第52話 熊本くんの小説32

 これまで交接のあった人たちと比べて、崎谷は手馴れていた。下着モデルのアルバイトを終え、報告がてら崎谷と会った晩に、そのまま寝た。何度か近所で食事をし、その度に部屋にいくことになるとは、思ってもみなかった。尻をほぐされ、自分の性器より一回り大きな崎谷を呑み込むことができるようになるまで、時間はかからなかった。まったくそのつもりもなかったというのに、その器官を使いこなせるようになった不思議さは、行為にのめりこませることになった。

 アキくん曰く、「チベットスナギツネに似ている」崎谷の顔には猥褻さのかけらもなかった。この男は行為の最中に、懸命さなどおくびも出さない。病弱だった少年時代など想像がつかないほどによく動き、汗をかいているというのに、顔は熟練の外科医が手術をしているときのようだった。メスを入れることが日常になっているプロフェッショナルの雰囲気があった。

 アキくんのいうとおり、崎谷はこの狭いようでやたらと底が深いらしい「なんでも屋」だった。雑誌のグラビアをしないか、とあるとき崎谷はいった。

「わかった」

 しばらく考えてから、俺は答えた。

 崎谷は表情を変えずに「いいのか?」といった。訊いておいてなんだ、と思った。

「ゲイ雑誌のグラビアなんだけど、編集の××っていうのがお前の画像をツイッターでファボっていたんだ。知り合いだっていったら、ぜひってさ」

「顔映ってなかったのに?」

 下着メーカーのオフィシャルツイッターにも俺の顔はもちろん載っていない。

「崎谷の紹介なら松竹梅だと、竹以上ではあるって思ったんだろう」

 そういって、俺の頬を抓った。

「なんでもほいほいやるやるいうのも価値を下げるだけだぞ」

 やはり、訊いておいてなんだ、ということをいった。

「自分が絶対しないようなことをしてみるのも、経験としてはいいかなって思ったんだ」


 夢を見たのだ。あれは、滋賀の家にいたときのことだ。

 暗闇のなかに自分はいた。空気が淀んでいた。自分と闇との区別がつかないくらいに深い場所だった。

 どこかの寺で体験した、胎内巡りみたいだった。数珠を頼りに暗闇のなかをすすむ。でもここには、そんな案内となるような道標はない。

 いくら手を伸ばしても歩いても、地面以外に触れるものはない。途方にくれた。ただし、これが夢だということは理解していた。だから、自分が目を醒ますまで、まっていればよい、と思った。

 水の流れる音がする。

 川がながれているのだろうか。そう思い、音のほうへ歩をすすめてみようかと思ったとき、

「ストップ」

 と声がした。

 その声には聞き覚えがあった。

「渡ると面倒なことになる」

 声はいった。

「おまえ」

「死んだんじゃなかったのか?」

「そうよ、死んだ」

 横柄に、まつりの声が聞こえてくる。

「なにか質問あるんじゃない? 死後の世界てどうなの? とかやっぱ自殺すると地獄に落ちるわけとか」

 鼻で笑う。

「なんで死んだんだ」

 沈黙。

「なんでお前、死んだんだ?」

 もう一度、訊いた。

「それは、わたしがなんで車にはねられたのかってこと? それとも、あの女の呪いは本当なのか、ってこと?」

「どっちもだよ」

「最初の質問には答えられない。気が動転していたってのもあるし、わたしの個人的な問題。誰のせいでもない。ただ、わかったことがある。運命に逆らうには、並大抵のパワーじゃかないっこないってこと」

 答えになっていない答えを、した。

「それともう一つ、あの女の呪いは、やっぱり本当よ。あの女の世界に飲み込まれたとき、あの女の『設定』ってやつに従わざる得ない流れができてしまう。それを運命、としてもいい。きまぐれな化け物の遊びにつきあわされる」

