第53話 熊本くんの小説33

 崎谷は部屋の鍵をかけない。雑多なものにまみれている部屋から、なにか盗まれたところで、この男は気にしないのだろう。

 ノブを回し、部屋に入ると、崎谷はベッドの上でBeatsのヘッドフォンを耳に当て、目を瞑っていた。

 ヘッドフォンを外すと、「モルダウ」が小さく流れた。

「なんだよ。ちょうどいいところだったのに」

「さっきアキくんと飲んだ」

「お前ら仲がいいな」

 そういって崎谷は起き上がり、マルボロのメンソールライトに火をつけた。

 俺は窓を少しあけた。

「雑誌、みたよ」

 ああ、といって崎谷は煙を吐き出した。

「いい顔をしていたな。実物より二割増しくらいに。どうだ、モテたろう」

「飲み屋で酔っ払いのおっさんに声かけられた、雑誌買ってシコってくれるってさ」

「人気者じゃないか」

 手に持っていたBeatsからは、チャイコフスキーの『くるみ割り人形』の「こんぺい糖の踊り」が流れだし、すぐに終わる。バーバーの「弦楽のためのアダージョ」が始まった。

 吸い殻の山にタバコを突っ込み、崎谷は俺の手を握った。

「人間てのはさ、美しい時期が必ずある。どんなブスでもクズだろうとな。それは人生のなかでほんの一瞬だ。人によっては一日だけかもしれないし、十年続くことだってあるだろう。ただし残念なことに、自分ではその最中にいることに気づかない。気づいたら瞬間美しさも消えてしまう。なぜなら美しさというのは、本人が理解した途端に人工的でつまらないものになるからさ」

 そういって崎谷は俺をベッドに引き寄せた。

 この狭いベッドで、長身の男二人が寝るのはひどく窮屈だ。床に落ちてしまったら、置きっ放しになっているさまざまなものに当たって怪我をしたり、壊してしまうかもしれない。そういう昔話があったような気がする。落ちたら針に突き刺さるから、じっと我慢していなくてはならない。

「その話のオチは? お前はいま美しいとかそういうことをいいたいわけ」

「それを決めるのはお前だってことさ。まあ、人にできることなんて、盛りの季節が終わったと悟ることだけだ」

 自分が生きているあいだにそれは訪れるのだろうか。あるいは、もうすでに、過ぎ去ってしまっていて、自分はただの残りカスなんではないか。

「あんたは昔、身体も心も弱かったっていっていたよね。そして、願掛け? するために刺青をいれた。そして人生を変えた」

 俺は崎谷の肩の梵字をさすった。

「そうだ」

 崎谷が俺の口を吸った。このまま性交に至る前に、聞いておきたいことがあった。

「じゃあ、その弱かった自分は、いま、どこにいるの?」

 そう訊ねると、崎谷はまっすぐに俺を見つめた。しかし、俺の顔を見ているわけではなかった。

「いまだって、弱いままだ。どこにもいけないさ」


 みのりちゃんは俺の家にやってくると、すぐに本棚に向かう。俺の読書の進行状況を彼女はこの世で唯一把握している。

「あ、川上未映子の新刊じゃん」

「知ってるの?」

「わたしだって川上未映子くらい知ってるわよ」

 みのりちゃんは棚から取り出し、ぱらぱらとめくった。

 たこ焼き機を勢いで買ってしまった、と昨日みのりちゃんはいった。

「散歩していたら、町の電気屋で閉店セールをやっていて、狭い店に人がごった返しているのをみかけたの。こんなに人がくるなら閉店することなんてなかったのにね」

 と少々怒り気味でしゃべった。義憤(?)にかられたのかもしれない。

「たこ焼き機をみつけて、こういうの大阪にしか売ってなさそうだよなあって、ほら、大阪の人っておかず、たこ焼きなんでしょ?」

「いや、わからんけど」

「そうしたら、お店の人に声かけられて、値札より安くするとかいわれちゃって、思わず買ってしまった。でも、たこ焼きってどう作ったらいいの?」

 きみの持っているスマホで検索しろ、と切り捨てることはせず、じゃあうちに持ってきなよ、と俺は提案した。

 たこ焼きが食べたくなったのだ。

「すごいね、うまいね、たこ焼き屋でバイトできるよ」

 俺が串でたこ焼きを回しているのを見て、みのりちゃんは驚いていた。彼女は、いっさい手伝うこともなく、ただ俺の手つきを眺めていた。

「食いっぱぐれがないね、それ」

 二人で三十個ほどたこ焼きを食べた。しばらくたこ焼きいらないや、といってみのりちゃんは寝転ぶ。せっかく買ったたこ焼き機も、次に使われるのはいつになるのだろうか。

「なんかさ」

 みのりちゃんの顔は本棚に向けられていた。

「熊本くんの本棚、ほしいなあ」

「これ、イケアで買ったやつだよ。まだ売ってるんじゃない」

「中身だよ。面白そうな本たくさんあってさ。わたし、本屋と図書館いっても、なに読んだらいいかわからないんだもん。かといって大学の課題図書とかでこれを読め、とかいわれたら読みたくなくなるし」

 だから、信頼できる人が、これ面白いよ、っていってくれるのを読むのが一番わたしにはいいみたい。みのりちゃんはそういって、げっぷをした。

「なるほど、ブック・コンシェルジュか。いい仕事だなあ」

 でもね、実は俺、小説を書いているんだよ。一瞬、いってもいいかなと思った。胃袋のなかにある大量のたこ焼きが身体をだるくさせた。

 でも、いわなかった。おなじようにたこ焼きまみれになっているみのりちゃんが、いびきをかいていたからだ。

 シーツをかけてやり、「ジムに行きます。帰るとき、鍵をポストに入れておいてください」と書いたメモと鍵を残して、俺は部屋を出た。

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