第51話 熊本くんの小説31

 アイフォンの画面には、下着姿の自分が映っている。顔は見切れており、自分だとわかるやつはいないだろう。聞いたことのない下着メーカーの通販サイトだ。多少陰影を加工しているのかもしれない。ネットにあがっている身体が、自分のものとは思えない。

「これ、ありがとう」

 みのりちゃんがやってきて、先週貸した『いちばんここに似合う人』をよこした。俺はスマホの画面を消した。

「どうだった?」

「まあまあかな。」

 返事を聞いて、読んでないな、と俺は疑いの顔を向けてしまった。

「あの、へんなセミナーに行った話面白かった」

 俺の表情を見て察したのか、あわててみのりちゃんは付け加えた。

「いまはなに読んでるの?」

「色川武大の『狂人日記』」

「なんかタイトルからして、えぐそう」

 俺がバッグから取り出した文庫の表紙を眺めて、またも身も蓋もない感想をみのりちゃんはいった。

「熊本くんはなんでも読むよね」

 本だったらなんでもいいってかんじに。みのりちゃんは向かいの椅子に座っていった。俺たちは大学の喫茶スペースにいる。

「有名どころを読んでるだけだよ」

「いや、これ有名じゃないでしょ、わたし知らないもん」

 自分の知らないことが世間で有名でないことという認識もどうなのか、と思いつつ、そこは無視して、書評とか、高校の頃にもらった国語便覧に載ってるやつを中心に読んでる、と俺は答えた。

 便覧! たまげた、という言葉を具体化するとこんな顔になるんではないか。みのりちゃんは心底驚いてから、

「わたしそんなのもらってから一度も開いたことないかも」

 といった。

「きみはいったいなにしに大学にきたんだね」

「いや、絶対そうだよ。アンケートとって勝ち負け決めてもいいくらいだよ。みんなそんなの読まないって」


「国語便覧、ってなにそれ」

 アキくんはすでに酔っ払っており、かなり陽気だった。

「高校の頃もらわなかった?」

「わからん。記憶にない」

 俺とアキくんは二丁目の飲み屋にいた。やたらとでかい音量でかかっているカラオケのせいで、大声で言い合うことになる。野太い声のモーニング娘。はサビになるとあちこちの席から合唱が起こった。ここはそもそも話をする場ではない。とにかく酒を飲んで、自分のいいたいことをしゃべり、誰にもまともに聞いてもらえなかったとしても、別にかまわない。ただ楽しい雰囲気のなかに身を寄せるためだけの場である。

 アキくんと知り合ったのは、崎谷に紹介された下着モデルのアルバイト現場だった。

 すでにスタジオ(といっても北参道のマンションの一室だった)にアキくんはいて、

「こんにちはっ」

 とやってきた俺に駆け寄り即挨拶した。すでに下着姿だった。自分とそれほど年端の変わらないように見えた。

 崎谷に教えてもらったアドレスで、どんな下着かは知っていたけれど、実際に履いている人を生で見ると、なんとも不思議な気持ちになった。下着に気を使う男性向けに作られているというこのメーカーの下着は、どれも色鮮やかで、デザインが凝っている。ボクサーブリーフはもちろん、ビキニやサポーター、ほぼ性器しか隠していない、というより形状がしっかりわかる、そもそも下着の用を足しているのか不明なものまでさまざまだった。

「やばい、仕上がってるじゃん。腹筋割れてるの?」

 といって、アキくんはいきなり俺の身体をシャツ越しに触ってきた。

「並んだら俺たいしたことないの丸分かりだから、載せるとき盛って加工して!」

 とスタッフの人々に声をかけ、笑いを誘っていた。

 やたらとなれなれしいやつだな、と第一印象はろくでもなかった。しかし撮影がはじまると、「足広げたほうがいいよ」「少しひねると腰が締まりケツがでかく見えてエロい」などといって、慣れない俺にアドバイスをしてくれ、「タクミくん、なに飲む?」といって冷蔵庫を勝手にあけてジュースを出してくれた。