「よく理解できない。でもまだ俺は死んではいない」

「あんたももうすぐハタチでしょう。御愁傷さま」

「そういう人を食った言い方は死んでも治らないのか」

「あんたは質問しなかったからこちらが先回りさせてもらうけど、多分生きているときに考える死と、死んでいる状態は違うらしいわ。まだ確証という段階ではないけどね」

 とつぜん声が真面目なトーンになった。

「なんであんたの夢にわざわざやってきたかっていうとね、わたしはあの女に一泡吹かせてやりたいんだ」

「そんな回りくどい言い方じゃわからない」

「あんたが生き延びる。それがあの女に対する嫌がらせになる」

 わたしは、あの女に初めて会ったときに「ハタチで死ぬ、かわいそうね、せめて短くも苦痛のない一生を過ごさせてあげる」といわれた。ぞっとしたわ。小学生になる前だった。あの女が突然家にやってきて、そのまま父さんを骨抜きにして、母さんを病ませて、家の実権を握り、兄貴の性処理をしているのを見てきた。あの女は正気だった。普通の、いえ、わたしのいる次元ではありえないタイプの。わたしからいわせれば、完全に狂ってる。人間じゃない。

 タクミ、あんたはあの女の枠から出な。そのためには、「自分だったら絶対しなかったこと」をしなくちゃいけない。人殺しとか強盗とか、普通に考えたらしないことをしろとか、自分の信条に反することをしろっていっているんじゃない。あんたの性格だったら、しないだろうことをしな。多分それはあんたにはわからないだろう。でも、それを意識して行動していけば、なにかが外れる瞬間が起きるはず。いいわね。


 滋賀でアルバイトをしていた書店での最終勤務のあとで、俺はパートの富野さんと寝た。女とできるのかを試してみたかったというのもあった。「わたしあんまりきれいな体じゃないでしょ、ごめんね」と富野さんは何度もいったが、そんなことは気にならなかった。そんなことないですよ、といえばよかった。ほんとうに、そんなことはなかったから。

 崎谷に声をかけられ、そのままモデルを引き受けたことも、「自分のだったら絶対にしなかったこと」のひとつだった。

 二十歳まで、自分にどんな選択ができるのか、見当がつかない。

 雑誌のモデル撮影は、浅草にある旅館ですることになった。浴衣を着れるかと問われ、できると答えると、浴衣と褌を渡された。撮影していくうち、次第に浴衣をはだけさせられ、最後は脱ぎ切ったかたちになった。

 臍の下の内臓が疼いた。からだの奥に、自分以外のものがいて、その存在を知らせようと喘いでいるように感じられた。ああ、そうか。こういうふうに、あのとき自分はこの身体にメッセージを送っていたことを思い出した。正体はきっと、熊本祥介だ。忘れていたよ、いまの自分が、まがいものだったこと。作られた存在だったことを。でも、もう無理だろう。お前がこの世に再び顔を覗かせたところで、繊細過ぎたきみは、生きることなんてできない。せめて、俺がお前を生かせてやる。お前のことは、俺だけは絶対に忘れないでやるから。

「いいねえ、タクミくん、すごくいい目をしているよ」

 データを覗きながら、崎谷の知り合いだという編集者はいった。

「ほかにもさ、いろいろ企画はあるから、次も頼むよ」

 俺は、どうぞよろしくお願いします、といって現場をあとにした。

 数日して、表紙にお前を使いたいといっている、と崎谷が告げた。べつに構わないと俺は答えた。


「わ、すごっ」

 アキくんが歓声をあげた。俺は声を失っていた。二丁目のバラエティショップの壁にでかでかと、俺の写真が貼られていた。

 俺が表紙となっている雑誌が発売されたらしい。

「雑誌のカバーモデルとか、やばくない? 有名人じゃん」

 道行く人が俺たちをじろじろ見だした。

 自分の顔を眺めた。悪くはないと思う。でも、こいつはいったい誰なんだ? ほんとうに自分なんだろうか。

「ここの前で写真撮ろう!」

 そういって、アキくんは通りすがりの人を呼び止めた。巨大なポスターの前で、俺たちは写真を撮った。

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