第55話 熊本くんの小説35

 上京して一年が過ぎようとしていたけれど、これまで滋賀に帰ることはなかった。

 はじめての帰省がこういうかたちになるとは思わなかった。

 喪服姿の母が、ベンチでうなだれていた。

「なにか飲む?」

 俺が声をかけても、首を振るだけだった。

「どうしてこうなっちゃんだろうねえ」

 それほど大きくはない母の声が、いつもより小さい。

「わたしはね、若いとき、おばあちゃんになんでもかんでも止められたのよ。海外旅行に行こうとしたら、『飛行機が墜落したらどうするの? 向田邦子だってそうだったじゃない』っていわれたりさ。関係ないじゃない」

 喪服の一団が通り過ぎる。多くの人が死に、焼かれていく。火葬場は時間刻みで団体が入れ替わっていく。

「あんた、小さい頃いつもあいつに殴られたりしていたじゃない。わたしもおばあちゃんも心配して。のぞみと二人で暮らすようになって、はっとしたの。あの子のことをほったらかしにしてきたのかもしれないなって。だからね、もしかして、わたし、いいなりになっていたのは、罪滅ぼしのつもりだったのかもしれないわね。でも、結局どうにもしてあげられなかった」

 妹が死んだ。首吊り自殺だった。そして発見したのは、飯を買ってこいと命じられ、近所の弁当屋から戻ってきた母だった。


 遺品を整理すると、ディズニーランドの土産で買ったお菓子の缶詰が出てきた。なかにはさまざまなものが入っていた。雑誌に載っていたヘアアレンジの切り抜き、サンリオキャラクター(妹はキキララが好きだった)のシールや鉛筆。期限の切れたマクドナルドの割引券。少々幼い、十代の小娘がわざわざ大切にとっておいたものたちだった。そして、キャンパスノートが一冊入っていた。そこには、細かい文字がぎっしりと乱暴に並んでいた。

 死ねちくしょうクソあほ殺す死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねクズゴキブリバカふざけんな呪ってやるおまえら全員死ね地球滅びろぜんぶおまえらのせいだてめえふざけんな死ねウジムシおまえらばっかりいい目にあって死ねクソ死ね……

 どのページを見ても、罵りの言葉しかない。ぱらぱらめくっていると、ある言葉が目に入った。

 祥介ホモ死ね地獄におちろクソ

 しばらくじっくり眺めて、目に焼き付けてから、ページを閉じた。

 これを書いているときの妹の暗い感情を想像した。

「いわれなくたって、どうせ死ぬんだ」

 俺は呟いた。部屋に妹がまだいる気がした。自分のなかにある暗がりに身をひそめ、家族や世間に呪詛を送り続けていた妹を思った。悲しさや後悔と同じくらいに、どこへぶつけたらいいのかわからない怒りがあった。

 そして、缶の底に、封のされた手紙があった。

 これは遺書かもしれない、と告げると、俺の手から奪い、母は乱暴に手紙をあけた。

 しばらくして、手紙を俺によこした。


××さん

 はじめてお手紙を書きます。わたしは滋賀県の大津市に住んでいるものです。ここは、ご存知だと思われますが、琵琶湖が有名です。わたしはここに、二年ほど前から住んでいます。両親の転勤でやってきたわけではありません。夜逃げしたのです。自分の人生にこんなことが起きるなんて、いまでもびっくりしています。わたしは年令でいったら高校生ですが、学校にいっていません。いけないのです。お金がないからではありません。東京の家を離れてしまったこと、友達たちと別れ別れになったこと、滋賀県にきたこと、そのスピードについてこれなくなって、息がうまくできなくなってしまい、そのまま、家にずっといます。

 家族は、二人います。お母さんと兄です。お母さんは、たぶんわたしよりずっとショックなはずなのに、「そんなことないわ」みたいな顔をして、平気な顔をしています。それを見ているとイライラします。なんだよ、あんたがそんな顔してたら、わたしが悲しくて怖いしつらいってことをうまくいえないじゃないか、と勝手に思い、憎まれ口を叩いてしまうのです。わたしはお母さんが大好きなのに、うまく伝えることができません。

 そして兄はわたしの一つ上です。家がこんなことになったというのに素知らぬ顔で学校に通ってアルバイトをしています。運動バカで体を鍛えています。本をよく読んでいますが、わたしはぜったいに頭になんて入ってないと思っています。

 どいつもこいつも、わたしを置いてけぼりにするのです。わたしはだれにもうまく伝えることができなくて、そんなことを考えていたらいつでも頭がぼーっとしてしまっていて、動きがのろくなってしまいます。そんな自分が大嫌いです。

