第38話 熊本くんの小説18
そういう場所なんだ、ということはわかっていた。テレビでオネエタレントがよくしゃべっていたし、店がたくさんある、ということはわかっていた。
篠崎がよこしたチラシ、『篠崎竜一郎独舞会』は、その通りにある地下の劇場で開催される。僕は、大人びた格好のほうがいいのではないか、と白いシャツを着て出かけた。渋谷で乗り換えるときに鏡に映った自分は、学校の制服の下をジーンズにしただけ、のやはりただの中学生にしか見えなかった。
チラシによると、篠崎は十四歳でバレエコンクールを入賞、留学が決まり、将来を嘱望されていたにもかかわらず、辞退して、現在はソロのコンテンポラリーダンサーとして活動している、らしい。
漫画みたいな人生だな、と僕は思った。そんな世界があるのか。バレエ、コンクール、ロシア、留学、そしてよくわかないけれど、コンテンポラリーという凄そうな響き。テレビの向こうとか、自分と一切関係ない。
篠崎の身体には無駄な肉が一切なかった。痩せているわけではなく、制御された体、という印象を受けた。
通りの入り口につき、足を踏み入れるのをしばし躊躇した。ここでうろうろしていたら、それはそれでみっともないと思い、僕は唾を飲み込んで通りに入っていった。
会場はすぐにわかった。地下に続く階段には列ができている。僕の後ろにも次第に人が並びだした。階段の下の受付で、篠崎の知り合いで、というと、メガネをかけた小太りの女の人が、「篠崎の、どちらのお友達ですか?」と訊いた。僕はしどろもどろになりながら、三茶の本屋で、篠崎さんにチラシをもらって、と答えた。女はメガネの奥の疑わしげな目つきをとこうとしない。もうなにもかもが面倒になり、じゃあ、入場料を払います、といった。当日券四千五百円。財布の中は五百円しかなくなってしまった。
周囲を暗幕で覆われた劇場は狭く、客席はすべて埋まった。男しかいないのではないかと想像していたけれど、女性たちもおり、客層に偏りはない。暑苦しく、空気も淀んでいる。
舞台は十分遅れで始まった。
照明が消えたとき、僕は少し、震えた。あかりがついた舞台に、篠崎がやってくる。篠崎は派手な下着一枚の姿だった。空気が張り詰め、篠崎がわずかに動くだけで、客の口から息が漏れた。
終演後、拍手が起こり、篠崎は一礼をして舞台袖にはけていった。拍手は鳴り止まなかったが、しばらくして、「本公演はこれで終了いたします」というアナウンスが入った。
僕は篠崎に挨拶すべきか迷った。受付の人に聞くのも気が引けた。観客は席を立とうとしない。僕は立ち上がり、会場を出て、階段を上っていった。
「熊本」
路上に出て、通りを出ようとしたとき、あまり見たこともないコンビニの横にあるスタンド灰皿のそばで、派手な浴衣を羽織った篠崎がタバコをふかしていた。しかも、裸足だ。公演を終えて、そのままここに来たらしい。
なんでその格好、そもそもお前未成年だろ、とさまざまなツッコミが脳内で起こったけれど、僕はそこには触れず、挨拶をした。
「どうも」
「きてくれたんだ。どうだった?」
そういって篠崎は僕にタバコの煙をふきかけた。僕は手で煙を払いながら、「こういうの初めて観たから面白かった」
といった。
たしかにそれは不思議なものだった。テレビで観たことのあるダンスやバレエとも違う。不思議な動きと緊張感。一挙手一投足に意味があるようにも、それに意味はなく、日頃動かさないような筋肉を駆使して、誰も見たことのない身体表現をしようとしているような。意味を読み取ろうとすることを拒絶するような踊りだった。
そして、僕は篠崎のパフォーマンスに感動していた。いや、感動なんていう言葉では言い表せない、感情の波が起きた。もっと見てみたい、という気持ちと、これ以上見たら、なにか自分のなかにある言語化できないものが顔を出し、混乱させられてしまうのではないか、という恐れが沸き起こっていた。
「そうかそうか」
篠崎は満足気だった。とてもいい笑顔をしていて、こんなに喜んでくれるのなら、来てよかった、と思えた。
「挨拶したらすぐ戻ってくるから、飯食いに行こうぜ」
そういって雑にタバコをもみ消し、篠崎は会場のほうに走って行った。
「客がいるかもしれないから、さっさとここから出ようぜ」
篠崎はでかいスポーツバッグを肩にかけ、戻ってきた。
「ここ、はじめてきた」
僕はいった。
「なんだ。バーとか行きたかったのか。それともエロビデオ買いたかったか?」
バーなんて今度俺が連れて行ってやるよ、エロビ欲しけりゃ俺の持ってるやつやるからさ、といって篠崎は僕の手を握る。
「走れ!」
篠崎が走り出し、僕も篠崎の手を握ったまま、駆けた。
通りを抜け、靖国通りを超える。信号が青で、そうでなくても篠崎は走る。握った手は汗ばみ、このままだと離してしまいそうになる。だから僕は強く握り、そしてきつく握り返される。
けっこうな距離、僕たちは走り、止まったとき、汗だくになっている僕たちは顔を見合わせ大笑いした。
「このへんまでくりゃいねえだろ」
「あのさ」
「あんだよ」
「僕、いまお金ないんだけど」
チケット代を払ったら財布が空になってしまったことを、いまさら僕は告げた。
「道子のやつ、マジでつかえねえな」
たぶん、受付にいた女の人のことだろう。
「あいつ、俺の知り合いを詮索しまくるんだよ。たぶんあれだろ、根暗そうな小太りメガネだろ」
そう、というのはさすがに憚られる風貌の描写だ。僕は曖昧に頷く。
「あいつ、俺がガキの頃からの追っかけでさ。海の向こうのコンクールまで観にきた、筋金入りのストーカーなんだよね」
追っかけ、というか受付の手伝いをしてくれるほどのファンをストーカー呼ばわりするのはどうだろうか、と僕は思った。
「いいよいいよ、今日は俺がおごってやるから、ていうか、うちこいよ」
そういうと、篠崎は僕の首に腕をまわし、耳元で囁いた。
「なんか、セックスしたくなってきた」
そして、僕の鼻をぺろりと舐めた。
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