第9話 熊本くんとわたし⑨
洗い物を終え、熊本くんは鍋をコンロに置いた。意外と手際が悪いのだ。
「寝てなよ」
わたしを見て、熊本くんはいった。
「うん、ありがと」
そういったまま、わたしは動かなかった。
「変なの」
熊本くんはとくに意に介さず、準備を続けていた。
「背中、おおきいね」
わたしはいった。ばかみたいな感想だ。
「背中はねえ、鍛えてますよ。なかなかうまくいかないけどね」
わたしを見ずに、熊本くんはいった。
「お父さんってかんじがするね」
「なにやってるんだっけ、ご両親」
「父親は会社員だと思う」
「なにそれ、だと思うって」
「会社の名前も、なにをして働いているのかもわかんないんだもん」
「そうなんだ」
熊本くんは追求しなかった。
「最近、わたしはなにも知らないんだなあ、と思うんだよね」
「どういうこと?」
「父親がなにをしているかに興味がなかったし、友達がなにを考えていたのかもわからなかった」
「友達?」
「高校の頃の」
熱い鮭がゆが出来上がり、わたしは息をふきかけながら、ゆっくりと食べた。
「高校のとき、面白いことあった?」
まるで、面白くなかった前提で訊かれているみたいではないですか。
「なんだろうねえ、美人な友達がいたなあ。その子とつるんでた」
でもね、実はあんまり覚えてないの。なんだかどんどんぼんやりしていく。数年前のことなのにね。なんだろう、いつのまにか自分と昔の自分が離れてしまった気分なんだよ。大河ドラマで数年後、みたくテロップがでて、いつのまにか年取ってるみたいな。
「ああ、わかるよ」
熊本くんは頷いた。同意してくれたことが嬉しくて、顔を伏せた。
「最近さ、自分のことを書いてる」
なにをいわれたのかわからず、わたしは熊本くんを見た。照れた表情をしていた。
「ぼくさ、小説家になりたいんだよね」
「なんで、就職活動はしないつもりなんですよ」
「アルバイトしながら、小説を書くとか?」
なんて夢見がちなことをこの人はいっているんだろう。
「いま、実はずっと書いてて」
「小説?」
「ブログに書いてるんだ」
「知らなかった」
本を読み、トレーニングをし、大学で友達と笑いあい、そのうえ文章を書いている。なんて忙しいひとなんだろう。わたしは驚きとか尊敬でなく、ちょっと呆れた。
「すごいねえ」
「書き上がったら、みのりちゃんも読んでね」
「教えてくれたら、いまから読むよ」
「いちおうネットに載せてはいるけど、やっぱり自分のことっていうのは恥ずかしいもんだよ。裸を見せるようなもんじゃない」
裸どころか、とてもあられもない姿をこの人は見せているじゃないか。
あんなふうに誰かに身を委ねて、体を震わせながら、隠して街を歩いている部分を仰け反らせて見せつけて。たしかにモザイクは入っていたけど、ほぼ見えてるようなものだった。
「書き上がったら、教えるね」
熊本くんはそういって、自分が平らげた皿を手にして、台所に向かった。
「あの本棚に、熊本くんが書いた本が並ぶなんて、いいね」
熊本くんの部屋にある本棚は、べつに大きいわけではない。高さはわたしの胸のあたりまでしかない。でも、熊本くんの好きなものが、きちんと並べられている。
「ああいう本棚、ほしいな、わたしも」
「買いなよ。ていうか文学部なんだし、もうちょっと読めよ」
「お金ない。もっといえばなに読んだらいいのかわかんない。だから、熊本くんの本棚にあるのを読むよ、おさがりで」
あの本棚を見ていると、結局はすべてが自己表現なんだなあ、とわたしには思えてくる。好きなものを手元に置いておくこと、整理すること。そういうことすら、結局自分をあらわしているんだなあ。わたしは、熊本くんの本棚のような、確固としたものを、自分のそばに置くことができるんだろうか。雑誌で繰り広げられる素敵なもの、ではなく、自分オリジナルの。
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