 ××さんのことは、深夜にやっている『カウントダウンTV』で知りました。スタジオライブを見ていて、わたしは泣いてしまいました。××さんが歌っていた曲の歌詞は、わたしのいまの気持ちにぴっしゃりとはまってしまったのです。テレビのある部屋は、お母さんと兄が寝ている部屋ですけれど、わたしはかまわず深夜まで観ています。テレビが完全に終わってしまう瞬間が好きなのです。画面が真っ黒になったとき、なんだか死ぬってこんなことなんじゃないかなあ、と思えるのです。でも数時間もしたらまたテレビは復活します。ふたたびいろんな映像や音が流れます。生き返った、んじゃなくって、それってなんだか、人が別の人生をもう一度始めたような気がします。出てくる人はほぼ同じで連続しているけれど、放送が始まるたびに別の人生みたいな。季節の変わり目に番組が終わってしまって新しい番組が始まるのも、なんだか人間は永遠にこの世の中を死んでは生きてを繰り返しながら、生きているうちに新しいなにか出来事が生まれて、それが次の人生に続いていくのではないのかな、なんて考えたりします。わたしは学校にいっていないので、いつでも横になっているので、そんなことを考える時間はたくさんあるんです。やばいでしょうか。

 書いているうちに別のことを書いてしまいました。ごめんなさい。××さんの新曲『××××××』がすごく素敵で、わたしはどうしても何度も聞きたかったので、ショッピングモールまでいってCDを視聴しました。買いたいのですけれど、わたしにはお金がないんです。お母さんのお財布から二千円くらいとってもばれないかな、ばれたところで怒鳴ってやればいいのですけど、でもこんどは、そのCDを聴くためのプレイヤーが家にはないのです。パソコンもありません。兄がアルバイト代で買うつもりらしいことを母に話しているのを聞いたので、勝手につかってもいいかな? と思っています。

 CDショップでちょうど、ニューシングルの視聴コーナーに××さんのがあって、わたしはずっと聴いてしまいました。しばらくして、店員に声をかけられてしまい、あわてて店を逃げ出すことになりました。なんて素敵なんだろう。前奏を思い出したらドキドキするし、サビの部分を口ずさんだら、なんだかどんどん生きる勇気が湧いてきます。

 ××さんがどんな人なのか知りたくて、音楽雑誌を読もうとその足で本屋さんにもいきました。そこは兄が働いている本屋です。かったるそうに兄がレジにいます。ちょうど音楽コーナーは棚の並びでレジからは見えなくて、助かりました。『ロッキンオンジャパン』にインタビューが載っているのを見つけて、わたしは夢中で読みました。××さんが小さい頃に両親が不仲だったことやうまく学校になじめなかったこと、わたしと似ている、と思いました。そんな書き方おそれおおいですね。でも親近感を感じました。そして唯一の理解者で、高校の同級生の、いま××さんの奥さんのお話を読んで、いいな、いいな、と思いました。そんなひと、わたしのまわりにいないのです。わたしが学校にいかないからいないんだよ、っていわれてしまいそうですね。今度出るらしいニューアルバムも全部聴いてみたい。これまでの歌やインディーズで出したものも、全部聴きたい。そう思っています。

 ××さんの歌のおかげで、わたしは目標ができました。それは、××さんの歌を気兼ねなく聴くことのできる、一人暮らしの部屋をもつことです。プレイヤーもそこにはあるし、パソコンだってあるので、取り込むことだってできます。自分のお金で、手に入れたいのです。

 わたしもいつか、歌詞を書いたりしたいです。それを誰かが歌ってくれて、聴いた人が、自分もこんなことを考えていた、ひとりじゃなかったんだって、××さんの曲を聴いたときのわたしのように、死にたいなあ、って思っていた自分をちょっと変えてくれるような存在の歌を作りたいです。

 でもそれをするのには問題が山積みです。いまわたしは学校にいっていないし、家族といい感じではありません。わたしの目標を家族に話したら、二人は馬鹿にする気がします。母と兄はすごく似ている部分があるので。勇気をだして明日いってみようかな、って思ったりしています。

 わたしは二年くらいずっと学校にいかなかったし、きっと人より頭が悪いとおもいます。中学の頃はクラスで真ん中くらいの成績で、高校進学できれば別にどうでもいいと思っていました。いまはきっともっと下です。英語も数学も理科も内容を忘れています。

 こんなわたしでも、××さんのファンになっていいでしょうか。わたしはすごく嫌な子で、バカで、なんの取り柄もなくて、中学の友達とも連絡をとらなくなっちゃったから、友達は誰もいません。

 明日から、少しずつ、がんばっていこうかな。

 明日、がんばりますから、今日だけは、泣き言をいって、書いてもいいでしょうか。

 わたしは、突然滋賀にきて暮らすとかしたくなかったし、お母さんにもっと優しい言葉をいってあげたかったし、よくわからないお兄ちゃんのことを知りたかったし、学校にきちんと行きたかったし、友達が欲しかったです。楽しい高校生活を送ってみたかった。たくさん笑いたかったし、辛いことだって、笑い飛ばせる自分になりたかったです。

