そんなに急がなくても

夏競馬が終われば、秋のGIシリーズが近くなって来たなあと感じますね。

秋競馬最初のGIはスプリンターズステークス。この時期に開催されるようになってだいぶ経ちましたが、以前は12月の冬枯れた芝で行われてました。

その当時のレースを思い出すと、スターホースが何頭もいてずいぶんと盛り上がった記憶があるのですが、わたしが思い出すのは彼らに匹敵するほどの輝きを放っていた馬でした。


競馬場に通って数ヶ月が経った頃。

わたしは中山競馬場でお昼を食べながら競馬新聞とにらめっこをしておりました。

その日のメインは京王杯オータムハンデ。知ってる馬はハンデがきつそうだし、だからと言って軽ハンデの馬はよく知らないし……と、いささか頭を抱えたくなるような具合。赤ペンを持つ手も動きません。

「……ん?こっちのメインなら馬見てから決めりゃいいじゃねえか。悩むんなら関西のメインにしろよ」

そんな声が頭の上から降ってきました。

驚いて見上げると、そこにはサンドイッチを片手に持った先輩がいました。

先輩とは競馬場で知り合って意気投合し、まだ何もわからないわたしに予想の仕方や馬の見方を教えてくれた人でした。

その日は関西のメインも重賞のセントウルステークス。ただ、こっちはいくらか予想に自信がありました。

「こっちは堅くないですか?あまり荒れそうな感じもしませんけど……」

「頭は堅いだろうが2番人気以下はあぶねぇぞ。心してかからんと全滅だぜ」

「そうですかぁ……」

そう言いながら競馬新聞に目を落とすと、ある馬の馬柱に目がとまりました。

ケイエスミラクル。

ここまで5戦して3勝、2着が2回。

ここまでの戦績を見る限りではとても強そうに見えます。

「先輩、この馬いいんじゃないですかね?」

わたしがその馬柱を指差すと、先輩も覗き込みます。

「デビューは遅れたが夏の上がり馬だな。人気サイドだし相当強いって噂になってるぜ。……その噂が本物ならな」

「本物って?」

「ポンポン勝てるほど短距離重賞は甘くねぇよ。むしろ今日は課題が見つかる日なんじゃねえかなあ」

「こんな内容いいのに課題ってあるんでしょうか」

先輩の言う事がどうにも納得できないわたしはつい聞いてしまいます。

「条件戦とオープンの一線級じゃ求められるものも違うからね。ポンポン勝ち上がってオープンでパッタリってのも多いのさ。買うならこいつがそうじゃないことを祈るだけだな」

