第56話 熊本くんの小説36『行列』

『行列』 作 熊本祥介


 その日、少年Aは初めてみなとみらい線に乗った。横浜の美術館にひとりで行こうと思った。なぜ急にそんなことを思い立ったのか、彼自身もうまくわからなかった。ただ、そのときに美術館で開催されていた展示を観てみたいと思った。Aの利用する区立図書館に、ポスターが貼られていた。

 現代美術作家の展覧会だった。『とおくてよくみえない』という題名に、彼は惹かれた。

 三月で、暖かい日だった。その日は学年末テストの最終日で、午前中で帰宅することになった。財布の中には千円札が二枚と小銭がぱんぱんに入っていた。このところ、親にもらう昼飯代を節約していた。

 行ってみようかな、と彼は考えた。往復して帰っても、夜までには家に帰れそうだった。

 いつもは乗らない電車に乗ることは、ちょっとした小旅行のようで、彼の心は弾んでいた。しかも、美術館にいく。美術だのアートだのに、彼はいっさい興味がない。美術の成績は小学校の頃からそれほど良いものでもなかった。

 美術教師という存在にも、彼にとって少し気後れさせるものがあった。Aの通う中学校の美術教師は、いつだって眼を濁らせていて、退屈そうにしていた。自分にあるのかわからない、才能を信じることができない。同期のなかのひとりが目利きに評価されたのを美術雑誌で見て、へえ、あいつもがんばっているなあ、などといいながら、心中にある嫉妬心を見て見ぬ振りすることに神経をすり減らしている。よくいる男だった。その美術教師は一部の生徒には慕われていた。退廃的にでも映るのだろう。

 大人になり、職業をもつ、ということがAにはうまく想像することができなかった。それは、「誰もがしなくてはならないこと」だった。お金を自分で稼ぐ、ということだ。生活するということだ。それができない人はまわりから蔑んだ目で見られる。社会というものに組み込まれていることが、Aには不思議でならない。

 平日の昼間だ。電車は空いている。老人が居眠りをしていて、サラリーマンらしきスーツの男も携帯をいじりながらだらしなく足を開いている。それぞれが目的地に向かっていた。


 突然の揺れ。そして電車は途中で止まった。アナウンスが途切れたと思ったらすぐに続く。停止信号です、揺れを、線路を確認中。

 何度も揺れた。地震だ。こんなふうに大きな揺れを感じたのは初めてだった。車内の面々は怯えている。サラリーマンが携帯を眺めながら、「地震あったみたいだ」とつぶやく。それは知っている。その地震はどこで起きて、どういう状況なのか。地下で止まったままの車内からはさっぱりわからない。

 サラリーマンは、周囲が自分に関心を持っていることを感じ取り、カバンのなかからWi-Fiを出した。そして、独り言のように、「そと」で起きていることをまるで聞かせるように説明した。

 その説明を聞いても、現実味をなかった。実際に揺れを感じているというのに、どうしても頭が理解を拒絶する。

 一時間以上地下で電車は止まったままだった。Aは小便がしたくなってきた。このままでは漏らしてしまうかもしれない。いまは難事で、漏らしたところで構わないようにも思う。アンモニアの匂いが車内にたちこめることを想像した。周囲の人々は鼻をつまみながら別の車両へ移動するだろう。そとのことよりも、なかで起こるかもしれない出来事のほうが、リアリティをもって迫る。尿意と車内の閉塞感で、Aは腹をさすりながら震えていた声をかけるものはいなかった。

 しばらくして動き出し、電車は次の駅に停車した。一番近い避難場所であるアリーナへ移動してくださいというアナウンスがあった。

 地上にあがると、街は平然としている。食い物屋は混雑していた。そしてぽつぽつ、人々が同じ方向へと向かっていた。

 見知らぬ街に対する不安より、この異常事態への混乱の方が勝っていた。幾分落ち着いていたのは、駅の便所で大量の小便をしたからということもあるかもしれない。腹をすかせたまま、Aはアリーナに向かった。

 アリーナではライブが開催予定だったらしい。なかはセットを建設中だった。なかは危険なので集まった人々は、周囲の通路に集まっていた。壁に大きくスライドが映されている。津波の映像だった。テレビの中継レポートで、緊張感あるアナウンスがなされている。

 自宅に帰ることができるだろうか。そのときやっと、Aはことの重大さを悟った。自分が帰ってこないことを、家族は心配しているかもしれない。母は家にいることだろう。さっきの大きな揺れで、家具が倒れてしまっているかもしれない。妹はきちんと家に戻っているだろうか。そして、父は死んでしまったのではないだろうか? 母や妹はどんなことがあっても生きていてほしい。もしいなくなってしまったなら、自分は泣き叫んでしまうだろう。では父は? 正直なところ、自分のなかで言葉にすることができなかった。

