フロイトの密室

らきむぼん

フロイトの密室

 序章


 部屋に入った瞬間、彼は違和感に気付いた。見慣れた風景から、何かが欠損したかのような奇妙な感覚であった。真夏だというのに出したままの炬燵も、三ヶ月前の日付のカレンダーがそのまま壁に掛けられているのも、そんな些細な違和感は部屋を出る前と同じだ。ハワイ旅行の土産であるウミガメのキャンドルも、沖縄旅行の際に購入したシーサーの置物も、そのままである。京都で撮った古都の写真や群馬のダムを臨場感たっぷりに撮影した写真などが貼られたフォトボードも変化はない。

 彼が部屋の中を注意深く観察していると、床の真ん中にポツンと何かが置かれている。手であった。手首から先だけの左手がそこにあった。

 彼は一度部屋から離れ、着ていた衣服を洗濯機に放り込み、流しで手を洗った。部屋に戻り、左手を拾い上げてよく見分する。小指にペンだこがある。持ち主は左利きだったのか、と彼は思った。綺麗な手だった。きめ細やかな肌はしっとりと潤っているようであり、柔らかだ。細い指は関節部分も太くなっておらず指先まで同じ直径をしている。爪は磨かれており、光をよく反射する。

 断面は鋭い刃物で裁断したような切り口だった。血はもう出ていない、まるで空間ごと次元を切り取った、そんな様子だった。小さな左手だ。彼の両掌で包めてしまいそうな程に。おそらく女性の左手だろう。愛しい感じがした。

 窓は完全に閉められていた。クレセント錠はしっかりと施錠されており、それは全ての窓について云えることであった。外界と接する扉は、それらの窓を除くと玄関の扉のみである。玄関の扉は彼が自身の手で鍵を用いて解錠した。それよりも前に破壊されていたなど、侵入の痕跡はなかった。鍵はディンプルキーという形状で合鍵は生成が難しく、彼の持つ鍵が唯一の鍵である。鍵のかけ忘れに関しても否定される。彼は外出先からの帰り道、身につけた衣服と鍵しか持っていなかった。意識して取り出したその鍵を用いての解錠が妄想であったとは考えにくかった。

 この少女の左手はどこから現れたのだろう。もしも彼が推理小説の愛好家ならば、こう表現したかもしれない。

「読者への挑戦状、密室に現れた少女の左手はどのようにして現れたのか」

 しかし彼の部屋の本棚には推理小説は一冊もなかった。彼が不意に目を向けた本棚の中で、目に付いたのは『いかにして抑圧は行われるか』という分厚い本だった。その本を捨てなければ、と彼は思った。

 彼は本棚から抜き出したその本があった隙間に、少女の左手を安置した。



 一


「それで、まだその『少女の手』が発見された部屋の住人は見つからないのかい?」

 昼下がりも過ぎ、昼食時も終わった人の少ない大学食堂にて、安いパスタをフォークに巻き付けながら、高野聖孝たかのきよたかは言った。

「そのようだよ。なんでも、その住人が見つからなくて真相が判らないから、現場に残された『少女の手』について、学内の色んな所で謎解きが行われているみたいだ。そこで君にも謎解きに挑戦してもらおうと思ってね」

 パスタを口に放り込んだ俳優のように容姿の整った聖孝の向かい側に座る、平凡でやや頼りない風貌の白井京しらいけいは、そう返して日替わり唐揚げ丼をかき込む。今日の唐揚げ丼はチリソースがけである。

「ずっと聞こうと思っていたのだが、毎日それを食べて飽きないのかい? そもそも日替わりというのは毎日替わるから日替わりなのであって、唐揚げ丼が塩ダレになろうが茶漬け風になろうが唐揚げ丼だろう」

「別にいいだろう、美味いし安いんだから。学生の身分で車を持っているとどうしても貧乏性になるものだよ。それに、この前の故障の修理がなかなかの出費だった。最近は普段から質素に行こうと決めたんだ」

 京はイギリス製のややアンティーク掛かった中古車を所有している。その車でどこにでもドライブするのが彼の数少ない趣味だった。

「まあそんなことはどうでもいいけれど。それで、なんでそんなに謎解きが学内で乱立するんだ? そもそも君は何故現場に季節外れの炬燵があることや、三ヶ月前の日付のカレンダーがそのまま壁に掛けられていることや、ハワイ旅行や沖縄旅行の土産物、京都や群馬の写真が貼られたフォトボードがあったこと、汚れた洗濯物が洗濯機に入っていたこと、そんな細かな状況を知っている?」

