第35話 熊本くんの小説15
ギャップの前で、三人は楽しげに立ち話を続けている。自分はいったいなにをやっているのか、さっさと帰ろうと思った、
「熊本? なにやってんだお前」
水沢先生が僕に気づいて、声をあげた。しまった。逃げるわけにもいかず、僕は三人のほうに向かった。
「どうも」
「なにやってんだよお前」
水沢先生は困惑した表情で、僕に訊いた。なんて答えたらいいのかわからずにいると、
「え、なに、みーの教え子?」
といって、女の人が、割ってはいってきた。
「いや入ってくんなって」
といいながら、水沢先生は嬉しそうな顔をする。
「えー、どうも、水沢くんの友達の山本です」
そんで、こっちは、油井、といって、もう一人の男を、山本さんは紹介した。
「どうも」
僕はとりあえず、お辞儀をした。
「名前なんていうの?」
「熊本です」
「ああ! よくみーから聞いてるよ。真面目なんだって?」
「やめい」
水沢先生は山本さんの頭をチョップする。
「よくいってんじゃん。まるで昔の自分みたいだって。ぜんぜん似てないじゃん。熊本くんのほうがかっこいいよ」
「熊本、お前さっさと帰れ」
「いいじゃない。ねえ、まだ時間ある? みーの先生っぷり教えてよ」
ひさしぶりにみんなで飲みに行こうって集まったのよ。ちょっと時間ある? いっしょにご飯食べようよ。山本さんは嫌がる水沢先生が楽しいらしい。
「いやほんと家族がご飯作ってるから、中一だからこいつ」
「ちょっとだけ。部活終わりでしょ。食べられるよね」
しつこく誘ってくる山本さんを水沢先生は止め続けた。しばらくそんな問答を繰り返ししてるうち、黙ってなりゆきを見守っていた油井さんが、
「いま四人で予約した。未成年も保護者同伴でオーケーだってさ」
といい、水沢先生を押しのけて山本さんが僕の手をひっぱり、
「じゃ、行こう!」
と力強く宣言した。
「本当にみーはちゃんと先生やってんの?」
真っ赤な顔をした山本さんが、少々ろれつの回らない口調で何十回目かの質問をした。
「はい、すごくいい先生です」
僕はそういって鳥のなんこつ揚げを食べる。料理が来るたびに、食べな食べな、と山本さんは料理をよそってきて、小皿が空になるとすぐに食べ物を僕の前に突き出す。
テーブルについて一時間、ハイペースでビールを三杯飲んだ水沢先生は、すでに酔っ払っており、頭が揺れだしていた。
「だからいってんだろーが、こいつはな、俺が丹精込めてむきむきのマッチョにすんだって」
「あんた筋肉あってもモテなかったでしょ。実体験から学びなよ」
山本さんは箸で水沢先生を指差した。
「だから、モテたっつーの、海とかいったらギャルに一緒に飲もうって誘われたっつーの」
山本さんの箸の先を水沢先生は弾いた。
「だから、それ完全にあんた、カモになっただけだから」
隣同士でお互いを罵り合いながら、水沢先生と山本さんはずっとしゃべっていた。
「でも、熊本くんのこと、みーがかわいがるのわかるわ」
トイレ、といって水沢先生が席を立ったとき、山本さんはいった。
「なんでですか」
僕は飲みたくもないオレンジジュースを飲みながら訊いた。
「自分に似てるとかいってたけど、どっちかってーと、油井に似てる」
水沢先生と油井さんは、高校の同級生で、油井さんと山本さんは大学の友達だという。昔から三人でつるんでいるのだそうだ。
僕は隣の席に座っている油井さんを見た。油井さんはあまり話の輪の中に加わることなく、ビールを飲み、タバコを吸っていた。
僕と目があった油井さんは、「似てないよ、安心しな」といった。この人は、あまり表情が変化しない。
「ねえ、おもしろくない? 油井ってさ、漢字で油の井戸って書くの。水沢と油井、水と油コンビ」
「ああ、なるほど」
僕は素直に感心した。
「リアクションが、やっぱ似てるよ、油井と」
山本さんは爆笑した。
しばらく経っても水沢先生はトイレから帰ってこなかった。
「今日は早いね」
山本さんはいい、タバコちょうだい、といって油井さんの前に置いてあったタバコを取った。
「教え子の前で緊張したのかもしれないな」
そういって、油井さんが席を立った。
