第54話 熊本くんの小説34

 公園でランニングしているとき、何度も目が合った。公衆便所の壁を背に、その少年は立っていた。今日はノースリーブに、スウェットパンツ姿だ。深夜二時。誰かと待ち合わせでもしているように見える。携帯をいじっていたり、ただトイレの周囲をうろついていたりする。一キロのコースを十周して、一息ついた俺は便所に入った。小便器は二つ、和式便所が一つある、狭い便所だった。すこししてその少年は入ってきた。俺の横で小便をし始めた。俺の便器のほうを男は覗いた。便器から一歩離れ、手で硬直した性器を付け根から引っ張っていた。蛍光灯の下で、次第に勇敢にも自分の性器を弄びだす。俺が気がないならばさっさと立ち去るだろうし、あわよくば、相手をしてくれると踏んだんだろう。

 彼の顔は幼かった。俺よりも若い。ノースリーブから出ている腕が割と太く、鍛えているのかもしれない。

 そのまま見ている俺に、見込みがあると思ったのか、そいつは俺のアンダーアーマーのパンツを脱がせ、下着に顔を埋め、匂いを嗅ぎだした。

 その男はしゃぶりながら、手で自分のものをしごきつづけていた。たまに俺を見上げながら口を動かし続ける。和式便所の個室のなかで、しばらく俺は男の頭を抱え、ときおりガクガクとその頭を揺らし大きく出し入れさせたり、自分の腰を振り喉の奥まで突き刺したりした。

 この男の吸い方は的確だった。射精の芯に届いてしまいそうになるのを察知すると口を離して、自分の頰に俺の性器で打たれるような仕草をとったり、睾丸を飲み込んで飴を舐めるように弄んだりした。

 一度小便器が使われている音がしたとき、男は口を離し、そのあと俺を見上げながら先端を舌で摩った。まるで吐息を漏らせるためにあえて挑発するように。

 男の方が先に我慢しきれなくなり射精した。俺のアンダーアーマーとナイキにまで飛び散った。

「顔にかけてもらっていいですか」

 男はいった。子供のような声だった。

 俺は口から性器を抜き出し、そのまま男の鼻先に、男よりも多く、最後には痛みすら感じるほどに放出した。男の顔どころか、ランニングにまで、垂れていった。

「お兄さんいつもここで走ってるじゃないすか。クソエロいなあ、まじしゃぶりてえなあって。いちかばちかアタックしてよかったっすわ」

 便所を出て、俺たちはランニングコースを歩きながら走った。

 彼は名前をマサトといい、二つほど駅の離れた場所に住む、高校生だった。自転車でこの「有名な」公園でぶらついているという。

「お兄さんめっちゃ鍛えてますよね。やばいっすね」

 自分の名前はタクミだと名乗ったのだけれど、マサトくんはあくまで俺をお兄さん、と呼んだ。

 マサトくんはさっきまでとは打って変わって、高校生らしく、賑やかにぺらぺらと公園の出口まで喋り続けた。

 たまにおっさんに声かけられてやってやったら小遣いとかくれたりするし、まあそういうキモい系だったら一方的にしゃぶらせとけばいいし、シコる手間省けるし、いいんすよ、ここ。あ、お兄さんはむしろどストライクで、こっちが払いたい、ってかんじなんすけど。俺いちおう彼女いんすけど、まあやらせてくんないし、ていうかどっちかってーと男の方がいいんすけど、彼女、ま、いたほうがいいかなって、青春だし思っていちおう付き合ってて。で、一緒に学校から帰ったりするんすけど、あいつらまじでしょーもないことしか話さんでしょ。知らねえよ、エムステにどのジャニが今週でたかとか、ジャニタイプじゃねえし。漫画も『ワンピース』しか読まねえし。お兄さん近所なんすか。え、まじで今度家いっちゃダメすか。掘ってほしいんすけど。でもお兄さんのでかすぎっからな……今度ドンキでエネマグラとバイブ買って練習しようかなって思うんすけど、お兄さんのサイズ思い出したらドンキで勃起しちゃうかもしんねえすわ。つか今日のことオカズに百回はいけます。お兄さんまじ彼氏いないんすか? あー、でもあれかこれだけイケメンだったら彼氏なんていんねえか。アプリでひとことやりたいって書いたらめちゃ寄ってきそうですもんね。

