エピローグ

煽動の岸辺


 いつの間にか空にはうろこ雲が浮かんでいる。まだ日差しは強いが風が心地よく、長かった夏は終わったのだと教えてくれているようだ。竹柵の向こうに広がる林の奥で、最後のセミが鳴いている、そんな九月の上旬。


 俺はかいと並んで砂利道を進んでいた。俺が水の入った桶を持ち、彼女は花束を抱えている。本当はもっと早くに来るはずだったのだが、お互いの包帯が取れるのを待っていたらこんな季節になってしまった。でも人混みを嫌う誡に合わせてお彼岸前にお寺に来れたのはよかった。


 俺たちは墓参りに来ている。もちろん、俺と誡の友人のだ。


 立ち並ぶ墓の前を縫うように進んで、目的の墓石を探す。ようやく見つけたそれには『伊神家之墓』と彫られていた。


 大切なはずだった俺の幼馴染。もう名前も思い出せない彼女を完全に忘れてしまう前に墓参りがしたいと言い出したのは、意外にも誡のほうからだった。


 いつもなら墓参りなんて感傷的な行為はしない誡なのだが、捕尾音ほびね宍粟しそうとの対決を経て、彼女にも思う所があったのだろう。結局ここ数か月に起こった事件は、全て我らが親友の思惑で引き起こされたものだったから。


 墓に花を飾り、水をやって線香に火をつける。それをそなえて二人で手を合わせた。


 俺はずっと、俺の幼馴染がなぜ自ら死んだのかを探ってきた。その理由までは分からなくとも、彼女がやりたかったことは、なんとなく察しがつくようになった気がする。


 彼女は、出会った全ての人間に幸せになって欲しいと願ったのだ。そして遺していく人々を、誡に救って欲しかったんだ。


 館の老人には終焉を与えてやりたかったし、友人だった漆賢悟の狂いをどうにかしたかった。自分がむかし入院した病院の怪も誡ならどうにかしてくれると思って、彼女を導くために自分の思念を残した。そして、過ちを引きずり続ける自分の同類――『不老・不死』の彼と彼の友人にも、幕を下ろそうとした。


 全ては、自分では成せない彼女が、俺と誡ならと託したものだった。


 彼女は全てを知ることができたけれど、自分が死んだ後の未来まで覗けたわけじゃない。だから全て彼女の思惑通りに事が運んだかは分からない。でも少なくとも俺たちは彼女の期待に応えることができた。そう感じている。


 合わせた手を下げて墓を見る。そこにあるのは黒くてすべすべした墓石だけだ。隣では同じように、誡が墓を見つめていた。


「レゾンはどこに消えたのでしょう」


 以前よりちょっとだけハキハキと喋るようになった誡がそう呟く。結局、漆賢悟の件以降レゾンとは会っていない。捕尾音宍粟戦での傷が癒えたあと屋上を見に行ったが、そこに彼の私物は残っていなかった。人払いの術も消えていたから、もう戻ってくる気はないのだろう。あの場所はまた再開発の声が上がっている。


「どうだろう。もう会えないのは確かだと思う」


 レゾンがこの町に住み着いていたのは、彼をこの世に繋ぎ止める少女が居たからだ。彼女が死に、彼女の思惑で起きた事件も収束した以上、もう見届けるべきものは何もない。だから彼はいなくなってしまったのだろう。弟子としては別れの一つくらい告げてくれてもいいと思うけど。


「次に生まれるあの子を探しに行ったのでしょうか」


 誡が空を見上げて言う。俺もそれに同意した。


「かもしれないね」


「次のこの子が生まれるとして、同じ魂で、記憶も引き継いでいて……、でもきっと、その子は私たちの親友だったこの子じゃないのでしょうね。……だからこの子も、過去の自分と関係のある人の前に姿を見せることはなかった」


 誡は指先で墓石を撫でながら俯いた。以前よりちょっと伸びた黒髪が肩を流れ、誡の表情を隠す。俺はそれに答えを返す勇気を持てなかった。誡も俺の返事なんて待っていないようで、続けて呟く。


「では、私たちはどうなのでしょう。私たちは死んでしまえば記憶も引き継げません。知識も経験も無くなって、まっさらな状態になってまた一から人生を始めなくてはならない。でも魂は同じで、人格も変えようがなく、人は同じ魂願こんがんを求め続ける。その繰り返しをするばかりです。……では私たちはどれだけ努力しても、けっきょくは変われないのでしょうか。そう以前、レゾンに質問した気がするのですが、なんと返ってきたか思い出せなくて」


 花を包んでいた新聞紙を折りながら誡は小首をかしげた。俺はそれに笑って、残りの線香を片付ける。


「それならまだ覚えてるよ。誡が忘れてしまったのは、答えてくれたのがレゾンじゃなかったからだ。確かこう言っていた。『変わろうと願い続け、行動し続けていれば、変われる』って。何度同じ道を歩むことになっても、人は願ったほうに、少しずつ着実に進んでいけるって。そうやって俺たちは願いを次に託していくんじゃないかな」


 そうやって託されたものが稀癌であり、今の自分なんだ。自分ぼくは――俺はそう思う。


「はい、そうだといいですね」


 強めの風が吹いて誡が髪を押さえる。俺を振り仰いだその顔には、柔らかな笑みが浮かんでいた。温かに俺を見つめ、同意を示すように頬を緩ませている。


 その始めて見る彼女の笑みに、俺は唐突に理解した。


 なぜあの子が――伊神いがみ依琥乃いこのが俺の誕生日に死んだのか。それは期待したからだ。自分の死と、それをきっかけにした事件たち。それらを経験することで誡の感情の成長を願った。そしてどうせならと、俺に贈るつもりだったのだ。誡の……俺の大好きな人の笑顔を。


 ああ、確かに受け取ったよ依琥乃。心の中だけで呟き、誡に微笑み返した。


 失ったものは戻らない。幼馴染の声はすでに遠く。俺たちの宝物はもういない。俺が彼女にできることはきっと、その死を悼み、幸せを願い続けることだけ。

 たとえこれから再び依琥乃のことを忘れゆくとしても。こうして、彼女のくれた幸せを守ろう。守れる自分に成ろう。決して、失わずに済むように。人間は常に前へ進む。自分の足で、己の成すべきことを成しながら。それこそが俺たちの生きる意味。存在意義レーゾンデートルのはずだから。


 俺は誡に手を伸ばした。誡が静かにその手を取る。もう一度だけ墓を振り返って、俺たちは歩き出した。


 誕生日に誡の笑顔を見るたび思い出すだろうあの傲慢ごうまんで、自分勝手で、出会う全ての人間を愛している、寂しがり屋の少女の姿を思い描いて、少し笑う。


 俺に微笑みかける大切な彼女と共に。君の望んだ、幸福な未来を描いていけるようにと、願いながら。




           哀傷あいしょうゾルレン 了



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