卒業式の日に交通事故で亡くなったって話なんだが、聞いたことなかったか?」


そんな話は聞いたこともなかったし、想像もしていなかった翼は、ただ頷くことしかできなかった。

その話が本当かどうかもわからない。ただ、仮に本当だとしたら、桜の家に上がらせてもらえないことも、毎朝の不安そうな顔も、説明がつくような気がした。


「……そんな話、聞いたこともないよ。」


そんな大事なこと、自分彼氏にくらいは教えてくれてもいいのに。

そんな思いが一気に湧き上がってくる。


「そうか。まあ、噂程度に考えておいてくれ。」

「うん。そうだよね。本人が言ってたわけじゃないし……」


そう言いながらも、彼の心は穏やかではなかった。

何故教えてくれなかったのか。何故話してくれなかったのか。


(今日、この場に桜がいれば……あれ?何か違和感が……)


今日、ここにいない。


それだけのことが、何故か突っかかる。

確かに、彼女が休んだことは付き合い始めてから無かった。

だが、そこに違和感があるわけではない。

もっと違うところで……


「っ!そっか!だから今日!」


その瞬間、彼の中で繋がった。


――もしかして、今日が両親の命日なのか?


確証はない。ただ、それが答えのような気がした。

だから、その行動をとることに迷いなんかなかった。


「先生には早退するって言っといて!」


そう友人に言うが早いが、彼は教室から飛びだしていく。

自分が行ったところで何ができるわけでもないとわかってはいたが、体は勝手に動いていた。

鞄を持ってくることも忘れて、ただ道を走っていく。

本当にそうかもわからないのに、ただ走っていく。








もう、息が切れるほどに走った。

肺が痛くなるほど走った。


桜と話しながら歩いたらすぐなのに、こんなに遠く感じるなんて。


「さくらっ!」


前に見えた、後ろ姿に思わずそう叫ぶ。


本当にそれが桜なのか、確証はなかった。

ただ、そうであると信じて、そう叫んだ。




「……翼?」




弾かれたように振り返った桜は、驚愕の表情を浮かべて、思わずと言ったようにその名前を呼ぶ。


「桜……」


何を言ったらいいのか、わからなかった。


「なんで、ここに?」


桜は、当然のような疑問を口にする。


「学校で、桜の両親が亡くなってるって聞いて。それで、今日休んだから、もしかしたら、今日が命日とかだったのかなって……思って。そうしたら、居てもたってもいられなくて。」

「……そっか。」

「桜……」


翼には、わからなかった。

それ以上何をすればいいのか、何処まで踏み込んでしまっていいのか。

だから、名前を呼ぶことしかできなかった。


「桜……」

「何で?」


名前を呼ぶ翼に返ってきたのは、俯いている桜からのそんな言葉。


「何で、あたしの為にそこまでしてくれるの?なんで?」

「桜が大好きだから。」

「うん。翼はそう言ってくれる。でも、あたしはその優しさをもらうたびに怖くなるの。」


これ以上心の奥まで入って来られたら、本当の自分を隠し切れないから。

翼が居なきゃだめで、翼を笑っちゃうぐらい大事に想っていて、翼の為に生きているような、面倒くさいと思われそうな自分を見られたくない。


「ねえ、あたしよりもいい女の子なんかいっぱいいるでしょ?なんであたしのためにそこまでしてくれるの?」


それも、本心。

あたしよりも他の人と一緒に居たほうが、翼は幸せになれる。

顔もいいし、運動もできるし、頭もいいし。

こんな面倒くさい人間よりもいい人なんかいっぱいいるから。


「もっと大人になった時に、きっと思うよ。あたしなんかと付き合ってたのは時間の無駄だったって。後悔するよ。」


違う。

こんなこと言って自分はどうしたいのだろう。

嫌われたくなかったはずなのに、こんなことを言っている。

自分がわからなくなってきて、それが苦しくて。

でも、大好きな翼の為なんだって、誰かに言い訳ばかりして。


「桜、僕が嫌い?」


だから、大好きな翼がそう言うのに、頷けない。

それをしてしまったら、自分の中で何かがなくなる気がしたから。


「桜、僕が嫌いだからそんなこと言うの?」

「そんなわけないじゃん!あたしは、翼が大事で、大事だから、言ってるんだよ!!」

「僕だって、桜が大好きで、大好きで、大好きだよ。だから、桜以外の女の子を好きにならないし、桜しか居ないんだよ。」

「嘘だよ!!こんな面倒くさいあたしなんか好きでいられるわけがない!!翼がいないと何もできなくて、翼が他の女の子と話すだけで嫉妬して、翼が居ないと生きていけないくらい大好きなくせに、毎晩毎晩翼が何処かに行っちゃう夢を見て、勝手に不安になって、毎朝泣くような面倒くさいあたしを、好きでなんか――」