 まじまたしゃぶらせてください! とさわやかに手を振りながら、自転車に乗ってマサトくんは去っていった。


 暗闇のなか、ラヴェルの「ボレロ」が流れ始める。明るくなると目の前はステージだ。下着一枚の男が、円卓の上で倒れている。それまでわからなかったが、ぎゅうぎゅう詰めの客席に俺はいる。この場所には見覚えがある。

「お久しぶりね、熊本さん」

 右隣から声がした。そこには、あの女がいた。

「こういう形でお会いするのは、わたしの趣味じゃないけど、仕方ないわ、いいでしょう。まるで小娘みたいじゃない。若い男の夢のなかに謎を匂わせながら現れるだなんて。ねえ、まつりさん」

 まつり?

 女が俺の左隣を顎で示す。振り向くと、セーラー服を着たまつりがいる。まつりは俺のことなど気にせず、ステージを見ている。

 ステージの男が立ち上がる。ゆっくりとした動き。ロシアの振付師が彼のためにオリジナルでこの曲につけた。踊っているのは篠崎だ。篠崎は、あの頃のままだ。違う、これは。

「あなたが観た公演よ」

 あの女がいった。

「あのとき、あなたが感銘を受け、その後あの少年と寝ることになった日の会場」

「わざわざこんな場所を選ぶなんて、気色悪い」

 まつりが口を開く。しかしまつりは舞台に目を向け、こちらをみようとしない。

「ちょうどいいじゃない。この踊りが終わるまでにすむ話よ。実はね、まつりさんがお亡くなりになっても、気がかりなことがあるらしいの」

「なによそれ、関係ないじゃない」

 まつりが叫ぶ。客たちは一切気にせず、舞台を見守っている。俺たちは、この空間にいながら、まったく別の空間に身を置いている。そして、口を開こうとしても、俺は声を出すことができない。失語したわけではない。この二人に話しかけるべき言葉が、一切出てこないのだ。

「あなたの夢のなかに侵入するなんて無作法なことをしてしまってごめんなさいね。そのうえ口出しさせないなんて、重ね重ねってものよね。でもね、仕方がないのよ。現実と違う時空、別の次元でないと三人が相見えることなんてできないでしょう。なのでせっかくだからよい芸術作品を鑑賞しながら対話させていただこうと思って」

「対話」

 まつりが口を挟み、舌打ちをした。

「もったいつけて、いやらしいったらない」

「まつりさん、死んでから自分を隠すことをやめたのね。生きてるときはわたしの前では神経を病んだ猫みたいだったのに」

「なんであんたと顔を付き合わせなくちゃいけないわけ?」

「わたしに会いたがっていたでしょう? このままだと成仏できないままわたしにつきまとって呪い続けるだけよ、永遠に」

「永遠」

 まつりが鼻で笑った。

「ええ、わたしはわるいけど、地球が滅ぶまで生きるわよ。滅んだところでかまわないし、なんなら身体がなくなっても生きられることでしょう。わたしは長生きなものでね。教えてあげましょうか、邪馬台国がどこにあったか、ほんとうに織田信長は本能寺で死んだのか、二・二六事件の真実とか、なにか質問ある?」

 嫌な笑い方をした。

「くだらねえ、さっさと用件だけいいな」

「あの子を不幸にしているのはまつりさん、あなたよ。無駄だから消えなさい」

 沈黙。そして舞台では鎖に縛り付けられながらもがき続ける振りが起きている。もうすぐ、その鎖は砕け散り、篠崎は天に向かい飛翔をしようとするのだ。

「あなたはサポートしているようですけど、それは逆にあの子を不幸にしているだけだわ。だってあなたはもうあの頃のあなたじゃないから。じきにあなたの感情だけが残されることになる。そうなったら存在するのは、恨みと執着心だけ。わたしはかまわないけど。あなたみたいな連中はくさるほどいるもの。すべてに勝ってきたし、あなたにも負けない。ねえ、あの子は枠の外にいるのよ。あなたのお兄さまと寝ようがね。わたしの物語の登場人物ではない。さほど面白くもない子よ。あなたが手放しさえすれば、あの子は普通に、ただの若い頃お友達を失っただけのよくいる女の子でしかない、幸福なね」