 聖孝の疑問はもっともなものだった。しかし彼の記憶力は相変わらず大したものだと京は思う。難解過ぎる内容というわけではないとはいえ、一度しか説明していない現場の状況を諳んじるなど、京には注意して聞いていてもできそうもなかった。この高野聖孝という男は変人だが非常に頭の切れる男だった。大のミステリ好きで、目の前に謎があれば納得が行くまで真相を追求する。以前京は彼の頭脳に助けてもらったこともある。しかし、痩身で眉目秀麗、更に頭脳もずば抜けているという一見完璧な人間だが、性格が不遜で尊大、神経質、衒学的なのが欠点であった。

「いや実はね、その部屋の住人というのがうちの大学、閏高うるみだか大学の生徒らしいんだよ。謎解きと言っても大半はただ身近な事件に騒いでいるだけさ。始まりは一人の女性の失踪だったんだ。結果的に言えば、彼女は今話題になっている『ということになる。大学生で非常に小柄な左利きの女性だったらしい。彼女は先日、隣町のひと気のない林の地中で見つかった。遺体はバラバラに切り刻まれた状態で地中に埋められていたが、偶然林に入って遊んでいた小学生数人により発見されることになる。しかし警察が調べるとどうやら遺体の左手に当たる部分が見当たらない。まあそれは謎のまま捜査は進んでいたようなのだが、比較的容易に容疑者は見つかる。林から数キロの圏内の防犯カメラを調べると、を転がして歩く男が見つかったんだ。遺体を埋める程度には隠蔽の意志があったはずだがその辺りが実に場当たり的で、当然そんなところで旅行トランクを持ち歩く者は怪しい。更に調べると、数時間後に今度は同じ男が手ぶらで同じ道を戻ってきた。警察はこの男を容疑者として追うことになる」

 ここまで京が長広舌すると、聖孝はにやにやと笑っていた。

「なんだ、何がおかしい?」

「いや、私は君に『解いてほしい謎がある、ニュースで見たかもしれないが近くのアパートで少女の手首から先だけが見つかるという事件があった。この事件の謎を解きたいんだ。だがその前に飯だ、特別に僕が奢ろう』とすごい剣幕で言われた」

「飯云々のところは引用しなくていいよ……」

「いざ聞いてみるとなんだ、誰が殺したかフーダニットではないのか。最早バナナの皮でも踏んで一度頭を打ったとしか思えないような胡乱な君の脳髄でもそこまでくれば犯人はその男だと判るだろう。では私に解かせたい謎はそこではないというわけだ。勿体ぶって現場には何があって、などと説明するものだから、犯人探しフーダニットトリック破りハウダニットか、と考えていたが」

 いつもの毒舌に少々悔しい思いもあったが背に腹は代えられない、京には謎を解かせたい理由があった。

「君に解いてもらう謎は確かにそこではない。警察が捜査を進めるとその犯人の男――ああ、この時点では容疑者だが――は、被害者の恋人だったということが判った。そしてその犯人自身が姿を消しているということも。友人たちは男がことがあることを知っていたので気にしていなかったようだ。そうして警察はアパートの男の部屋に踏み入った。部屋には前述の通り男ががあった。しかし使はどこにもなかった」

「まあ推測という段階であればその通りだが、論理的には土産物が沢山あったからといって旅行好きとも限らないし、そもそも本人が買ってきたか判らない。数ヶ月の旅行に出ていたとしても帰ってきているのだから、炬燵をそのままにしたりカレンダーがめくられていないとは限らない。仮に旅行好きでもトランクを使用しない旅行好きもいるだろう」

「細かいなぁ」

「君が先程ドヤ顔でいかにも伏線を張ったとばかりに現場の状況を語ったものだからね。それに君の語りがもし小説であったらその論理的でもない傍証に傍点を振っていそうで実にいたたまれない。次に語るときは『これは推理小説ではない』と語りの中に含みを持たせる事をおすすめしよう」

「わかったよ! いいんだそんなことは、僕は小説なんか書かないんだから!」

「よろしい、続けて」と聖孝、呆れるほどの論破癖である。

「それでだ、まあ警察はもっと科学的に犯人を特定したんだよ、勿論ね。風呂場の血液反応を調べたんだ。ビンゴだった。大量の血液が男の部屋のユニットバスで流されていた。ちなみに、それ以外にもだった。ダメ押しでもう一つ、遺体を運ぶのに使った旅行用トランクとスコップも林に近いゴミ捨て場に置かれていた。トランクの中からも血液反応があり、残っていた指紋も男と一致した。そして何よりも単純な証拠として、本棚の本と本との間に、例の手首が安置されていた。手のひらを前にして、シュルレアリスムのオブジェのようにね」

