第30話 熊本くんの小説10
腹を思い切り蹴られた。
衝撃にびっくりして眼を開ける。いままでみたことのないくらい怒り狂った表情をした父がいた。そして何人もの大人、あの女もいる。
「なにやってんだお前は!」
腕を引っ張られ、むりやり起き上がらせられたとき、自分が素っ裸だということに気づいた。
「俺の部屋でなにしてんだよ!」
背の高い男は怒りに震えており、僕の至近距離で怒鳴る。
「お坊ちゃんの部屋でなにやってんだてめえは!」
父に頭を強く叩かれ、僕は床に倒された。この変質者が、なんてことを、てめえは俺に恥をかかせやがって、怒鳴り散らされながら、僕は父に蹴られ続けた。
「フジワラさん、ねえ、落ち着いてくださいよ」
さんざん蹴られ、殴られ、僕はもう意識を失いそうになっていたとき、あの女の声がした。
「理由なんてないわよねえ」
女は膝をついて、僕の顔を撫でた。あまりの不快感にからだが反射的に震えた。
「そういうお年頃なのよねえ」
ふふふ、と女は笑う。
「お友達ができたのね」
声が、耳からでなく、脳みそに直に伝わった。
父は土下座をして、頭を畳にこすりつけながら、申し訳ございません、お坊ちゃんにこんな不快な思いを……と謝り続けた。僕は、なんでこうなったのか、わからなかった。ただ、小便がしたかった。我慢し続けた。腹になにか滴っている。垂れたものに触れると、それは粘ついていた。次に感じたのは、尻の痛みだった。尻の間にぬめりを感じた。漏らしてしまったのではないかと気が気でなかった。尻の穴に力を入れたとき、痛みが走った。僕は、おそるおそる尻を手で触れてみた。手についていたのは、血だった。悲鳴をあげたくなったというのに、そんなことは、いま、ここにいる誰にも届かないにちがいないと思ったら、おかしくなって、笑い出してしまいそうだった。
「なに笑ってんだよお前」
部屋の主であるらしき男が、僕の鳩尾に蹴りを入れ、僕はまた、床に崩れることになった。あたまおかしいんじゃねえの、という声が聞こえた。
服を着せられ、首を父に掴まれたまま、僕は屋敷をあとにした。振り向いた時、門前に立っているあの女の後ろに、白いワンピースの女の子がいた。女の子は、笑顔で手を振っている。なにもかもがでたらめだ。なにひとつ、自分の意思がないまま、とんでもない事態に巻き込まれ、僕は変質者として、殴られている。理不尽すぎる。
新幹線の切符を父が買っている後ろで、僕は財布をひらいた。自分の新幹線代は、払います、といいたかったのだ。多分そんなことをいっても父はまた僕を殴るだけだろうが、意地を張りたかった。しかし、おばあちゃんからもらったぽち袋は、なくなっていた。元にあった場所に戻るための大切なアイテムが、ない。
「行くぞ」
父が振り向いた。
「いまさら泣いてんじゃねえよ」
そう言われて、僕は自分が涙を流していることに、気づいた。そのくらいに、ショックだった。
「はんかくせえ」
父は僕の頭を拳で叩き、
「お前はクズだ」
といった。
家に帰ったのは日が変わる寸前だった。今日あったことを、父が家族に話したら、どうしよう。自分はこの家のなかで居場所がなくなる。怯え、震えていた。
家には、誰もいなかった。台所のテーブルにメモがあり、父はそれを手にとって、放った。メモが床に落ちた。父は風呂場に向かっていった。僕はメモを拾った。
『おばあちゃんが階段から落ちました。病院にいきます』
僕は驚いて、風呂場に向かった。
メモを持った僕を一瞥して、
「連絡くるだろ、死んだとしたら、寿命だろ」
といった。なにごともなかったように父は風呂に入り、ドアを閉めた。
僕は家中をうろうろした。留守番電話が点滅しているのを見つけ、ボタンを押すと、母からのメッセージがあった。
『いま松陰神社の葵病院にいます。また連絡します。』
僕は家を飛び出した。自転車に乗り、松陰神社まで急ぐ。松陰神社の病院がどこにあるのかわからなかったが、とにかく近くまでいかなくては。
汗だくになりながらコンビニエンスストアの店員に場所を聞き、病院にたどり着いた。
暗い受付のソファーに、妹ののぞみがぽつんと座っていた。
「遅いよ」
僕を一瞥して、いった。
「なにやってんだよ」
のぞみは、僕に対していつも攻撃的な口調をする。
「ごめん」
「あんたのこと、ずっとおばあちゃんはいってたよ。祥介になにか起きたかもしれない、って」
「そんな……」
岡山でのことを、祖母は察知したのだろうか、と考えたら、僕の腹のなかの臓物が、突然重くなり、びくびくと動き出すような感覚があった。
「おばあちゃんはあんたのことばっかりかわいがってて」
そうだ。僕が林間学校や修学旅行に行くことさえ、祖母は嫌がった。そばに置いておきたがった。
「それなのに……」
遠くから、母がやってきた。憔悴しきっている。
「おばあちゃん、死んじゃった」
お顔、見る? 母はいった。
