第37話 熊本くんの小説17
油井さんの本屋「ハマシギ」は、雑居ビルの二階にある。以前訪れたとき、休日の昼間だというのにドアの前には「休業」と張り紙が貼ってあった。そんなんで生計が立つのか。ビルにも特に看板や書店があることをアピールするものはなく、最初探すのに難儀した。
スニーカーを買いにきたついでに、僕は行ってみることにした。商店街には人があふれ、家族連れや恋人たちが、買い食いをしたり、笑い合いながら歩いていた。幸福な日曜日だ。
ドアに張り紙はない。だが閉まったままだ。そもそも本屋、という店構えではない。ハマシギの隣は会計事務所で、一階は不動産屋だった。呼び鈴がある本屋。どう入ったらいいのかわからず、僕は立ち尽くしてしまった。
やっぱりやめよう、とドアに背を向けると、僕と同い年くらいに見える男が、コーラの二リットルペットボトルをがぶ飲みしていた。
「今日休み?」
げぷ、と音を立ててから、そいつは僕に訊ねた。
「どう入ったらいいかわからなくて」
僕は素直に答えた。
「別に、開いてんなら勝手に入ればいいじゃないか」
そういって、ドアを開け、さっさと入っていった。僕はしばらくあっけにとられ、ドアを見つめてしまった。そして、ドアを開けた。
そこは壁一面が書棚となっており、中央にテーブルがあった。
「やあ」
油井さんは椅子に座り、本を読んでいた。
「水沢の結婚式以来だね」
「どうも」
さっき、さっさと店に入っていたやつは、油井さんの横でコーラを飲んでいる。
「なにか飲む? コーヒーでも飲むかい」
そういうと、机の下からコンビニ袋を出し、僕にジョージアをよこした。
僕は礼をいって缶コーヒーをあけた。
「こいつなに?」
またもげっぷをして、コーラがぶ飲み男が油井さんに訊いた。
「友達の教え子の熊本くん」
油井さんが僕を紹介すると、そいつはふーん、とだけいった。
「これは篠崎。うちの店の常連だ。年は、お前高校二年だっけ」
「高校いってればそう」
どうやら年上らしい。僕ははじめまして、と挨拶をした。
「ども」
適当な挨拶をして、篠崎はまたコーラを飲む。
「いろいろあるから見てみてよ」
窓のない、というか窓も書棚で遮られている八畳ほどの部屋は、蛍光灯のあかりに照らされている。テーブルの上には無造作に小型の金庫と飲みかけの缶コーヒーが置かれていた。
「本屋っていうより、なんだか部屋みたいですね」
僕はいった。
油井さんはそれには特に返事をせず、本を読んでいる。僕は書棚をざっと眺めた。ジャンルも形態もばらばらに、著者順に並べらえている。小説も専門書も漫画も同列になっている。
「きみは読書家なんだってね」
ナ行のあたりを、見ているときに、油井さんはいった。
「趣味は読書って人よりは読んでいないし、なにも読まない人よりは読んでいるくらいです」
「最初に会ったときは、ぼそぼそしゃべる子だなって思ってたけど、ちゃんと話せるようになったね」
「どうも」
会話は途絶えた。そのまま僕は、本屋を一周した。
「気になるものはあった?」
「読んでないものばかりで、なんだか、どれを読んだらいいのか」
「じゃあ、これなんてどうかな」
油井さんは立ち上がり、タ行あたりの場所から、文庫を一冊抜き取った。
「これは僕の私物なんだけど、貸してあげるよ」
『恋人たち』立原正秋、と表紙に書かれていた。
「ここにある本は、僕の私物と新刊古本がごちゃまぜになっているんだ」
「見分けつかなくなりませんか」
「きちんと管理はしているから大丈夫だよ。ここは本屋兼僕の書庫みたいなものだからね」
「休憩所もね」
篠崎が口を挟んだ。
「そういう利用者もいるな」
僕は礼を述べ、本をかばんのなかに入れた。
「読み終わったら、返しにきます」
「ああ、水沢によろしく」
僕が退出しようとしたとき、篠崎もまた、じゃあ、俺も帰るわ、といって立ち上がった。
「これ、店に貼っといてよ」
そういってポケットから紙をだし、油井さんに渡した。
「うちの店はこういうチラシは貼らないと何度もいってるだろう」
折られた紙を広げ、油井さんはひらひらとなびかせる。
「じゃあ、貼らないでいいからチケット買ってくれ。こないでいいから」
「当日行けたら行くよ」
そういって油井さんはチラシをテーブルに置いた。
僕たちは夕方の商店街を一緒に歩いた。
「どこに住んでるんですか」
無言のまま歩くのが落ち着かなくて、ぼくは篠崎に訊ねた。
「曙橋」
「そうなんですね」
土地勘がまったくないのに訊いたことを後悔した。
「熊本はどこ住んでんの?」
「池尻です」
「いくつ?」
「十四です」
「なんだ年下か」
なんだ、といわれたけれど、そもそもさっきからずっと横柄な態度だったではないか。といってやりたかったが、僕は、はい、とだけ答えた。
「なあ、水沢ってやつのこと、さっきいってたけど、お前、水沢のなんなの?」
「水沢先生は、学校の先生です」
篠崎は口笛を吹いた。
「どんなやつ?」
「体育の先生で、水泳部の顧問です」
「画像とか持ってないの?」
「携帯僕ないんで」
「はあ? お前現代人か?」
篠崎はそういってから、今度写真見せてよ、といった。
「なんでですか?」
僕が訊くと、篠崎は顔をぽかんとさせた。
「だって、水沢ってあれだろ、油井の、いや待てよ、そもそもお前、あれだよな」
「あれ?」
「油井とやった?」
「はい?」
「え、やってないの? あー、じゃあ目をつけられてるんじゃん?」
あれとか、やったとか、目をつけられているとか、わけがわからない。性的なニュアンスだということだけはわかる。
「ちょっと待って、さっきいったことなんだけど」
「やった、てやつ? ごめん、変なこといった」
「じゃなくて、水沢先生と油井さんが」
「ああ」
「なに」
「本人に直接聞けばいいだろ」
篠崎は含み笑いをした。
「じゃあ、またな」
ああ、もしよかったらお前もこいよ。篠崎の知り合いだ、っていえばタダで入れるから。
そういって、僕にチラシを渡し、篠崎は地下鉄へ降りていった。
チラシには、裸の篠崎がでかでかと載っていた。
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