 聖孝は「ほう」と初めて興味を示すような反応をした。ついには人のいなくなった学食、冷房が寒いくらいに効いている。ようやく本題が始められる。

「聖孝、君に解いてもらいたい謎はそこなんだ。何故、男は切断した遺体の左手を本棚に安置したのか?」

 シン、とフロアが静まり返る。

 聖孝の目に、まるで名探偵のような光が灯った。京には聖孝に対する信頼があった。この男は優秀だ、少なくとも京の知る人物の中では頭一つ抜けている。聖孝の頭脳明晰さは京にとってはかの諸葛亮孔明のようなものだった。最強の軍師である。たっぷりと間を取って、いよいよ聖孝が口を開く。

「そんなこと私が知るか」

 孔明の残酷な一蹴だった。



 二


 京の額にはべっとりと油汗が表出していた。目は見開かれ、無意識に席から立ち上がってしまっていた。

「お、おい、どうしたんだ僕の孔明――?」

「幻覚でも見ているのか」

「黒田官兵衛でもいいぞ、そうだ唐揚げを一つやろう」

 京は完全に壊れていた。

「落ち着けよ、これ以上君の脳が使い物にならなくなったら、壁抜けでも試しだしそうだ」

 聖孝の数少ない友人の一人に、毎日図書館の扉に向かって突進し、壁抜けを試みる量子論者がいる。天文学的な確率ではあるが、壁を透過することは可能であるという持論の元、彼は実証を得るために毎度壁に立ち向かう。流石の聖孝も狂気の友人は一人で事足りていた。

「哀れな京、君がさっき上手く誤魔化したつもりでいる、質問の答を聞こうじゃないか」

「え、なんのことだ?」と京は慌てて正気を取り戻す。

「君が現場の状況を詳しく知っている理由だよ」

 なるほど、と京は納得した。確かに答えをはぐらかしていたのは事実だ。できればうまく聖孝の関心を惹き、謎だけを解かせたいところだったが、こうなると事情を説明する必要がありそうだ。

「それを言ったら謎を解いてくれるんだな?」

「それで情報が出揃うならね」

 京はよし、と覚悟した。小さな自尊心プライドで友人を利用としたのがそもそも間違いだったのだ、京は反省する。

「僕の遠縁の親戚に白井肇しらいはじめという人がいてね」

「君の親戚にはこりごりだよ」すぐさま苦言を呈す聖孝だった。以前、京の親戚が関わる事件に聖孝は巻き込まれてしまった。反応としては当然だった。

「まあそう言うな、本当に遠縁なんだ、血筋的にはほぼ他人さ。でね、その肇というのが偶然にも僕と同い年で、この大学のミステリ研究会の会長なんだ」

「へえ、ミス研会長の白井なら私も知っているよ。私がミステリ好きだと知ってスカウトしにきたことがある。まあ創作部門も兼ねたミス研と聞いて断ってしまったがね。あれが君の親戚とは、世間は狭いものだ」

「それで、まあ親戚というのはお互い知っていて、そういう縁もあってよくミス研の集まりに僕も参加するんだ。そこで出会ったミス研メンバーに黒井さんという女性がいてね。この人がまたパッと見愛想がない人で、いつも無表情かモナリザみたいな微笑を浮かべているかくらいで、名前の通り黒い服をいつも着ていて髪も真っ黒なストレートで、ちょっと暗いかなぁと思う人なんだけれど、ただまあ一言で言えばとても美人で、どこかミステリアスな感じで、でも話してみると意外と面白い人だったりして、物知りでいろんな雑学を持っていたり、変わったミステリをよく読んでいて、その話題になるとかわいい一面も――」

「白いだか黒いだか知らないが、君の白黒はっきりしない女性の好みの話はもういい」

 いつの間にか顔を赤らめてだらだらと話してしまっていた京を、心底嫌そうな顔で聖孝が冷たく制した。

「え? あ、ああ。上手いこと言うなぁ聖孝は。白と黒ってなんか運命的というか――って、いや僕は別に黒井さんに一目惚れしたなんて言ってないぞ!」

「私はそこまで断定していないんだがまあそれで? 君が一目惚れした黒井さんがどうしたって? まさか本格ミステリのワトソン役にありがちな恋を君が見せてくるとはね。逆に興味が湧いてきたよ。まあ黒井と白井が運命的というなら、白井の方の配役キャスティングは君の親戚の肇君の方だと思うけれどな」