葬式は滞りなく終わった。父の兄弟、メジロのおばちゃんたちは挨拶をしてさっさと去っていった。母は一人っ子だったので、残ったのは家族だけだった。帰り際にモリヤがにやにやしながら僕を覗き込んだ。岡山でのことを知っているんだろう。別にどうでもよかった。数日しかたっていないというのに、岡山でのことは遠かった。
「なあ」
父はいった。
「俺に遺産いくら入るんだ」
それを聞いて母は、父を睨みつけた。
「一銭たりともあんたになんかやらないわ」
妹は両親を冷めた目で見ていた。僕は、肩に、体温を感じた。とてもあたたかく、こんなにひどいありさまのなかで、安心することができた。
『大丈夫だよ、どうせこんなのすぐに終わる』
声がした。頭の中で響いている。
『なんてったって、僕がいるんだからさ』
祖母の遺体と二人きりになったとき、突然そいつはあらわれた。僕は驚いて、悲鳴をあげそうになった。
『し!』
そいつは僕の口をふさいだ。熱い手のひら。そしてそいつは、僕の背後にまわり、耳元で囁いた。
『はじめましてじゃないよ』
僕はぞっとした。レコーダーに録音した自分の声を聴いたときのような違和感。声は、僕のものだ。僕の声を、僕が聞いている。
「誰……」
僕はいった。
『名前をくれたから、やっとぼくは実体を得ることができた。タカハシタクミだよ』
僕は、気を失いたかった。眠ってしまいたかった。そして、そのままこの事態をなかったことにしたかった。
『無理だよ』
誰かにきつく抱きしめられている。渡辺にされるよりも、的確に、丁寧な、心地よい感覚に痺れそうになる。
『始まってしまった運動を止めることは、他者にはもうできない』
タシャ。これがすべて、僕の妄想なら、なんでこんな言葉を使いこなせるのだろうか。
『僕と君は、完全に別々になっちゃったんだもの』
ベッドの上にいる祖母を僕は見ていた。それしかできなかったからだ。祖母の目が、開いてくれたらいいのに。そして、僕を守ってくれたら、いいのに。
中学入試の三日間は、大雪になった。第一志望の学校へ向かうとき、僕は近所の神社の前を通り抜けるときに思い切り滑ってしまった。
「先に転んでおいたほうが、本番は滑らないわね」
母はそういって僕を慰めたが、結局第一志望から第三志望まで、すべて僕は落ちた。
「期待はずれ」
妹はいい、母は一切口をきかなかった。
『大丈夫だ。すべてうまくいっている』
タカハシタクミは姿をあらわさず、声だけが聞こえた。
それから二つ、二次募集のあった中学を受験し、電車を乗り換えて通わなくてはならない男子校に合格した。
母はケーキを買ってきて、妹はありがたみもなさそうに食い、僕はむりやり喉に詰め込んだ。仏壇にそなえられ、父の分は、なかった。
「早くおわんないかな」
石田はつまらなさそうにいった。校長先生の話は、いつも以上に長い。これまで上級生の卒業式に出席していたけれど、毎回毎回、新鮮なくらいに長く感じる。
中学受かったらマウンテンバイク買ってくれるって約束したのに、まだ買ってくんないんだけど、親。なんなんだよ。第一志望の大学付属の有名中学に見事合格した石田は、毎日その話ばかりをしてくる。きっと母も、石田の母さんに、息子がものをねだっている、と嬉しそうに話されているのだろう。苦しい。
「ショウちゃんこのあとのご飯会行く?」
「遅れていく」
「なにすんの」
「小学校もうこないから、散歩しようかなって」
「俺も一緒にいこうかな」
「やだよ」
「なんだよ。中学いってもさ、遊ぼうよ、スマブラしようよ」
「そうだね」
多分石田とはもう会うこともないだろう。
渡辺ともだ。卒業式が終わったら、渡辺と待ち合わせをしている。
『祥介、渡辺のちんぽこしゃぶってやろうぜ。あいつが我慢できなくなるまで追い込んでやるんだ。口だけじゃない、君は全身を使って、あれを喜ばせてやれ。君は、学ぶ必要がある。自分がとても魅力的で、他人を喜ばせてあげることのできる存在だってことを。みんなが君を求めていて、だから君は王様にならなくちゃいけないんだ。そのためにはたくさんの試練が必要だ。ゲームだってそうだろ。いきなりなにもかも手に入れてしまっていたら、そんなもの、なにも面白くない。僕にまかせてくれ。僕のいうとおりにすれば、いい。僕は、君がこの誰も助けてくれやしない世界で生き抜くためのメンターとなる。なにも心配することはない』
タクミはいった。
僕は、二十歳になったら、死ぬかもしれない。
あの頭のおかしい女がいった。
『君は、服従しているように見せて、支配する。他人の汚い部分を飲み込みながら、いつだってそれを噛み切ることができるのを忘れてはいけない。人間なんて、でっぱってるところを食いちぎってやれば一発でおだぶつさ。絶対に、忘れちゃいけないよ』
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