それは、一瞬だった。

いつの間にか桜の唇は暖かい何かに塞がれていて、それ以上の言葉を紡ぐことはできなかった。


「……桜。そんなに僕のことを想ってくれる人を嫌いになんかなれないよ。」

「っ!!でもっ!!」

「桜は、どうしてそんなに自分を卑下するの?桜を好きな人とか心配する人全員を否定するの?桜のことを好きな僕は、桜にとっては信じられない人なの?」

「そんなこと言ってない!」

「いや、言ってるよ。僕が好きって言う桜を、桜は否定してるんだよ。だったらそれは、桜のことを好きって言う僕を否定するのと何が違うの?」

「っ!!」


思ってもいなかったことを言われて、桜は言葉を失くす。

だって、そんなことは思ってもいなかったから。ただ、自分だけが傷つくだけだと思っていたから。

それが、大好きな人を傷つけるだなんて思ってもみなかった。


「確かに、桜から見たら桜は、とっても面倒くさい女の子で、嫌いな女の子なのかもしれない。でも、桜がそう思うところを僕は全部かわいいと思うし、全部ひっくるめて桜に恋してる。愛してる。大好きだよ。

 それなのに、それを否定しないでよ。僕にとって大事な人は桜以外にいないし、一生大好きだと誓うよ。この命に代えてもそう誓う。」

「そ、そんなこと言われたらっ!!一生離れられなくなっちゃうよ!!ただでさえ失うのが怖いのに、これ以上あたしの心に入ってきたら、もう駄目になっちゃうよ!」


自分が彼を苦しめたくない。そんな想いが自分を縛っていたのに。

それでも翼がいないと駄目な自分を抑えきれなかったのに、そんな自分でいいと言われたら、そんな自分がいいと言われたら、もう抑えようがない。


「あたしは、怖いんだよ!あたしの大好きな翼を自分が縛って、苦しめちゃうのが!!

 だから自分の中でここまでだって線引きをしてたのに、どうしてそれ以上来ていいよって言うの!?そんなの、もっと好きになっちゃうじゃん!


 もっと、もっと、欲張りになっちゃうじゃん!!」


涙を隠す余裕もない。

今までは表に出せなかった弱い自分本音が、出てしまっていても、どうしようもない。


「桜、それでいいんだよ。今だって、桜の話を聞けば聞くほど、新しい桜のことが知れてもっと好きになってるし、これから見れるどんな桜だって好きになる。

 そんなの有り得ないって君は言うかもしれないけど、不器用な僕にはこれが精いっぱいだから、信じてほしいんだ。

 桜が自分のことを嫌いなら、僕を好きでいて。そうしたら、僕は僕の瞳に映る綺麗な桜を、桜に伝えられるから。桜は、その桜を信じて。

 桜の目に映る全てを信じてほしいなんて言わないから、ただ桜が好きって言ってくれた、大事って言ってくれた『僕』を信じて。

 それがどれだけ僕の我が儘エゴなのか、どれだけ難しいのかもわかってるつもりだよ。だから、僕の言葉は、『大事だ』って桜の言葉に甘えてるだけ。それがわかってても、僕はこういうしかないんだよ。


お願い、『僕』を信じて。」


もう、自分に『甘えちゃダメ』だって言い聞かせるのも、『迷惑になるから』って思いこませるのも限界だった。

桜は、翼の数少ないお願いを、自分にとって都合の良すぎる言葉を、受け入れることしかできなかった。

これまで無理やり縛っていた鎖の分まで、その感情は強くなって。


桜はぽすっと翼に抱きつくと、消え入りそうな声で言う。


「そうやって、あたしに都合のいい言葉を言ってくれて。」




「これ以上、好きにさせて。」




「それで『信じて』って言われたら、信じるしかないじゃん。」




「ずるいよ、そんなの。」




「そこまであたしに優しくして、翼はなにがしたいの?」

「それは当然一つしかないよ。」




ギュッと強く抱きしめた、その温度はいつもよりも高い。

でも、それがこれから何度も知る温度になると、何度も知りたい温度だと、二人は自然に受け入れた。




「ずっと、桜を僕だけのものにしていたいんだよ。」

「……こんなことしなくても、あたしには翼しかいないよ。」





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

アイオライトを抱えて 海ノ10 @umino10

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