 聖孝が若干の関心を持ち始めたことで。ようやく京は勝手に混乱していた脳内の整理がついてきた。ブン、と頭を振る。何を話しているんだ自分は、と恥ずかしくなってきた。だがここまできたらもう開き直るしかない。

「認めよう、僕は黒井さんに良い格好をしようとして、ミス研内でも話題になっている謎解きの答を推理していたんだ」

 聖孝の顔が酷く歪んだ。まるで先日聖孝が無理矢理貸してきた『歪んだ創世記』の表紙のようだ。

「君のような愚か者が一人前に推理しようとするとは。君はどう頑張ってもパルツィファルにはなれないよ」

「君を利用して真相だけをこっそり拝借しようとしていたのは謝ろう」

「拝借って、借りた真相を君が使ったら私には何が返ってくるんだ」

「そのパスタだろうか」

「だろうか、じゃあないんだよ愚か者」

 一瞬の静寂の後、二人で何故か大笑いした。食堂のおばさんがギョッとした目で遠くから二人を見ていた。

「京、そんなどうでもいい君の計略は措いておいて、結局現場の詳細な情報はどこから来た?」

 本題が少しも進んでいなかった。京はふと思う、自分の恋の話は必要だったのかと。

「そうだった、ミス研のメンバーの中に肇や黒井さんと仲のいい学生がいる。その学生の父親が今回のバラバラ殺人の担当刑事で、まあ結果だけ簡潔に言えば、ミス研の一部、肇会長と黒井さん、他二名ほどに詳細な情報が漏れたんだ。警察官としては完全にアウトだが、まあこのまま黙っていればニュースや新聞の情報以上の詳細を知っているのは五人だけだ」

「君のせいで僕という六人目が生まれたんだがね、君の色ボケのせいで」

 正論だった。こういうときは無視するしかないと京は知っていた。

「というわけだ。どうか謎を解いてくれ。警察も判っていない真相を考えてほしい。なぜ犯人は本棚に左手だけを安置したのか。これは詳細を知っているミス研のメンバーの誰も答に辿り着いていない問題なんだ」

 京は真剣な顔で聖孝を見た。聖孝の目に、まるで神のような光が灯った。京には聖孝に対する期待があった。この男は秀抜だ、少なくとも京の知る小説の探偵と比べても遜色ない。聖孝の知略縦横さは京にとってはかの竹中半兵衛重治のようなものだった。最強の知将である。たっぷりと間を取って、いよいよ聖孝が口を開く。

「そんなこと私が知るか」

 半兵衛の謀反だった。



 三


「答えたら謎を解いてくれると言ったじゃないか!」

 またも席から立って大声を上げている京だったが、今回は混乱もしていない。確かに聖孝は情報が揃えば謎を解くと言っていたはずであった。

「君の色恋と、くだらない矮小な見栄プライドと、口の軽さとは解ったが、それ以外の情報は何一つ判らなかった」

 無表情で淡々と言う聖孝であったが、京としてはどうにも納得がいかない。能面のような顔で無感情に彼は続ける。

「逆に何故私ならそれが解ると思っているんだ君は。私は論理的な情報の整理で答を導いているだけで、魔法で真相を見ているわけでも、テレパシーやサイコメトリーで心理を読めるわけでも、千里眼で見えない情報を透かして見られるわけでもない。千里眼といえば、千里眼事件が有名だが御船千鶴子による千里眼を証明できなかった福来友吉は帝国大学の辞職後に」

「待て待て、千里眼はどうでもいい、本当に君でもこの謎は判らないのか?」

「判らないよ。いいか、そもそも君の言っていることは犯人が何を思考したか当てろってことだ」

何故殺したかホワイダニットって言うんじゃないのかこういうのは」

「ミステリならね。君の言った情報はホワイを導くには何もかも足りない。そんなことはミス研の連中も知っているはずだ、君だって冷静に考えれば不可能であることが解るだろう。ミス研の連中は何と言っている?」

 ミス研の会合に混ざったときのことを思い出す。肇はなんと言っていただろう。こんな議論は倫理的に良くないと言っていたか、確かによく考えたらあまりに不謹慎だ。京は段々と自分の不純な動機が恥ずかしくなってきた。人の生死で何を遊んでいるんだ。黒井は何を言っていたか。彼女は確か――。

