第49話 熊本くんの小説29
父は女と俺の前にお茶を置き、お辞儀をして去っていった。一度俺と目を合わせたが、感情を動かす気配がない。俺のことを、自分とはまったく関係のない、あかの他人のように見ていた。
「よく黙っていられたわね」
女はいった。
「どういうことだよ、これ」
俺はいった。困惑して、怒りよりも恐怖が先に立つ。
「あの人は、もう自分の名前もこれまでの人生も忘れているわ、完璧に」
女はお茶をすすった。
「ぬるい」
顔をしかめ、茶碗を乱暴に置いた。
「親父になにをしたんだよ」
「おやじ? そんなふうにいってたっけ? むかしはお父さんとかいってなかったっけ?」
女は笑った。
俺は立ち上がった。
「追っかけても無駄よ」
女が制した。
「あの人はもう違う名前、別の人生を生きている。あの一族はいま、この家の使用人として働いているけど、別の人間になっている。これまでのうまくいかなかった人生を、リセットした。あの人たちが心のなかで望んでいたから、人手が足りなかったし、お願いを聞いてあげた」
別の人間? そんなことが、できるわけがない。
「できるわ。本人に別の記憶を植え付けることなんて簡単よ。そんなもの魔法でもなんでもない。そして、そうだ、と本人が受け入れさえすれば、他人すらも騙せる。もうあの人たちのことを前の名前で呼ぶ人はいない。たとえ、実の娘でもね」
「娘って誰だ」
まさか、と思った。
「あなたのいとこ、壮太郎さんと婚約しているの。あの子は見込みがある。いつも顔をあわせているけど、あの娘のお父さんのことを、彼女はいずれ嫁入りする家で働いているただの奉公人とでも思っているわよ」
いい、世界っていうのはそういうものなのよ。お父さんのためを思うのなら、そっとしてあげなさい。どんな目に合わせたとしても、あの男のセイシでできたのが、あなたなんだから。細胞レベルで同情して共感して、いたわってあげないとね。
女は立ち上がった。
「わたしはあなたたちが二十歳で絶対に死ぬなんて、いっていない。でも、あなたたちが決めてかかったなら、そうなんでしょう」
女は嬉しそうにいった。
「あなたのことなんて、誰かがそう設定した瞬間、忘れ去られる。あと何年かあがいてみるのも面白いかもしれないわよ。そうね、自分だったらしないだろうことをしてみるっていう、あの子のアプローチは悪くなかったわね。あなた若いし、いくらでも溺れることができるわ。ねえ、見せてよ。あなたがどうやって、抜け出すか。すべては偶然ではないっていうのはね、あなたが決めてかかっているから、そうだってだけの話なのよ」
女は部屋を出て行った。
しばらくして、お帰りまでご案内します、という声がした。どれくらいの時間がたったんだろう。動きを止められていたのか、自分で動くという指示を体に出せなかったのかわからない。
「お見送りをするようにいわれましたので」
顔をのぞかせたのは父だった。息をのんだ。
「どうぞ、ご案内します」
俺と父は、廊下を歩く。なにかを口にしなくてはならない。そう思うのになにもいえない。
「お名前はなんておっしゃるんですか」
俺はいった。父は振り向き、不思議そうな、そしてなにか、自分に名前を訊く若造のことを品定めするような目をした。
「畠山です」
なにかございましたか。不安げな顔で俺を伺う。まるで、あの女に不手際をいいつけるのではないのかと怯えているようだった。なんて小さくなってしまったんだろう。俺は見下ろしながら、この、もう父でない男を見た。
「ご丁寧に、ありがとうございます」
俺はいった。
「めっそうもございません」
父は、これまで聞いたことのない、へりくだった言葉を口にした。
この体験を誰に伝えたらいいのかわからなかった。なにもかもがでたらめだ。狂っている。こんなこと、作り話にしか思われない。自分の経験が、自分ですらまったく信じられない。
あの女の力と、父の意志が、こんなねじれを起こしているのか。
屋敷を出てしばらくして振り返ると、父はまだ深く頭を下げていた。
大学の合格通知が届くと、妹は余計に不機嫌になった。
「あんただけ戻れるだなんて」
妹は家から出ないというのに、痩せていった。
「あんたはデブだ」
そういって、食事をしてはトイレにこもり吐く。
「あんたはあんたのやりたいことをやんな」
母はトイレから聞こえる音を気にしながら、いった。
「あいつはどうするんだろうね」
「さあ。わたしが死ぬまでコキ使う気なんじゃない? あの男にどんどん似てきている」
もしかして、母さんがそれを望んでいるのかもしれないよ。妹はそれを察知し、自分なりに解釈して、振舞っているんじゃないか。喉からでかかった言葉をおしこんだ。
「お前ら、わたしの悪口をいっているんだろう」
トイレから出て、妹は俺たちを睨みつけていい、そのまま部屋に入っていった。
「とにかく、おめでとう」
「自己推薦だったし、そこまで努力はしてないけど」
「文学部いってどうすんの。研究したかったの?」
「小説を書くよ」
はっきりといえたことに、自分自身に驚いていた。
「書き上がったらわたしに見せてよ。わたし、小説好きなんだから」
「親に読ませられないようなものを書くよ」
「いいわね」
母は笑った。
「そのくらいのものを書かなきゃ、小説なんて書く意味ないわ。あんたが生まれたとき、ああ、三島由紀夫が死んだ日だって新聞にあったなあ、ちょっとどうなんだろうなあ、ってずっと分娩室で思ってたわ。思わず、その日に生まれた有名人は誰がいるのか、不安になって探した」
昔はわたし文学少女だったからね、あんたが小説家になったら嬉しい。アクタガワショーとったらなにかご馳走して。母はいった。
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