 ××さんみたいな人が同じ学校にいたら、わたしはファンとして絶対応援したと思います。

 これは、もうダメなやつなんでしょうか。叶わないやつでしょうか。わたしはすごく怖いです。怖くて怖くて、一歩もすすむことができません。わたしがいられるのは、家と、近所のショッピングモールだけです。ショッピングモールはすごく楽です。わたしがふらふら歩いていても誰も注意しないから。ヤンキーっぽい男たちに後ろから「ブス」と叫ばれたことがありますけれど、無視すればいいんです。もしわたしが、そんなやつらになにかひどいことをされても、きっと誰も同情してくれません。経験から、知っています。わたしがどんな目にあったとしても、誰も気づいてくれないのです。小さい頃兄が、父親に殴られ、お母さんもおばあちゃんも兄のことばかり気にしていて、わたしが初潮になったときだって気づいてくれなかったんですから。

 わたしには、いまはもう友達もいないし、バカで親に迷惑をかけてどんくさくてブスなんですから。あたりまえなんです。

 そんなわたしでも××さんのファンになってもいいでしょうか。

 CDも買っていないし、わたしは××さんのファンとして、こーけんすることもできなくて、そんなわたしでも、いいでしょうか。

 ながながと書いてしまいました。こんなお手紙を読まれて、気を悪くされたらほんとうにごめんなさい。でも、どうしても、新曲の感想を伝えたくて、お手紙を書かせていただきました。

 これからも、がんばってください。もしコンサートなどあって滋賀県に立ち寄られることがありましたら、どうか、こんなあなたのファンがいたことを思い出してもらえたらうれしいです。

 どうか、おからだお気をつけて。

敬具。


 宛先のない、出すことのなかった手紙だった。

 母は、静かに泣いていた。


「祥介、学校あるんでしょ。東京に戻りなさい」

 俺たちは、近所にある定食屋に入った。こういうところ、一人じゃ入りづらくてね、と母はいった。狭い店内に、客は作業着を着た男だけだった。漫画雑誌を読みながら飯を頬張っている。

「もうしばらくいようかな」

 そういうと、

「いてくれるとうれしいけれど、ちょっとわたしも一人になりたいのよ」

 と母はいった。

「ほんとうに、うれしいんだけど」

「わかった」

 思ったことをうまく口にできずにいると、母は俺の顔を見て、いった。

「大丈夫よ、わたしは死なないから。自分でそんなことする度胸なんて、わたしにはないよ」

 母は空笑いをした。

「おばあちゃんが死んだとき、覚えてる?」

 俺たちのテーブルに、頼んだ定食が置かれた。

「あのとき、おばあちゃんが夢に出てきたってわたしとあの子、しゃべったことがあったでしょう」

「のぞみの夢に出てきて、水をくれっていってたってやつ?」

 葬式を終えて少したってから、妹が、おばあちゃんが夢にでてきた、といいだした。夢の中でも妹はベッドで寝ていた。目を覚まして横を見ると、祖母がそばで座っていたという。そして、喉がかわいた、と妹にいった。妹はいつも寝るときにベッドのそばに置いている爽健美茶のペットボトルを渡した。祖母は受け取り、ごくごくと飲み干した。ありがとう、これでまた歩ける、といって祖母は立ち上がり、部屋を出ていったというのだ。

 その話を聞いて母は、実はわたしの夢にも出てきたのだ、といった。

 おばあちゃんはただ微笑んでいたという。「別れの挨拶にきてくれたのかしら」となにもかもに疲弊していた母は苦笑いをしていた。

 祖母に気にかけられていたはずなのに、俺の夢には、いっさい出てこなかった。

「あんなふうにあの子も出てくるのかしら」

 野菜炒め定食に箸をつけることなく、母はしばらく物思いにふけっていた。

「どうだろうね……」

 なんとも返事ができなかった。まつりやあの女は夢にでてくるというのに、俺の夢には祖母も妹も出てこない。

 自分も、十一月で死んでしまうかもしれない。母が箸を手にしたとき、俺は少し、安心した。

 コンビニで買い物してから帰る、と俺はいい、母と別れた。母の背中を見送りながら、俺は電話をかける。

「どうした」

 すぐに崎谷はでた。

「いま実家」

 俺はいった。

「そうか」

 店の前で、高校生らしき集団がたむろをしている。寄る辺ない。地べたにあぐらをかき馬鹿笑いをしている男女を見ていたら、いきなり、妹が死んだ事実が重しのようにのしかかってきた。

「なんだよ黙って」

「いや、なんでもない」

 結局しばらく黙っていた。平静を取り戻そうとした。

「大丈夫か?」

「前にいっていたビデオ、出るよ」

 今度は向こうが沈黙をした。

「本気か」

「うん」

「どういう心境の変化だ」

 提案をしたやつがなにをいう。

「やってみてもいいかな、と思ってね」

「そんな軽はずみな」

「俺はあの狭いコミュニティで有名人になれるかもしれないんだろ。俺のことを見て、どいつもこいつも発情するような」

 なにも残せないまま死んだとして、自分のセックスが残るのも悪くない。それはデータとなって、浮遊する。

 電話を切ってから、コンビニに入り、爽健美茶を買った。冬だというのに、生暖かい夜だ。

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