 女はゆっくりと、説き伏せるように話す。

「ふざけてんじゃねえぞ」

「あなたとわたしではジョークのセンスが違いますからね。無駄なことはもうしないわ。わたしは二度とおなじことはいわない。あなたは乗り越えられると思って期待してみたけど、とんだ期待はずれでしたよ」

 てめえ、殺してやる、ぜってえに殺してやる、とまつりは叫ぶ。その声をかき消すかのように「ボレロ」が大きくなる。

「身動きもできないようじゃ、あなたは結局わたしよりも弱い」

 篠崎はまもなくすべてのしがらみを解き放つ。音楽がまもなく最高潮に達する。

「なんで熊本さんの夢のなかでこの聞き分けのない子に宣告することになったかって話をしましょう。人は夢でしか、霊魂と対話できないからなの。わたしは夢なんて見ないものでね」

 音楽が轟音となっているというのに、女の声ははっきりと伝わってくる。

「あなたの夢を勝手に間借りしたから、せめてと思って懐かしい思い出をもういちど見せてあげたかったっていうのに、すまないわ。もうこれで、思い出は更新して捏造されてしまったかもしれないわね。でも、別にいいじゃない、どうせ戻ることもできないのだから」

とくに謝る気もないらしい。

 この夢は、いつまで続くのか。篠崎はあのときとおなじようにもがき天にのぼろうとするが叶わない。そもそも、羽がないのだ。そして、篠崎の飛翔をはばむように、無数の、無名の他者たちが篠崎に押し寄せ、その行為を阻もうとする。

「もうじき終わるわ。そうね、せっかくだからあなたの死ぬ日を決めましょうか。二十歳の誕生日前日の夜なんてどう? あなたが成人を迎えることができたら、あなたがわたしに勝ったってことよ。わたしは妨害はしないし、くだらない試練なんて与えない。むしろあなたが打ち勝つ姿を見てみたいと思っているわ。なにをしたらいいかも、明確にしましょう。あなたがもっとも苦手とすることを、それまでにしなさい。あなたがほんとうにしたかったことを成し遂げなさい。見て見ぬ振りをしてきたことを、しなさい。結果はどうであれ、それがあなたを生かす。まつりさんはできなかった。いい線までいっていたけど、詰めが甘かった。愚かで、混乱していて。あなたはできるかしら?」

 じゃあね、もう会えないかもしれないわね、といって女は立ち上がり、観客たちを踏みつぶしながら劇場を去っていく。

 篠崎の飛翔は失敗に終わり、再び舞台に倒れこみ、闇。

「タクミ」

 まつりの声。

「違う、タクミのなかのお前」

 まつりの声だけがする。

「あんたがしたいことはなに?」

 タクミを殺して、もとにもどりたい? ならあんたがこいつを捨てなくてはならない。あんた自身でね。あんたには耐えられないかもしれない。この人格はわたしが作ったんだから、わたしが壊してやってもいい。でもね、手伝いがなければ戻れないくらいに弱いなら、結局死ぬだけ。そのままおとなしくしていな。そしてなりゆきを指でもかじって見ていればいい。わたしはあんたみたいなやつ大嫌いだよ。野たれ死んでくれてもかまわない。でもね、これはあんただけの問題じゃ……。

 闇はもっと深くなり、そして、意識は途絶えた。


 いつも通りの朝だ。ひどく汗を掻いていて、虚脱感ばかりがあった。しばらくしても、ぼんやりしたままだった。麦茶を飲むと、体は思っていた以上に乾いていたらしく、沁みた。