「そうですか……」

それでもわたしはケイエスミラクルを絡めた馬券を買いに行きました。

相当強いという噂を信じようとしたのです。

京王杯オータムハンデはわたしの本命が3着同着で馬券にならず。

天を仰いでガッカリしてるところで、セントウルステークスの発走の合図がありました。

気を取り直し、モニターに注目することに。

「スター誕生といきますか、だな」

先輩がポツリと漏らします。

そうしているうちにゲートが開き、スタートが切られました。


ケイエスミラクルは逃げ馬2頭のすぐ後ろ、少し外めにつけました。

戦績を見れば今までもそうして勝って来ているので、同じようにポジションを取ったのでしょう。

そうして4コーナーで外から抜け出す態勢を作り、直線の入り口では先頭に立ったかに見えました。

「このままいけるか!?」

そう思った瞬間、内から一番人気のニフティニースが抜け出します。ケイエスミラクルはほぼ無抵抗のまま、ズルズルと後退していくばかり。

そうしてゴールしたときには、後ろに1頭しかいませんでした。見るも無惨な大敗です。

「やっぱりうまくは行かねぇよなぁ。きっと何か課題が見つかったんだろうさ」

先輩は顔色一つ変えずにそう言います。

わたしはと言えば、道中のポジションの取り方や4コーナーでの態勢の取り方で、こう思っていたのでした。

「なんで、そんなに急がなきゃならなかったんだろ……」

急ぎすぎて失速してしまったように見えたのです。


それからしばらくして、わたしは彼の生い立ちを知ることが出来ました。

アメリカで生まれた時から大病を患い、競走馬になれるかどうかもわからなかったこと。

日本に連れてこられてからも大きな脚部不安を発症し、デビュー出来るかどうかも難しかったこと。

それでデビューが4歳の4月まで遅れたこと。

そうした困難を乗り越えた仔だから、ミラクルと名付けられたこと。

それを聞いて、急ぐ理由がなんとなくわかった気がしました。

早くに結果出して安心したいんだろうし、実績積めば脚元に負担のかかるローテーションを組まなくても良くなる。

そうするために、今頑張るしかないんだろうな、と……。


その後、彼がオープン特別のオパールステークスを差し切って勝ったと聞いて、少しホッとしました。

「先行して失速したんだから、後ろから行ったんだろう。課題クリアってとこかな」

先輩はそう言って、競馬新聞に目を落とします。

「これで本物かどうか見極めができそうだが、相手が強いなぁ……」

この日の関西のメインはG2のスワンステークス。短距離路線の中でも重要なレースです。

出走表を見れば、その年の安田記念を勝ったダイイチルビーに2着だったダイタクヘリオス、オグリキャップと死闘を繰り広げたバンブーメモリーに4連勝で重賞の阪急杯を勝ったジョーロアリングなど、文字通りの強豪揃い。その中でもケイエスミラクルは5番人気とまずまずの評価を受けている様子でした。

「いくらなんでも確かに相手が強すぎですよね……」

セントウルステークスでの惨敗が頭の中にちらついて、人気ほど走れるような気がしませんでした。

「それでも、能力がなきゃ4歳デビューから2ヶ月でオープンまでは来られんよ。ミラクルが起きるか、試してみるか?」

「試すって?」

「差しが出来るんならこのメンツでもチャンスはある。マークは薄いだろうし、差して届く気がするぜ」

「……」

少し考えました。

このメンバーで勝てるなら本物だし、そうであってほしい気がしていました。

それにはミラクルが必要なこともわかっていましたが、起きるかどうか……。


そうして、わたしはケイエスミラクルの馬柱に◎を書き込んだのです。

「そうまで言われたら、買うしかないじゃないですか」

そんなことを言いながら、わたしたちは馬券売り場へ向かったのでした。


ゲートが開くと、ダイタクヘリオスが先陣を切って飛び出します。それに負けじと先行勢が激しいポジション争いを繰り広げています。

ケイエスミラクルはそのすぐ後ろの内側をキープして、前の争いを見ながらじっくりと脚を溜めているようにみえます。

そのまま4コーナーでもあまり派手な動きをせずにやり過ごし、直線へと向かってきます。

前にはバテかけた先行馬が壁をこしらえてましたが、ケイエスミラクルはその隙間をまるでカミソリでスパッと切り裂くように抜け出してきました。

行けるかと思ってモニターを見ていたわたしの目に飛び込んできたのは、外側を猛然と追い込んでくるダイイチルビーの姿。

「差されるか、いやこらえろ。ミラクルを見せてくれ」

そんな祈りにも似たつぶやきが届いたのか、ダイイチルビーの猛追をクビ差でしのぎきって先頭でゴール。

しかもレースレコードのおまけつき。

その走りはミラクルでもなんでもなく、自分が本物だと証明するものでした。

「先輩、ミラクルじゃありませんでしたね」

「ああ、ありゃあ本物だよ。この先楽しみが増えたなあ」

そう言いながら、わたしたちは払い戻しの列に並んだのでした。


次にケイエスミラクルが出走してきたのは、GIのマイルチャンピオンシップ。

でも、先輩もわたしもこのレースでケイエスミラクルを買いませんでした。

ここまでの戦績から、おそらくマイルは長いだろうということでわたしたちの意見は一致していました。

「頑張ったにしても、マイルはダイイチルビーだろうよ。ケイエスミラクルには少し長いよな」

「だと思います。パスしても良かったくらいですよね」

「いやいや、前走勝ってここに出ないってわけにはいかんだろうさ」

この当時はまだ距離体系ごとのローテーションというものはまだ曖昧で、短距離専門でもマイルに出てくるのが当たり前のような感じでした。

短距離専門だと大きなレースは暮れのスプリンターズステークスしかありませんでしたし、目の前にGIのタイトルがあれば距離が長くても向かっていくのは当然のことでもありました。