「ごめんね、なんか変なことになっちゃって」
そういって山本さんはけむりを吐いた。
「僕のほうこそ、すみません」
僕が謝ると、
「だめよ、熊本くんはまだ中学生なんだから。すみませんなんて大人みたいな口ぶりしちゃだめ。もっと好き勝手にしていい年頃なんだから」
と山本さんはいった。
「そういうとこが、みーのツボなのよね」
といって、山本さんはしばらく黙ってタバコを吸い続けた。僕をじろじろと眺める。その視線が、どこか冷徹に感じた。
「先生、大丈夫ですかね」
僕が立ち上がると、大丈夫よ、といって横を向いた。
トイレに行ってみると、個室から油井さんの背中がはみ出ていた。
「いつもこうなんだ」
僕に気づいて油井さんはいった。個室では、便器に頬をつけ、水沢先生が眠っていた。油井さんは水沢先生にくっつき、肩を撫でていた。その姿が、なにかとてもいやらしい、生臭いものに、僕は感じた。
「店を出よう。きみ、最寄りの駅は?」
「池尻です」
「僕は溝の口だから、送っていくよ」
そういって、油井さんは水沢先生を抱えた。
「まさか、わたしがこの酔っ払いの面倒を見んの?」
山本さんは顔をしかめた。足元には、路上で寝転んでいる水沢先生がいる。
「いつもすまないな。僕はこの子を送るから、そっちは頼む」
水沢、じゃあな、と油井さんはしゃがんで水沢先生の耳元で叫んだ。
「熊本は?」
水沢先生がいった。
「はい」
僕が近づくと、水沢先生はゆっくりと起き上がり、僕をいきなり力強く抱きしめ、
「部活ちゃんとこいよー」
といって頭をごしごしと掻いた。
「ほら、嫌がってるでしょ」
山本さんが僕たちを引きはがした。僕は動転していた。
「じゃあ、行こうか」
そういって油井さんはさっさと歩き出した。
僕は山本さんに礼をして、油井さんの後をついていった。
副都心線を渋谷で降り、僕たちはそのまま田園都市線のホームで電車を待っていた。ここまで僕たちに会話はなかった。
急行がやってきたが、僕たちは乗らなかった。
「乗らなくてよかったんですか?」
僕は油井さんに訊いた。
「池尻大橋は急行、止まらないだろ」
あたりまえのようにいわれ、僕は恐縮した。
「ありがとうございます」
さっき山本さんにいわれ、すみません、とはいわないでおこうと思った。
「あいつは別に悪いやつじゃないんだ」
油井さんはいった。
「先生のことですか?」
僕は訊いた。すると油井さんは、驚いた顔をした。この人はこんな表情をするのか、と僕の方が、驚いた。
「水沢が? あいつが悪いわけないじゃないか」
「すみません」
思わず、口にでた。
「山本はさ、怯えてるんだよ、きみに」
油井さんの表情の変化よりも驚くべきことを、いわれた。
「あいつはさ、見てのとおり気のいい女だ。それ以上でも以下でもない。人生を肯定的にとらえ、人の悪口もあまりいわないし、義理堅い、愛すべき人物だよ。わりと物事に対して鈍感で、そしてそういうやつに限って、変なところが鋭い」
なんで突然山本さんに対する人物評が始まったのか、僕にはわからなかった。
「きみ、うまく隠しているように見えて、だだ漏れだよ」
僕を一瞥して、油井さんは口を歪めた。
「僕と水沢は高校の頃の同級生なんだ。あいつは昔から水泳バカで、クソ体育会系なんだけど、まあ僕とは部活も一緒で気があった。卒業してからもずっと行動を共にしていたな。山本と僕は大学のときに知り合ったんだ。水沢は体育大学に進学して、しかもライフセービング部なんてとこにいた。でもまあ、ごつい女は好みじゃないらしかった。あいつは昔から、清純派女優みたいなのが好きなんだ。で、僕は二人を紹介した。山本は長澤まさみには劣るけどなかなか健闘したな。面白いもんだよな、はたから見てると、人と人の距離がぐーっと縮まったり、ゴムみたくひっぱたり弾かれたりさ。そして、僕の知らないうちに見えないところで秘密を持たれたり」
電車がやってきた。乗客たちがどんどん降りていく。僕たちは後ろから押されながら、電車のなかに入った。満員電車だった。僕はグレゴリーを前でしょった。
「お察しの通り、というか、きみが考えてる通りだよ。いまごろ二人はどこかにしけこんでいることだろうな。いつもそうなんだ。水沢が泥酔いし、山本が世話を焼き、僕はさっさと帰る。まあ、そういう手順みたいなものだな」
