第42話 熊本くんの小説22

 無職の男性が、刺殺される。

 つまり、篠崎のキャリアなど語られるほどのものではなかったということだ。どれだけ認められようと歯を食いしばったとしても、「世間」というものの前では、なにも成し遂げることのできなかったよくいる一人にされてしまう。インターネットで確認しても、「無名のダンサー」として扱われているだけだった。

 事件がテレビで報道されたのは、前途ある若者が殺された、ということではなく、いつ、どう殺されたかばかりだった。

 この事件は、ダンサーの若者が殺されただけではなかった。もう一人、書店経営者の男も殺されている。


 大学進学をしてから、東京に戻ったとき、まず向かったのは「ハマシギ」だった。

 気持ちが急いてビルの階段を駆け上がった。いつも不在時に紙が貼られているドアには、テナント募集の張り紙があった。

 了解済みだったけれど、それを見たとき、受け止めきれなかった。

 しばらく立ち尽くしていると、隣の会計事務所のドアが開いた。おばさんが出てきて、俺をじろじろと見た。

「ここは閉店してしまったんですか?」

 とっさに俺を嘘をついた。

「あら、知らないの? ここで三年前に事件があったのよ、殺人事件」

 おばさんは、当時のことを、かなり主観を混じらせ語った。


 あのときは大変だったのよ。叫び声が聞こえてねえ、そもそもこの部屋って胡散臭い店だったじゃない。本屋っていっていたけど、一度入ったとき、女性自身も置いてないし、欲しいものなにもなかったし。店主はわりといい男だったけどね、でもねえ、まあ陰気な感じで、もったいなかったわよね、もっと明るくしてれば店も繁盛したんじゃない? うちの所長が揉め事があったのかもしれないって、いたしかたなく店を覗いたの。わたしもあとをついていったんだけど。もうねえ、あんなもの見ちゃうなんて、三日くらいご飯食べられなかったわよ。一ヶ月はお肉、食べられなかった。ずんぐりむっくりした女が血だらけの包丁を持って泣いててねえ、うわごとみたいなことをいっていたわ。「生き返って、生き返ってよお」とかなんとか。自分で刺しといてなにいってんのよって話じゃない。やっぱりあれかしら、ああいうことをしちゃう人間てアタマがあれなのかしら。それでねえ、テーブルあったじゃない。テーブルに、素っ裸の若い男の子が仰向けで血まみれになっていて。下には、本屋さんが倒れていて、それもね、裸だったのよ。店で男二人で、ねえ、真昼間だったのよ。白昼堂々なにやってんのよ、人が隣の部屋であくせく働いているっていうのにさあ。ああいう人たちって、ところかまわずなのねえ、けだものとおなじじゃない。やっぱりあれかしら、脳みそのつくりが違うのかもしれないわねえ。


 偏見だの覗き見趣味だのに満ち満ちた、市井のおばさんによる衝撃体験告白に、俺は相槌を打ち続けた。おっしゃるとおり、もっともです。このババアを怒鳴りつけたところで、なにもならない。あらゆる言葉を飲み込んで、最善のフレーズを探したとき、喉からでかかったのは、「じゃあそれまであいつらはあんたに迷惑をかけたことでもあったのか?」だったが、もちろんいわなかった。

 おばさんに礼をいって、俺は立ち去った。階段を降りる途中で振り向くと、おばさんは俺を観察していた。

 篠崎は、念願叶ってやっと油井さんを手に入れることに成功した。寝ることがそういう意味を持っているかどうかは知らない。ただ、篠崎にとって、それはやっと到来したギフトだったことだろう。包装紙を開け、欲しがっていたものを得たと思った瞬間に、かつて篠崎の公演で受付をしていた愛想の悪い女、篠崎のマネージャーを自認していた道子によって、木っ端微塵に破壊された。それぞれの感情の深さを、性交と暴力で表現しあい、簡単に破滅まで至った。せめて体がつながったままで死ねればよかっただろうに、そんな甘美さを演出できるほどの余裕はなかった。

 油井さんが篠崎のことをどう思っていたのか、そしてなんで店のテーブルの上で寝ようとしていたのか、推測するは冒涜のように思えた。

 水沢先生はいったいどうしているんだろう。生まれたばかりの子供が死に、親友も死んだ。

 中学三年生の夏休み、俺は逃げるようにして学校を去ることになった。先生に挨拶することもなく。

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