 俺たちは二十着ほど下着を履き、撮影された。

 通販で売っているだけでなく、デパートにも卸しているという。デパートでわざわざ自分は下着を買ったことがない。変に感心してしまった。

 撮影終了後に、ライン交換しようといわれた。一週間ほどして、アキくんから飲もうと声をかけられたのだ。 

「タクミくん、崎谷とどこで知り合ったのさ」

 アキくんは大声でいった。

「近所のジムで声かけられた」

 俺もまた大声で返した。ちょうど歌が終わったところで、店中に響き渡るかたちになった。すぐにまた歌が始まる。今度もたぶん、ハロプロのなにか。

「すごいねえ、それ新宿から尾行されてたんじゃないの?」

「ほんとうに、近所だった」

 崎谷の部屋はたしかに俺の住む町にあった。事務所兼自宅というその部屋は、男やもめ、という言葉がぴったりとはまる雑多な部屋だった。崎谷自身の身のこなしとは程遠い。

「へえ、いったんだ? やった?」

 あけすけな質問をアキくんはした。

「なんでそういうことになるのかな?」

「その返し、完全にやったっていってるようなもんでしょ」

 崎谷に対する話しぶりから、いかにも「やってそう」なアキくんは爆笑した。

 二人は「古い知り合い」だそうだ。高校のときにルミエールで『バディ』を立ち読みしていたら、声をかけられたという。

「あいつ、いろんなコネクション持ってるなんでも屋だから。下着モデルだのクラブイベントのGOGOだの、目を引く男前を斡旋してたりすんのさ」

「男前」

「俺らみたいな」

 臆面もなく、いった。

 ピンハネしてんじゃないかな、って俺は思ってるんだけど。とわざわざうるさい店内でアキくんは俺の耳元に小声で囁く。

 下着モデルのギャラは、二万円だった。

「そもそも、アキくんていくつなの?」

「いくつに見える?」

 大声で思い切りうざいことを問われた。

「俺のちょっと上くらいかな」

「タクミくんいくつよ」

「十八」

「やった!」

 アキくんは立ち上がり、ガッツポーズをした。店中の人間が俺たちに目を向ける。

「なんで立ち上がるの?」

「いや、店中に俺が若く見られたことを自慢したくって」

「で、結局いくつなの」

「秘密ですー」

 ほんとうにウザすぎる。

 もう一軒行こう、今度は静かな店にするから、と引き止めるアキくんを置いて、俺は新宿駅まで歩いた。

 崎谷の左肩には、梵字の刺青がはいっていた。

「昔から俺は身体も心も弱くてね。強くなれるよう、祈願をこめていれたんだ」

 崎谷はいった。文字の意味は聞かなかった。銭湯にいくときはタオルで隠すという。

「プール行けないね」

 俺の言葉に、崎谷は笑った。

「子供の感想だな。誰もがプールを好きなわけじゃないだろ。それに、こんなものが入っていても怒られないようなところだってあるんだ、海外では普通さ」

 ベッドから起き上がり、床に散らばっている服や本を足で払いながら崎谷は冷蔵庫をあけた。

 ウィルキンソンを裸で飲んでいる崎谷を眺めていた。

「身体が弱そうには見えないね」

「見た目はな」

 今日の前にセックスしたのはいつだ、と崎谷は訊いた。

「三月」

「誰と」

「地元のバイト先のおばさん」

 崎谷は俺を珍しそうに眺めた。

「面白いな」

 面白いにはたくさんの種類があるらしい。こんなに嫌な顔をしても、面白いものなのか、と思った。

「女ともできるんだな」

「たてばできるでしょ」

「なるほど」

 若いな、と崎谷は含み笑いをした。

 自分は、媚びたものいいをしてしまう。

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