「原理的に不可能」と京はボソリと呟いた。

 聖孝はふう、と溜息を吐く。

「僕も彼らに同意だね」

「――――いや、聖孝、それでもやはりこの謎はこのまま着地させないで終わる訳にはいかない」

「君もしつこいねえ、それとも本当に小説でも書くのかね。それならばこのまま落ちずに終わるのはあんまりだが」

 聖孝はもう完全に脱力していた。彼の言う通り、情報が足りなければ真相は導けない。当事者が行方不明な以上、警察も何もできないだろう。このままでは真相は闇へと消えるかもしれない。

「いや、僕やミス研のみんなはたまたま詳細な情報を得て何気なく真相を見つけようとしていただけだ。でもそれが人の生死を弄んだことに違いはないと思うんだ。だからせめて、蓋然性の高い予想くらいは。それが流儀じゃないか、と思う」

「なんの流儀だよ」

「探偵と助手の?」

 キョトンとした顔の聖孝。京は何かおかしなことでも言ったかと首を傾げる。

「――――全く、しょうがないな。君の動機が多分一番酷いと思うけれど、まあそこは措こう」

 やれやれと今までに見たことがないほどに困った表情の聖孝だったが、深呼吸を一度すると長く目を閉じた。

 一分程だったか、長くも短くも感じる静寂の中、石像のように動かない美麗な男は何かを考え続けている。そして、ゆっくりと瞼が開かれた。

「本だ」

 彼は一言そう言って京の方を見た。

「本?」

「そうだ、本棚の本と本の間に左手はあった。本棚の空いた場所ではなく、隙間にだ。そこには本が収まっていたのではないか。いや自然に考えればそこには本があったはずだ。そこに本がなかったのならば、この推理に満たない推測の物語は霧消する。京、本棚から消えた本を探せ」

「そんな、どうやって……」

「そんなこと、私が知るか」

 聖孝はそう言って笑った。



 四


 その日は雨だった。前を歩く黒い傘は聖孝の長い脚を守りきれておらず、そのせいか彼は「雨は嫌いだ」ともう三度もぼやいている。

 目的地は大学図書館だった。先日の食堂での聖孝の言を信じ、京は一冊の本に行き着いた。その一冊を実際に聖孝に見せるために、図書館に向かっているというわけであった。

 構内を暫く歩くと、図書館の入り口が見えてくる。入り口の傍には、短い手脚に小太りという聖孝の容姿をそのまま逆にしたような男が傘も差さずに屈伸運動をしていた。聖孝は立ち止まってその男に声を掛けた。

「やあ、大吾郎君、調子はどうだい」

 大吾郎と呼ばれた男は振り向くと爽やかな笑顔でサムズ・アップし、図書館の扉に向かって突進した。ベチンッと音がする。

「ぐぇ」

 踏み潰された蛙のような声を発して大吾郎は仰向けに倒れた。

「今日も壁抜けは失敗のようだね」

 聖孝は慣れた様子で言う。一方で、京はあまりの衝撃に脳内が何度も衝突の瞬間の映像を繰り返しているようだった。呆れるよりも先に、怖かった。最早恐怖映像ホラーだった。

「イテテ……君が一緒にやってくれれば確率は倍になるのだがね」

「私は遠慮するよ、偉業を成し遂げるのは君でなくてはな」

 そんな調子の良いことを聖孝は言う。

 大吾郎と別れると、京と聖孝は図書館に入館し、四階の教養本コーナーに進む。

「目的の本は心理学の棚だ」

「しかしよく見つけたな、どんな手を使った」

 聖孝は素直に感心している様子だ。京にしても、よく辿り着けたなと思っていた。

「夏休みを利用して、彼は卒業論文を書いていたようなんだ。そのために図書館で借りていた本が四冊あった。全て、心理学の本だったよ。その四冊を彼は自分の本棚で管理していたんだ。そしてそのうちの一冊を抜き出し、代わりに左手を置いた」

「なるほど、貸出情報を見たのか、それくらいなら幾らでもやりようはあるな。しかし借りた本はまだ返却されていないんだろう、当人が行方不明なのだから。他の私物の本が抜かれた可能性もある」

「SNSだよ。彼は読書管理サービスで持っている本を細かく管理していた。本棚がそのままWEB上にあるようなものだ。一冊ずつ見ていった結果、手のひらを前にして手首を安置できる隙間を作ることができる分厚い本は彼の私物としては登録されていなかった。上下巻など複数冊の書籍を含めてね」

