第47話 熊本くんの小説27

 滋賀に住みだしてから、一番変わったのは妹だった。夜逃げ同然で東京を去った俺たちは、これまでとはうって変わって、三人で暮らすには手狭なアパートに落ち着くこととなった。

「どうせあんたたち、家を出て行くんだから、最後はわたし一人になるわけだし、このくらいでちょうどいい」

 一番不本意だと思っているであろう、母はいった。

「なんでこんな、自分の部屋がないとこに住まなくちゃいけないの?」

 妹は不満をだだ漏れにさせた。新しい環境にまったくなじむことができず、入った公立中学には、一度行ったきり通うことはなかった。

 引きこもり、なんてものが自分の周囲に、しかも自分の家族のなかで発生するなんて思わなかった。そういうものは、テレビのニュースやフィクションのなかでのみあると勘違いしていた。考えてみれば、父親が失踪した、ということのほうがフィクションの枠でしか存在しない非日常なのかもしれない。

 妹は夕方過ぎに起きてくる。そしてテレビのある茶の間にパジャマのまま座り込み、日がな一日テレビを観続けた。

「そろそろ寝たいんだけど」

 そういわれると、妹は母を睨みつけた。二間あるうちの奥部屋は、妹の引きこもり場所となった。俺と母は茶の間で眠ることになった。

 妹のことを母と語ることは憚られた。そもそも妹が聞いているのだから。俺がいないあいだ、二人はよくしゃべっているらしい。テレビを観続けているから、芸能人の話題や世間のニュースを興味のない母に聞かせているらしい。女優の結婚だとか、誰が死んだとか、最近話題になった事件の顛末などだ。そういうときは機嫌がいいらしい。

 父が消えて、その役割を妹が担いだした気がする。

 妹の気性は父に似ている、とかつて祖母がこぼしたことがあった。ただいうことを聞かないから、そんな憎まれ口をいうのだろうと思っていた。父に似ているという言葉は、我が家では一番の嘲りだった。

 こんな環境になってしまったことを、母は気の毒に思っていたのだろう。学校に行かない妹をそのままにしてやっていた。

 妹は俺が帰ってくると、臭いと鼻をつまんだり、あんたはなにも知らないねえ、だとかいっては自分を優位に立とうと一所懸命になっていた。もともと口が悪く、ひとつ年上の兄である俺を小馬鹿にしていたけれど、悪化していた。

 起きてきて、「めし」といってテレビをつける妹。母が料理をつくってやると、こんなものは食えねえといって箸を投げる始末だ。じゃあなにが食べたいのかと訊けば、うまいもの、という。

 家で母は料理をしなくなり、妹は食べ方が意地汚くなっていった。


 俺は家にいる時間を少なくすること、そして金を貯めるために、アルバイトを始めた。高校に通い、週に四日、近所のショッピングセンターにある本屋でレジ打ちをした。それ以外は、外で明かりのある場所を見つけて本を読み、水沢メソッドのトレーニングを続けた。

「熊本くん、高校生なのに遊ばないの?」

 バイト先の同僚である富野さんが俺に訊ねたことがある。

「お金ほしいんですよね」

 俺はいった。

「なにか欲しいものでもあんの? バイクとか」

 富野さんは四十代の主婦で、俺と同い年の息子にバイクをねだられているという。

「パソコンと携帯もってないんで、それですかね」

 とりあえず、自分が持っていないものをいった。

「珍しいわねえ」

 富野さんの息子には、小学校の頃から携帯を持たせているらしい。

 夕方の買い物のピークが終わると、書店の客はぐっと少なくなる。ただただ時間を潰すために、本のカバーをサイズごとに俺たちは折っていた。

「富野さんは本読まないんですか?」

「病院に置いてある週刊誌くらいね。昔はこれでも読書家だったんだけど」

「どんなの読んでいたんですか」

「赤川次郎とか」

「ああ、俺もよく読みました」

 とりとめのなさすぎる会話を俺たちはよくしていた。本を「最近は」読まない富野さんは、子供が高校にあがったので、なんとなく一安心し、パートを始めたという。

「そうしたら、息子がたかるたかる。わたしいってやったのよ、本屋であんたと同い年の子が働いてるんだから、あんたも欲しいんならアルバイトでもしなさいって。そうしたら」