僕はしゃべっている油井さんがどんな顔をしているのか気になった。見上げると、油井さんの目は、僕のことを見ているようには思えなかった。
「どうせ勝ち試合だというのに、あいつはときたま被害者ヅラするんだよ。いい迷惑だよな、きみからすれば」
僕にいっているようには、まったく思えなかった。
「きみがこれから相手をすることになる世間ていうやつはさ、自分が優位に立つためならなんだってする連中や、自分のことには鈍感なくせに、他人の負い目ばかり妙に鼻がきく連中ばかりだ。でも、それだけじゃない。きみは、見極めなくちゃならない。自分を利用しようとする人間から、全力で逃げるんだ。立ち向かおうとしても無駄だよ。そいつらは、ゴキブリみたいな生命力を持っているからね」
「油井さんは、」
僕は訊いた。本当に訊ねたいことはいえなかった。
「なにやってる人なんですか?」
「僕? 僕はね、ただの本屋さんだ」
そういって、本屋の名前をいった。三軒茶屋にあるという。
「近所住民として、いや、水沢の愛弟子であるきみには、サービスするよ」
「ありがとう、ございます」
「きみは僕と似ていない」
油井さんは、顔をきつくしかめた。
「きみは、水沢にそっくりだ」
吐き捨てるように、いった。用賀に電車は到着した。
家に帰ると、台所だけ明かりがついていた。部屋に行く途中で、「帰ってきたの?」と声がした。
「ごめん、友達の家で遊んでた」
「遅くなるなら連絡して」
非難ではなく、無関心そうな口調だった。あくびをしながら、母は部屋に戻った。とくに、咎められることのなかったことに、安心と同時に、少しの落胆があった。
僕は部屋に入り、そのまま着替えずベッドに寝転んだ。変な一日だった。部屋は昼間の熱が残っていて、すぐに肌から汗が噴き出してきた。顔を手で拭った。時計を見ると、まもなく十一時になるところだった。
生暖かい部屋のなかで、天井を眺めながら、僕は、ズボンを脱ぎ、下着に手をかけた。
水沢先生に教わった通りに。
僕は天井を見たまま、手を動かし続け、微かな刺激を与え続けた。
小学校の卒業式の日の渡辺を思い出した。渡辺は声を押し殺し、からだをビクつかせ続けた。時間がかかり、僕が疲れ出したとき、タカハシタクミの声がした。
「かわってあげるよ」
そして僕の全身が痺れ、次第に自分はまったく体の感覚がなくなった。僕のさまを、どこかから客観的に見ているようだった。僕の口のなかに何度も渡辺は放出し、舌が味覚を感じたとき、我に帰った。頭のなかを揺らされたようにぐらぐらし、僕は呆然としていた。
そうだった、つまり、なにかに溺れるとき、快楽の糸口を見つけたとき、僕とタカハシタクミは、入れ替わるのではないか。だからこそ、僕は、これまでそれらを他人事のように扱っていた。いま、理解した。
かなりの時間がたったような気がする。うまく、あのときの渡辺のように、達することができず、僕は焦る。
『慣れるまで時間がかかるんだ。じきすぐにこつが掴めるよ』
声がする。
自分がその門口に立ってしまったなら、そのときは、
『別の人間になってしまうと思っているんだろ?』
先読みして、声がいった。
『そんなことはない。同化するだけだ。きみは別に閉じ込められることも疎外されることもない。スイッチひとつで、代わりになってあげることもできるけど、僕はべつにそんなことを望んでいない。うまく溶け合って、オリジナルになることを望んでいるから、心配しなくていい。そんなことよりも、水沢先生とあの女が、前に見たアダルトビデオみたいにしている姿をきちんと想像しなくちゃね。水沢先生があの女をやっつけている勇姿を』
水沢先生が女にのしかかり、荒く息を吹きかけ。女はそれに痺れる。きつく抱きしめられ、頭を掻いたみたいに。
睾丸の上がる感覚と、先端に軽い痛みが湧く。そして、勢い良く噴水のように飛び散り、ぼた、ぼた、と飛沫が身体中に、布団に、落ちた。
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