 電話をしたほうがいいだろうか、と公衆電話を探した。長蛇の列の先に、電話があった。しばらく並んでいたのだけれど、いっこうに自分の番はやってこない。Aは諦めて、列から離れた。

 その周辺で働いている人たちが続々とアリーナへやってくる。牛丼の入った袋を持った集団が話しながらやってきた。Aは自分が腹をすかせていることに気づく。毛布が配られ、Aは受け取ってから壁際に座り込んだ。自分が行こうとしていた美術展は大丈夫だろうか、と考える。きっともう行くことはないだろう。とおくてよくみえない。スライドの映像を、Aはぼんやりと見続けた。

「どうぞ」

 女がお菓子を配っていた。女はAのところまできて、手渡してくれた。感謝の言葉を述べると、女は頷き、そばにいた人たちにも菓子を配っていった。

 知り合いと共にやってきた人々の会話に耳をすます。若い男たちの集団は、お気に入りのグラビア・アイドルの話をしていた。別の男女グループは、明日のプレゼンがどうこうと、こんななかでも打ち合わせをしている。日常と非日常は交差せず、混ざっている。

「これまで平和だったっちゅうのがな、異常だったんだわ」

 おっさんのでかい声は、さっきまでノイズとしてしか耳に受け付けることがなかったというのに、その言葉だけがきちんと、頭の芯まで届き、Aは身震いした。まだおっさんはがなりたてていたが、あとはうまく聞き取ることができなかった。

 ここから意識を飛ばそうとAは試みた。たとえば、カバンのなかに入っている図書館で借りたばかりの夢野久作の小説のことを考えてみる。学年末テストの出来や、明日ある(たぶん中止だろう)部活の練習のことを考える。そして、帰り道のことを考える。


 とにかく、渋谷まで着けば、家まで歩いて帰ることができる。余震は続いている。移動はお気をつけください、というアナウンサーの声を思いだす。でも、歩かなくては、たどり着くことはできない。あの家に帰りたい。Aはそれまで、家に対して愛着などもっていなかった。家は当たり前にあった。そこには家族がいた。自分をかわいがってくれた祖母は亡くなってしまったけれど母も妹もいる。父はなにかと自分のことを殴ったりバカにし続けたけれど、いまはもう言葉を交わすこともない。

 その次に思ったのは、中学の同級生たちだ。いつだってバカなことやシモネタしか話さない、連中だったが、もう会えないと考えたら、急に彼らに対して愛着のようなものが感じられた。自分が選んだわけでもないクラスメートと学校だというのに、かけがえのないもののように思われた。小学校のクラスメートのことも考えた。卒業してから一回もあっていないけれど、たしかにある一定の期間、同じ場所で過ごした人々だった。どれもこれも、べつにすべてがいいやつというわけではない。いけすかない人間だってたくさんいた。こらしめてやれるものならこらしめてやりたいやつだっている。なのに、「もう会えない」と仮定した途端に突然すべてが惜しくなる。

 そしてAは担任教師のことを思い出す。担任は、Aの所属する水泳部の顧問でもある。Aは造形物として、担任の体のフォルムがとても好きだった。完璧に筋肉が張り付き、肩幅の広さ、胸から脇にかけてのカーブ、そして大きく盛り上がった尻と、腿から足首までのなだらかな曲線が好きだった。固く割れた腹にも憧れた。何度か更衣室で見た性器のかたちも、思い出そうとすれば、完璧に瞑った目の闇のなかで再現することができる。

 なんとなくいつも、いいたいことをうまくいえない。そんな気持ちにさせられた。これはべつに家族や友達にもあるのだけれど、担任の教師に対して、Aはもっと切実に感じていた。

 伝えたい何かがあるのだ。

 実際のところ、それを伝えることはないだろう。うまく口にできそうになかった。そもそも、その伝えるべき何か、をAは理解していなかった。


 東横線が動き出したので、駅まで移動してください、というアナウンスがあったのは、夜遅くになってからだった。人々はぞろぞろと暗闇の道を歩く。途中にコンビニエンスストアがあったが、「飲み物は売り切れました」と張り紙が入り口に貼ってあった。食い物もなさそうだった。

 列は延々と続いている。先の先に、電車らしき光の線が左から右へと過ぎていくのが見えた。駅に向けて、人々は黙々と歩く。街灯はついていたけれど、暗い夜道だ。

 この行列は本当に駅に向かっているのだろうか。駅はただの通過点であり、人はそれぞれの場所へ戻ろうとしている。

「ほんとうに、その場所にたどり着くことができるのだろうか?」

 でも、歩き続けるしかない。この行列の、一員になって、まずは混乱をきたしているであろう、駅へ向かうしかない。

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