 本当は、京はこの作業ですら苦戦していた、探偵助手には向かないなと思わされるほどに手際が悪く、愛車で何度ドライブに出掛けたことか。

「まあ偶然に過ぎないとはいえ、君にしては良い勘をしていたと言うべきだろう」

 探偵は思いの外評価をしてくれたようだ。彼から良い評価があるとどうにも気持ちが悪い、何か裏があるのではと思ってしまう。

「珍しく褒めるな」

「発想だけはね。それ以外は偶然だらけなのだろう」

 珍しく好意的な発言があったかと思うとすぐに不遜な態度である。京にとっては最早慣れたものであったが。

「失礼な、僕の実力だよ」

「今回はどうにもミステリではなく予想を組み立てるための調査だから、別にいいんだけれど、細かいところを指摘すればキリがない。まず本棚を端からきっちりと埋めていくかどうかは個性がある。従って隙間の広さは根拠としては弱い。次に複数冊に気が回ったのは君にしては上出来だが、複数作品が鍵となる事情で本を抜き出したかもしれない。読書管理サービスに登録漏れがあった可能性もある。ついでだから四冊の貸出本から、君がどうやって一冊の本に辿り着いたか当ててやろう。先ほどと同じだ、本の厚みを調べたんだね。結果として四冊のうち手首を置けるスペースを確保できるのは一冊だけだった。これも複数の書籍の組合わせに意味があったら根拠にならないが。更に言うとだね、図書館というのは人気があっても同じ本を複数購入するとは限らない、流石の君でも下調べはしたのだろうが、該当の本がこの図書館に二冊以上存在したのは偶然。犯人が読書管理サービスを利用していたのも偶然、そのアカウントと本人が同一人物だと外から見て判ったのも偶然、九割は偶然なんじゃあないかね。良かったな京、非常に運が良い。君が猿に生まれ変わったら是非シェイクスピアを書いてくれ」

 京は頭が痛くなった。半分以上は聞き流して、窓の外の雨に思いを馳せる。ああ、蛙になりたい。

「この棚のどこかにあるはずだ」

 心理学の本棚に辿り着き、一冊の本を探す。

 本当は、京一人の調査ではなかった。読書管理サービスを調べることを勧めてくれたのは黒井だった。当初は自分の推理として聖孝の推理を披露するつもりだったが、今となってはそれもあまりにバカバカしく、結局京は彼女に相談したのだ。黒井はこう言っていた。


《高野さんという方にはまた色々言われるでしょうけれど、おそらくそれで幾つかの書籍には辿り着けるでしょう。犯人は読書管理サービスを利用していますよ、被害者と知り合ったのはそこがきっかけだったようです。私が実際に閲覧してみましたので確かです。これはここだけの話ですけれど。もし、そこに答がなかったら、彼の学部に注目してみることです。例えば、卒業論文の進捗辺りを。貴方の探偵なら、それで十分でしょう》


 黒井の言葉を思い出しながら、本棚を上から目で追っていく。

「あった、これだよ聖孝」

 京は一冊の分厚い本を取り出す。表紙はシンプルな白地で、黒のレタリング字のタイトルが印字されている。


【いかにして抑圧は行われるか】


「聖孝、どうやらフロイトの心理学についての本のようだね、犯人は何故これを抜き取って、そこに手を置くなんてことをしたのだろうね」

 京の言葉に対して聖孝の返事はなかった。顔を上げて彼の顔を見上げると、またも石像のように均衡バランスのとれた横顔を硬直フリーズさせている。

「なるほど、もしかしたら犯人にとってはこの事件の謎は『誰がどうやってそれを成したか』、だったのかもしれない」

 固まっていた聖孝が得心のいった様子でそう漏らした。

「犯人は部屋の住人の男じゃなかったというのか?」

「いや、証拠が揃いすぎている、彼が犯人だ」

「じゃあどういう……」

「いいかい、これから私が話すことは全て推測だ。これは真相でも何でもない、もしもの話だ。そしてそのもしもすら話せない謎をまず明確にしておきたい」

「つまり、予想自体が原理的に不可能な事?」

「そうだ、まず動機だ。犯人が被害者の女性を殺した理由はデータが揃っていない。揃っていても本人に聞かないと解らない。もしかしたら本人すら解っていない可能性だってある。殺人の動機なんてものはそもそも解らないものなんだ。次に、部屋に左手が残されていた理由だ。これも残念ながら判らない。可能性は推測することができるが根拠は薄弱だ。一つは、旅行トランクに遺体を詰める時に入れ忘れたという可能性。馬鹿馬鹿しいと思うかもしれないが、ないとも言えない。二つ目、左手を所有したいという願望があったという可能性。彼女は左利きだったという、残されたのも左手。犯人にとって被害者の左手が重要な価値のあるものだった。私の想定ではこのどちらかだろうと思う。可能性だけなら他にもある、つまりこれの答も判らない。原理的に不可能だ」

