第50話 熊本くんの小説30
再びの東京。身体は覚えている。いた頃のモードを取り戻そうとしている。大学のそばに部屋を借り、一人暮らしが始まった。
大学というものが、どれだけ人を浮かれさせるものなのか、知らなかった。誰もがはしゃいでいて、残り四年しか遊ぶことができないとでも思い込んでいるようだった。
約二年で自分は死んでしまう。
そう思うと、なぜか痛快な気持ちになってくる。まつりやあの女、そして父の姿を見ていても、実感が伴わない。
今にして思えば、自分も浮かれていたんだと思う。そして、残り少ないらしい人生を楽しむこと、突き詰めることに意識はシフトしていたのだろう。二十歳の誕生日までなんでもできると思った。
人生がどうせ続くと、周囲の同い年の面々は思っている。三流大学にありがちな、「こんな場所にいたら人生お先真っ暗だ」とかまって欲しいオーラを出しているやつ、無駄に意識のたかいやつ、とにかくだらけたいやつ、そして宙ぶらりんのままなんとなく生きている連中ばかりで、それがとても面白い。
「本、まともに読んだことないんだよね」
隣に座った女の子が、ひとりごとのように、いった。必修授業初日、誰かが提案した飲み会に、俺は参加していた。
「そうなんだ」
あいづちをうつと、女の子はびっくりした顔で俺を見た。
「やだ、わたしなに口にだしちゃった?」
彼女の顔が赤いのは、生ビールとはちみつレモンサワーのせいである。
「うん、いってた」
そういうと、ああ、もう、といって彼女はテーブルに肘をつき頭を抱えた。隣に座っている西田みのりちゃんは、高校の推薦で大学に入学してきた。本はこれからちゃんと読もうと思っているので、おすすめがあったら教えて欲しい、と自己紹介タイムで話していた。日本文学専攻ということもあり、自己紹介のお題として「好きな小説」を述べることになったのだが、小説の題名を挙げなかったのは彼女だけだった。飲み会がはじまって一時間ほどがたっていて、彼女としゃべったのはそれが初めてだった。それまでは、みのりちゃんの反対側に座っていた男から、京アニの素晴らしさについて講釈を伺っていた。酒に強くない、というかはじめての飲酒だったのか、そいつは壁を背もたれにして、目をつむっている。
「わたしさ、じつはまったく本読んでないのよ。正直今日の授業、さっぱりわかんなかった」
「いや、俺もわかんなかった。そもそも日本書記とかあまりにも興味なさすぎて」
「ですよね?」
そういって彼女は俺に顔を近づけた。
「近い、めちゃ近いから」
あ、すみません、といって慌てて彼女は顔を離した。この子も完全に酔っ払っている。
「熊本くんがいってた『いちばんそこがにおうひと』って面白いの?」
「におうじゃないよ。『いちばんここに似合う人』だよ」
「それ」
彼女は俺を指差す。
「最近読んだんだけれど、面白かった。ミランダ・ジュライって人が書いたんだけど、へんてこな短編ばっかりで……」
さきほど自己紹介をしたとき、飲み会参加者全員、まったくのノーリアクションだったことにフラストレーションが溜まっていたせいか、あらすじを語ろうと俺は、した。だが、彼女は居眠りをはじめていた。
「きみ、すごく鍛えているね」
二十四時間営業のジムで、胸を鍛え終えてからプロテインを飲んでいるとき、声をかけられた。
深夜二時、せまいジムのなかで俺とその人しかいなかった。俺がマシンを使っているあいだ、そのひとはずっとストレッチをするために敷かれているマットの上で、ヨガのポーズをとっていた。
「なにかスポーツしてたの?」
「中学のときに水泳していたくらいで」
「すごいね」
その人は俺の全身をじろじろと眺めた。いや、どちらかといえばあなたのほうがずいぶんと鍛えてらっしゃる、と返すべきか迷った。プロテインのストロベリー味が思った以上にまずかったので、なめらかに言葉にできそうもなかった。ひと懐っこい顔をしているが、どこか作られたものが感じられる笑顔を浮かべた男だった。タイトなアンダーアーマーを着ている。
「大学生?」
その人はいくつか俺に質問をした。モテるでしょ? 全身にしっかり筋肉がついているけど、パーソナルつけてるの? こんな時間にトレーニングしているのは、バイトとかで忙しいの? 家近いの? プライベートにまで質問は及び、適当にはぐらかした。
ランニングマシンで三十分走ったあとも、まだその人はいた。シャワーを浴びて、さっさと帰ろうとしたとき、呼び止められ、
「きみ、先週二丁目をほっつき歩いていたろ」
といわれた。
「なんですかあなた」
俺は警戒して、いった。
たしかに、俺は仲通りをぶらついた。無数にある飲み屋のどこに入ったらいいのかわからず、バラエティショップで雑誌を立ち読みして、あとはなにもせずに紀伊国屋書店に寄ってから帰った。
「まあそんなに構えなくてもいいよ」
身構えないほうがおかしい。尾行されていたんじゃないか。
その人は笑いながら、ちょっと待ってくれ、といって荷物置き場から鞄をだした。名刺を渡された。
ディレクター 崎谷光輝
そう名刺には書かれていた。なんのディレクターなのかさっぱりわからない。あとは携帯電話とメールアドレスだけが記載されている。
「きみ、東京にきたばかりで店とかわからないだろ? なんなら案内しようか?」
「結構です」
俺はジムから出ようとドアに手をかけた。
「じゃあ、アルバイトしないか。これが本題なんだ。つまらないバイトするよりももっと簡単に小遣いを稼ぐことができる」
きみを見かけたとき、声をかければよかったと後悔していたよ。こんなところで再会するだなんて、これは奇跡だ。ぜひきみにお願いしたいことがあるんだが。
俺が警戒を解かないでいるので、崎谷は察したかのように、売り専とかじゃあないよ、と首を振った。
「モデルになってもらいたいんだけど」
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