 夢のなかで、女とまつりがいったことを反芻した。俺は、二十歳の前日の夜に、死ぬ。

「見て見ぬ振りをしていたことなんて、ない」

 俺はいった。

「ない」

 もう一度いうと、腹が鳴った。

 女は、俺にはいっていなかった。まつりもそうだ。熊本祥介に、いった。

 祥介、じゃあ、お前はなにをしたい。

 もう一度、腹が鳴る。

 タクミを殺す。待てよまつり。俺はタカハシタクミであり、熊本祥介だ。一心同体だ。もう離れることなんてできない。


 崎谷の部屋にあるCDは、『クラシック百選』とか『モーツァルトベスト』といった、あたりさわりのないクラシック名曲集ばかりだった。

「不眠症になったとき、モーツァルトを聴けといわれて、池袋の地下道で千円で売っているやつを適当に買った」

 崎谷はディスクを見ている俺にいった。

「で、治ったの」

「朝まで眠れなかったのが、夜明け頃には眠くなりかけるくらいだ」

 自分の症状に効果はなかったらしいが、習慣になってしまったという。

「曲名も知らん。そんなものに興味はない」

 シャワーを浴びよう、といって崎谷が起き上がった。

 ふたりで狭いユニットバスに入り、シャワーを浴びた。

「なあ、依頼があったんだ」

 崎谷は俺の背中にボディソープをつけ泡立てていた。

「なに」

「俺たちのセックスを撮影したいやつらがいる」

「悪趣味だね」

 誰かが自分に露骨な欲望の目を向ける。考えると不思議なものだった。その視線にさらされた自分を想像した。その眼差しは自分の肌に刺し、纏い、湯気を立てる。自分の実態をぼやけさせる。映された自分は、もう自分ではない。そもそも、自分という存在が、俺にはわかっていなかった。あまりに無防備に生きていすぎていた。たとえば、二丁目で向けられる目や、公園のマサトくんに見つめられたときのような、わずかな痛みと、隠すことのできない優越感がそこにはあるのかもしれない。

 痴態を不特定多数に見せることは、快楽に助走をつけることになるのだろうか。

「アダルトビデオ、といってもゲイ向けのやつだけど」

 俺は昔、男優をしていたんだ。といっても相手役というか、モデルを引き立たせる張り型みたいなもんだよ。あの界隈じゃ俺がお前をマネジメントしてるってことになっているみたいなんだな。で、話がきた。聞いてみると、悪い話じゃない。最近はネット動画がメインだから、短めで本番一回分、ゲイなら四五万くらいしかギャラがない。ノンケでもプラス一二万てとこらしい。部活でバイトをできないやつの小遣い稼ぎってとこだな。でも、今回は単体DVD一本分、お前をメインで撮りたいんだってさ。交渉は俺がしてやる。悪くない値段まで上げてやるよ。

「お前は、美しい肉をしている」

 崎谷の目にいつもより熱がこもっていた。

「肉って」

「ああ。お前の体は、傷が何一つない。ほとんど奇跡的だ。脱腸の手術跡も、つまらないあざやデキモノもない。完璧なかたちで筋肉がついている。それに、いい顔をしている」

 そういって、崎谷は俺の胸にボディソープのついた手を当てた。

「顔も悪くない。まあ、そこは趣味が分かれるだろうけどな」

「悟ったとき、人工的になるんじゃなかったっけ」

 俺は摘まれている乳首の感覚に堪えながらいった。

「お前は俺のことをなんとも思っていないだろう。だから、大丈夫だ」

「そんなことは」

 といってから、言葉がでなかった。

「お前は若くて傲慢だから知らないかもしれないだろう。教えてやるよ。いいか、人間が一番好きなものはな、自分のことを決して好きになってはくれない、好きな人だよ」

 そしてな、人間ていうのは小狡いから、自分にとってほんとうにどうでもいい人間とつがいになろうとする。発情とか、生理とか、財布の事情を駆使して、こいつならまだましだと自分を錯覚させる。そのほうが楽だし、建設的だ。傷つかないしな。時間がうまく経てばそこそこ情も湧いてくる。

「それは」

 俺はいった。

「愛の告白だ」

 シャワーの音が煩わしい。ただ見つめ合うだけの形になる。そして、崎谷の言葉を信じるならば、こんなに長ったらしい、しかも様々な問題を含んだ「愛の告白」には、戸惑うことしかできない。

 四十を手前にした男の、洗練されていない告白には、まわりに滑稽味がこびりついていた。なのに、笑えない。

 この男とアダルトビデオに出ること・出ないことは、ぶつけられた言葉の返答として機能することになるのか。この男は出て欲しいのか? なにもかもわからないまま、熱い湯は崎谷を弾き、飛沫が俺の肌をうった。

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