第29話 熊本くんの小説⑨

 女の子は右手を本棚の隙間から引き抜く。キャンパスノートを掴んでいた。

「なにそれ」

 なんの変哲もない、どこでも売っているものだ。べつに面白くもなんでもないではないか。それよりも、僕はこの部屋で、どこにいたらいいのか定まらず、居心地の悪さばかりが気になってしょうがなかった。

「いいから閉めて、こっちおいでよ」

 そういって彼女はベッドにどすんと座り込む。障子を閉めると、部屋は薄暗くなり、足元を気にしながら、ベッドまで進んだ。

「新しいやつあるかなあ」

 そういいながら彼女はノートをめくる。

「なに?」

「お兄ちゃんの頭のなか」

 薄暗闇のなか、眼を凝らすと、ページには、下手くそな女の裸の絵や、切り抜きしたらしい水着の女が貼られていた。ページに余白はいっさいなかった。大小さまざまな言葉が書き散らされていた。

「なにこれ」

 言葉の意味はさっぱりわからなかったが、文字に勢いがあり衝動的で、人を煽るようなものがあった。

「お兄ちゃんね、頭は悪くないと思うんだけど、こういうことが脳みそのなかでとぐろを巻いているのよ。で、吐き出すために、こんなもの作ってるの」

「お兄ちゃん、いくつ?」

「中学生」

 これを書いたやつは、本当に「頭がいい」のだろうか。

「自分で出したりしてるだけじゃきりがないみたいなのよ、そんで」

 床に散らばってる丸まったティッシュを彼女は足でつまんで、ゴミ箱のほうに放った。ゴミ箱には届かなかった。

「あの女が毎晩ここで相手までしてる」

「相手?」

 僕はニワトリ小屋でしている渡辺とのことを思い出した。僕たちがしていることの、その先を、

「このベッドで毎日」

 ぞっとした。飛び上がりそうになった。だが次第に、性器が膨らんでくる。ばれやしないかと僕は気になってしかたがなかった。

「最初にそれを見たとき、お兄ちゃん、ずっと小声で、ちくしょう、とか殺してやる、とか、死ね、とかいってて、わたしはびっくりして、部屋に飛びこんで止めようかと思った。お兄ちゃんとあの女が、ずっとふとんの上でじたばたしてるんだもん」

 じたばた、という言葉が、あのこと、を語るには呑気すぎて、僕はあっけにとられた。彼女はベッドに寝転がる。

「毎晩のように二人してここで」

 といったところで、言葉は途切れた。彼女は目を瞑っていた。

「寝心地いいよ」

 湿っていて汗臭いベッドが、いいわけないだろう、と思った。

「いいから」

 そういって彼女は自分の横の、あいている場所を手で叩き、僕を促す。狭いベッドのあいている場所に、彼女と同じように仰向けになった。

 生暖かいベッド、ちょっとでも動いたら触れてしまうほどそばにいる女の子。なんで自分はここにいるのだろうか。さっぱりわからなかったが、体をベッドに預けると、眠気に襲われた。朝早くに出発して、新幹線に乗って、こんな遠い場所にやってきた。ずっと緊張していた。これ以上、少しでも気を緩ませたら、眠ってしまいそうだ。

「あんた、わりとかわいい顔してるよね」

 声がした。

「うん」

「うん、てなんだよ」

 静かな笑い声。

「ねえ、信じられる? わたしたち、あと何年かしたら、お兄ちゃんがしていたみたいなことをして、お父さんみたいに働いて、自分たちみたいな子供を作って、育てなくちゃなんないんだよ」

 ああ、そうだ。自分はもうすぐ十二歳で、来年中学生になったらコロコロコミックなんて読まなくなるし、大人の文庫本だって読み始めている。ベイブレードも遊戯王のカードも、いずれ価値がなくなってしまう。

「そのうちに、お金とか、誰かの機嫌とか、世の中のこととか、自分以外のものばかりに気を取られて、わたしたちは、わたしのことを忘れちゃうの」

 そんなの、いまだって同じだよ。

「もうじきそれが容量オーバーになる」

 うまく頭に言葉がはいってこない。

「この世で生きている人たちはね、みんな死んでいる。亡霊みたいにさまよっている。自分を忘れた瞬間に、人は、おばけになる」

 声がどんどん小さくなる。眠い。もう我慢できない。

「なんの話、しているの?」

 僕は、なんとか、いった。

「あんた、かわいいし、ぼーっとしてるから、からかってるのよ、それに、ずいぶんおチンチン大きいじゃない」


 暗闇のなか。なにも見えない。ない、ということは。なんて無限に広く感じられるのか。そう思うと。もうひとりぼっちで。自分以外の広さに、寒気を起こす。風を耳元に感じて。くすぐったい。いや。不快だ。なにもない。誰もいない。お母さん。おばあちゃん。お父さん。妹。もう誰だっていい。メジロのおばちゃんでも、トモミツでも。モリヤだっていい。あの気持ち悪い女だっていい。だから。誰か。おばけになんてなりたくない。「ごめんね、でも、ちょうどよくあんたみたいなのがここにのこのこやってきたのがわるいんだからね」わるい。悪い。「肌きれいだね、女の子みたい」女の子じゃない。「わたしはね、男になって、お兄ちゃんをめちゃくちゃにしてやりたいんだ」「あんたたちがこれまでわたしたちにしてきたひどいことを、すべて、してやるんだ。それができないのなら、あんたをかわりにめちゃくちゃにしてやる。あんたは、わたしの、最初の犠牲者だよ。自慢してもいいからね」

 ギセイシャ。僕はなにもしていない。

「なにいってんの? 生きてるだけで、あんたはもう罪人だよ」


「判決」


「ショースケくんは、もうショースケくんじゃありません」


「別の名前で生きていきなさい」


「新しい名前」


「そうだなあ、わたし、『犬夜叉』が好きだから、高橋留美子からとって、タカハシ、なんてどう?」


「下の名前は……。そうだ、あんたはわたしの最初の犠牲者だからね、特別にタクミってのはどう? お母さんが好きだった漫画の『いまどきのこども』のね、わたしが一番お気に入りの子の名前、あげる」

 声。

「あんたはこれから、タカハシタクミだよ」

 声。

「ショースケは、タクミのことを見守ってあげてればいいからね」

 声。

「まあおとなしく、本でも読んでるといいよ」

 声。

「あんたのこと忘れないであげるよ」

 声。

「わたしのことは忘れてもいいよ。わたしの名前はね、まつり。あとのまつり、のまつり」

 声。

「そういうとかっこよくない?」

 声。

「もうあんたは、ぜんぶから自由だよ」

 じゆう。

「あんた、才能あるよ」

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