 聖孝はそこまで言い終えると、京の手から『いかにして抑圧は行われるか』を取り上げ、中身をパラパラとめくっていく。

「やはり、防衛機制か。置換、反動形成、そして抑圧」

 聖孝は訳の解らないことをブツブツと呟いている。京はただ待つしかなかった。

「ううむ、私の予想は君にとって納得の行くものではないかもしれないな」

「この際、構わないさ。フロイトを引用する胡散臭い講習会セミナーを受け流すのには慣れているからどうぞ続けてくれ」

「フロイト派に怒られるぞ、君」

 軽口を叩き合いながら、二人は人のいない一角に移動した。窓際の読書スペースだった。

「さて」と聖孝は口を開く。雨音が心地よく窓を叩く。観客のいない拍手の開幕だ。

「まず彼は何らかの理由で被害者を殺害した。次に浴室で遺体をバラバラにする。遺体は念入りに血を抜いて旅行用トランクに詰め込んだ。その際に左手が部屋に残った。その理由は判らない。入れ忘れたか、零れ落ちたか。或いは所有したかったのか。彼は遺体と凶器とスコップの入ったトランクを持って、或いはスコップは途中で買ったのかもしれないが、林に向かった。そして遺体を埋め、トランクとスコップを捨てた。おそらくこの辺りで彼は自分が殺人を犯したという記憶を封印したんだ」

「――はい?」

 記憶を封印した、聖孝はそう言った。

「フロイトは防衛機制という概念を提唱している。不安や受け入れがたい事実から心を守るために行われる心理的な防衛反応のことだ。彼は殺人という受け入れがたい事実によって精神が崩壊するのを防ぐために殺人の記憶をなかったことにした。きっと彼自身が一番疑問に思ったはずだ。何故服がこんなに土塗れなのか、何故こんなところに手ぶらで来たのか、妙に疲れているな、とかね。彼はよくわからないままそれでも無意識ではしっかりと納得しながら帰宅したんだ」

「そんな、そんなことってあり得るのか……?」

「トラウマによる健忘症や失語症、幼児退行は知っているだろう」

 聖孝は妙に冷静だ。京には最早雨の音すら聞こえていない。

「彼は帰宅した。自ら鍵を開けて、部屋に入り、違和感を覚えたかもしれない。旅行用のトランクは大きいはずだから、部屋からなくなっていていつもと違う感じがしたのではないか。でもトランクのことは記憶が曖昧だ、もし安易に思い出したら殺人のことが意識下に浮上するかもしれない。そして左手を見つける。恋人が小柄なことなど恋人の存在ごと無意識に沈めているのだから、少女の手だと思ったかもしれないね。ユニットバスでは大きなトランクは入らないはずだ。居間で遺体を詰めていたかもしれない。としたら左手は居間に落ちていたかもね。或いは所有するつもりだったとしたら机の上だったのかもしれない。彼はきっとそこまで取り乱さなかっただろう。無意識下ではかなり大忙しだっただろうけれどね。左手は殺人に直結する物的な証拠だ。彼がそこで狂乱しなかったとしたら、彼にとって左手はあって当然なもののように感じたかもしれない。或いは愛しく思ったか。憎くて殺したなら、反動形成――憎いという感情を封じるために反対の感情として愛情が浮上したかもしれない。所有の意図があったとしたら恋人の手だからね、これも愛情が浮上したかもしれない。そして彼はふと本棚の一冊の本を見つけてしまう。『いかにして抑圧は行われるか』だ。この本は危険だ。防衛機制の仕組みが全て書かれている。今まさに自身を守っている無意識の心理が崩壊するかもしれない。彼は思ったのではないか。その本を捨てなければ、と。そしてその本を捨てたいという気持ちは後ろめたいものだった。全ての真実を隠蔽する罪悪感を封じるために、彼はその間隙に何か穴埋めをしなくてはいけなかった。そして罪悪感の補填、置き換えのために愛情の象徴と化した左手をそこに安置した」

