第26話 熊本くんの小説⑥
母は僕の岡山行きを反対した。父の兄弟たちが「先生」と呼んでいる、岡山に住む自己啓発セミナーの主催者の妻がなくなり、お別れ会が開かれるという。そんなうさんくさい場所に息子を連れていくなんて、どうかしている。ほとんどシューキョーではないか、と母は抗議した。
「あんたがなにをやっても構わないけど、祥介を巻き込むのはやめておくれ」
感情をきちんと制御して暮らしている祖母まで声を荒げていた。
父と母はなぜ結婚したのだろうか。家族でどこかへ出かけたことなど、数回しかない。
覚えているのは小学二年生の頃に、江ノ島に日帰りでいったこと、七五三のときに、近所の神社で記念撮影をし、夜に中華料理屋に入ったことくらいだ。家族旅行をした記憶はない。
父は意に介さず、僕は岡山まで連れていかれることとなった。
前日に祖母が、「なにかあったら電話しなさい。これを使いなさい」といって、僕にお年玉のぽち袋を渡した。なかには二万円と富士山の写真のテレホンカードが入っていた。まるで戦争にいく兵隊みたいだ、と僕は思った。ぽち袋をまるごと、いつも使っている財布のなかに入れた。これが、自分が異界から帰ってくるため必要な、たったひとつのアイテムのように思えた。
新幹線に乗るのは楽しかったが、隣にいる父は仏頂顔をして無言のままだった。父は当たり前のように窓際の席に座った。富士山が見たかった僕は不満だった。何度も喫煙室へ行くために僕をまたいだ。
東京から離れ、家から離れていく。寂しさと同じくらいに、どこか開放感もある。ただし、自分は子供で、父親が横で睨みを効かせている。僕は昨日初めて本屋で買った「大人の文庫本」を開いた。読めない漢字は無視しながら、字面を追った。なんでこの本を買うことにしたのか、正直わからなかった。漫画のイラストが表紙のファンタジー小説にしても良かったかなと少しだけ後悔した。同級生の好きそうなものを読むのもしゃくだったし、もっと大人っぽいものを求めていた。
「なに読んでるんだ」
喫煙所から帰ってきた父が、僕に訊いた。
「これ」
そういってブックカバーを外して表紙を見せると、
「はんかくせえ」
といった。そういえば、父が本を読んでいる姿を見たことがない。
「はんかくせえ、ってどういう意味?」
僕は訊いた。以前から気になっていた。父の口癖だった。
「はんかくせえははんかくせえだ」
父は吐き捨てるようにいった。岡山まで、僕たちは一切言葉を交わさなかった。
主人公のお母さんが死んで、彼女が好きな小説家の元へ向かい、「僕の赤ちゃんが欲しいのかい」といわれたところで、まもなく岡山、とアナウンスがあった。
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