だから、わたしも先輩も馬券とは別のところでケイエスミラクルを見ていたのです。

もしマイルがこなせるようなら、この先出られるレースが増えることになる。

こなせないようなら短距離専門で厳しいことになるかもしれない。

その見極めをしようとしていたのです。


ゲートインまでの輪乗りを見ていると、先輩がポツリと言います。

「それにしても……」

見ると先輩は競馬新聞の馬柱を見ていました。

「いくらデビューが遅かったにしても、オープン上がってから使い詰めだよなぁ」

「ええ、結果出すのに急いでるように見えるんですよね」

わたしも同じことを思っていました。

「外車で相当高かったって聞いてるからなあ。回収したいのかもしれんがあまりいい気はしないよな」

「GI取ればさすがに休ませるでしょう。きっとそれまでの辛抱なんだと思います」

「だといいがなぁ……」

先輩はそれっきり、黙ってしまいました。


レースは先頭集団にいたダイタクヘリオスがロングスパートをかけてぶっちぎり。

ケイエスミラクルは後方から鋭く追い上げて直線でダイイチルビーらとの激しい攻防の末、3着を確保していました。

それを見ていたわたしはついこう言ってしまいました。

「これじゃあ判断に困りますね……」

先輩も困ったような顔をしていました。

「一線級がいなきゃマイルでもとは思うが、おそらくいないってことはないだろうしなぁ」

「そうですよね……」

結局、見極めは先送りすることに。


それから一ヶ月後。暮れの中山競馬場。

スプリンターズステークスのパドックにケイエスミラクルはいました。

もともと出走の予定ではなかったが、前走あれだけ走ったから出すことになったという噂を聞いていました。

その噂を裏付けるように、鞍上にはこれまで主戦だった南井騎手ではなく、関東のトップジョッキーの岡部騎手が乗ることになっていました。

南井騎手は関西の騎乗予定があるからと聞きましたが、もとから出走予定があれば中山に来ていたはずです。

やはり噂は本当だったのかなと思いながら、わたしはパドックを見ていました。

考えてみれば、初めてケイエスミラクルを生で見るんだよなあ。

モニター越しではなかなかよくわからないからなあ。

そう思いながらよく見てみると、あまり大きくはない馬体はスラリとしていて、好ましく見えました。

オッズ板を見れば堂々の一番人気。同じパドックを周回しているどの馬よりも良く見えるのも納得できました。

「今度こそここ使って放牧だろうな?」

隣では先輩が心配そうな顔をしています。

「この後大きなレースもないですし、さすがに放牧に出すと思うんですよね」

わたしも心配でしたが、おそらくはそうなるだろうと思ってました。

「勝って結果出して、そしたらゆっくり休めるはずですよ」

「だといいがなあ。こんだけいい馬だもの、何かあってからじゃ遅いんだよな」

「ええ……」

レース中に『何かあった』馬はここまでに何頭か見てましたが、先輩はそれ以上に見てきてたはずです。

馬券の勝ち負けよりも、馬が無事ならそれでいいと普段から言ってる先輩のことですから、心底心配していたのでしょう。

「もっとも、こうして出てきたってことは戦えるってことだろうからな。買うしかねぇよなあ……」

「ええ、そうですよ。人気ですが買いに行きましょうか」

そう言って、わたしたちはパドックを後にしました。


やがてファンファーレが鳴って、スタートが切られました。

ケイエスミラクルは中団あたりにポジションを取り、先行集団を目の前にじっくりと構えているように見えました。

後ろにいるダイイチルビーを警戒しながら、抜け出すタイミングを測ってるんだろう。

そう思っていると、もう直線の坂下です。


勢いのなくなった先行集団を前に、ケイエスミラクルは自慢の末脚を繰り出す態勢になりました。

その途端、岡部騎手が手綱をこれでもかと絞り上げるのが見えました。

同時にケイエスミラクルはがくんとスピードを落とし、どんどんと後ろの馬に抜かれて行きます。

先輩もわたしも一番恐れていたことが起きてしまいました。

そうして、ケイエスミラクルは一頭だけゴール板を横切ることができませんでした……。


「……さあ、最終のパドック行くぞ」

先輩がわたしの手を引いて、その場を離れるよう促します。

「ええ……」

わたしもそれに応えて、パドックに向かうことにしました。

『何かあった』ことは間違いありませんでしたし、そのままその場にいたら見たくない光景を見てしまいそうでしたから……。


次の日の新聞で、ケイエスミラクルには予後不良の診断が下ったと書いてありました。

もうあの姿を見られないんだなと思うと、なんだか力が抜けていく感じがします。

そうして、頭のどこかでずっと思っていたことが噴き出して来ました。

「なんで、そんなに急がなきゃならなかったんだろ……」


あれほどの力があれば、目の前のGIをパスしたって次の年には取れたはずです。

無理に使った結果がこうでは、関係者もファンも、なにより馬自身が無念だったことでしょう。

もっと余裕を持って使えてたら、きっともっと勝ててたんだろうなって今でも思うんです。

その後の短距離界を席巻してたかもしれない力を持っていたはずなのに……と。


だから、30年以上経った今でもまだ思ってるんです。

「そんなに急がなくても良かったのにな……」って。

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