 聖孝は言い終えると窓の外に目をやった。雨は止まない。

「それが、真相……」

 言葉がうまく出てこなかった。そんな絵空事のような出来事が実際に起きたのだろうか。あまりに現実から乖離していた。

「真相かは、ちょっとどうかな」

 聖孝はこちらに向き直って僅かに笑う。

「もしそんな深層心理の防衛反応なんて起きていなかったら、単純に芸術のつもりだったのかもしれない。デペイズマンを知っているかい? 君は本棚の本と本との間に手のひらをこちらに向けて左手が置かれていたと言ったね。まるでシュルレアリスムのオブジェのように、と。私は実はそれが真相ではないかとその時思った。シュルレアリスムの手法にデペイズマンというものがある。意外な組み合わせを配置することで受け手の感情を揺さぶる絵画や文学の表現技法だ。本来ないものがそこにある。荒涼とした砂漠の中に椅子が置かれているキリコの絵画『谷間の家具』のようなね。梶井基次郎の『檸檬』は読んだかい? 高く積まれた画集の上の檸檬はデペイズマンさ。左手は、本と本の間に置きたいから置いたのかもしれない。隙間は本をズラせば作ることができる。フロイトに教えを請わずともね。さあ、君はどちらだと思う?」

 雨は柔らかに音を立て、次第に消えていった。一筋の光が雲間から差し込んだ。窓の外の階下でずぶ濡れのハンプティ・ダンプティのような姿の男が顔を上げた。

「心理学は解らない」

「だろうね」

「でも芸術はもっと解らない」

「へえ、それは意外な選択だ。フロイトに目覚めたのかい」

「まあ、フロイトとシュルレアリスムを引用する講習会セミナーはもう今回限りだな」

 差した一条の光が雲間を裂いて横に広がる。

 ――――――――光の閉幕カーテンフォールだ。



 終章



 京は、大学構内の中庭を彷徨っていた。最近は昼食後にこの辺りを波に漂う香木のようにフラフラとするのが日課だった。おろしポン酢唐揚げ丼の唐揚げが歯に挟まっていて気持ちが悪いが、誰も見ていないとはいえ口の中に指を突っ込むのも少々躊躇われた。

 ふと、中庭の遠くのベンチを見やると、見覚えのある人物が読書をしていた。ミス研の黒井であった。背筋をぴんと伸ばして、今日は黒髪を後ろに結いている。

 京は容赦なく歯の裏に指を突っ込んだ。

「やあ」

 黒井が顔を上げる。パタンと本を閉じて微笑する。

「こんにちは」

「こんにちは、隣いいかな」

「ええ」

 京は黒井の隣に腰を下ろした。

「何を読んでいたの?」

「ドグラ・マグラ」

 知らない本だった。ミステリなのかどうかも判らない。聖孝が読ませてくるミステリ以外は読まないから知識が偏ってしょうがない。

「ふ、ふうん、面白いよね、ドグラ・マグラ。軽快で、ライトな感じで」

「そうね、今度語り合いましょう」

 黒井はくすりと笑った。

「この間はありがとう、友人の高野は無事に真相……かどうか判らないけど、答には辿り着いたよ」

「それは良かったね」

「彼は――犯人はどこに行ったのかな」

「旅行かもしれないね。見えるもの、聞こえるものの全てを抑圧して、フロイトの密室に閉じ込めて、どこか遠くに」

「フロイトの密室か」

 彼女は心理学的、精神分析学的な解決を支持しているのか、と思いながら京は違和感を覚えた。

 ――彼女に聖孝の推測を話しただろうか?

 彼女と最後に会ったのはあの雨の日の前だ。何故彼女は聖孝の出した結論を知っているのだろう。

「黒井さん、君は――どこまで」

「ミオ」

「えっ?」

「私の名前。黒井ミオ、ミオでいいわ。そう呼ばれる方が好きなの、黒い水脈みおみたいでしょ」

「…………えっと、うん」

「そろそろ授業だから。じゃあね、京君」

 黒井、黒井ミオはすっと立ち上がると小さく手を降って立ち去った。ポツリと残された京は、暫くミオの後ろ姿を見つめていた。

「図書館で『ドグラ・マグラ』借りてみようかな」

 その夜、美人の魅力的なひと時セミナーに惹かれて厄介な代物を読む羽目になったことを彼は知ることとなった。


 了




あとがき


読了感謝致します。

本作は部屋に少女の手ほどある巨大な蜘蛛が現れ、ビビりながら「この蜘蛛が女の子の手ならいいのに」と思ったことを契機に序章を書き、解答がほしいという声からその後を書いたものです。よく考えたら女の子の手が部屋に現れた方がまずい気がしますが……

やや唐突に登場した黒井ミオは次作の短編『オムファロスの密室』で活躍します。『フロイトの密室』よりかなり癖が強く読者を選ぶと思いますが、興味のある方はぜひ。


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フロイトの密室 らきむぼん @x0raki

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