「なんですか」

「いましかできないことってあるだろとかなんとか、ぶつぶついいだして。まったく勉強もしないくせに」

 いましかできないこと。年齢制限があること。それをしたいというのなら、富野さんの息子さんは正しい、と思った。

 自分には、いっさいそういうものも希望もない。

 本屋にスーパーの袋をさげた客がやってきて、俺を見ると手をあげた。母だった。

「どうしたの?」

 俺は母のもとに向かっていった。

「あの子が、めしめしいうから、買いにきたのよ。祥介が働いているかなって思って覗いてみたの」

 母は疲れ切った顔をしていた。

「そうなんだ」

「なにかわたしも読もうかしら。十津川警部とか浅見光彦ので、なにかない?」

 俺は作家名順になっている文庫棚に母を案内した。

「たくさんあるわね」

「読んでないやつ、ある?」

「なにを読んで、なにを読んでいないのか、忘れちゃった」

 若い頃よく本を読んでいた、と母はいっていた。俺が本を欲しがると、活字ならば買ってよい、といっていた。妹とずっと一緒にいて、読む暇なんてあるのだろうか。母が本を読んでいる姿をしばらく見ていない。

「熊本くん」

 富野さんが俺に近寄ってきた。母に挨拶をし、

「今日、お客さんたいしてこないだろうし、先にあがっていいわよ。後始末はわたしがしておくから。打刻もちゃんとしておいてあげるし」

 といった。そんなことはしないでもいい、という俺に、いいから、と富野さんはいった。

 母の姿を見て、なにかを察したのかもしれなかった。


「高校卒業したら、どうするの?」

 夜道を俺たちは歩いていた。母の背を越したとき、なんとも思わなかったというのに、夜二人でとぼとぼと歩いていると、そのことがとても悲しい。時間が過ぎていくことと成長することは、ほんとうは悲しい。先を歩いていた人を追い越してしまうこと、いずれ成長は止まり、老いていくこと。

「大学いきたい」

 俺はいった。

「あんたが自分からいきたいっていうの初めてだね」

「奨学金とか受験料とか、いろいろ調べたんだけど」

 そういって具体的な金額と大学の名前を俺はいった。

「べつにあんたを大学にいかせるお金くらいあるんだけど」

 母は笑った。

「なんとかならなさそうになったら、泣きつく」

「ねえ、あの子のこと、どう思う?」

「わかんないね、あいつのことなんて。めしめし叫ぶのなんて放っておけばいいって思ってるけど」

 そうね、といって母は笑った。

「なんだろうね、同じような人間関係を繰り返しているような気がする。ぐるぐる回っていて、人だけがいつのまにか変わっていっているだけみたい」

 まだ祖母の遺した金で俺たちは生かされていた。それはいつまでもつものなのか、知らない。

「今川焼食べる?」

 そういってスーパーの袋から白い紙袋を母はだして、俺に渡した。なかにはなまあたたかい今川焼がふたつ入っていた。

「どうしたのそれ」

「どうしたのって、買ったのよ。なんだか食べたくなって。でもあの子甘いものは食べないでしょう、ダイエットとかいって」

 やたらと細かい妹の嗜好を、俺たちは理解できていない。というよりも、出されたものにただ難癖をつけたいだけなのではないか、と思う。

「カスタードだった」

「じゃあこっちはつぶあんか。交換する?」

「大丈夫」

 俺はぬるい今川焼きを食べながら歩く。母も食べる。

「買い食いなんて、いつぶりだろう」

 母はいった。

 湖のほうから、風が吹いてくる。もうすぐ、夏が終わる。

「あれじゃないかな、中学受験のとき、試験が終わって学校の門までいったら、母さんが待っていて、ハンバーガー買っておいてくれたことあったよ」

「あったっけそんなの」

「受験しに行く途中で雪に転んで、泣きながら試験会場にいったじゃない。終わってすぐに、帰り道、一緒にハンバーガー食べながら歩いたとき以来だ」

 行きに雪でこけたというのに、俺たちは帰り道、ぬかるみを気にせず、ハンバーガーを食べながら駅まで歩いた。帰り道は、転ばなかった。

「忘れたよ、そんなの」

 母はそういってしばらく黙った。別の話をしようとしたとき、母はつぶやく。

「でも、覚えててくれたなら、そのとき買った甲斐があったね」

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