第68話 幸福な眠りを


  17【ドゥ 七月二十四日 16:59】



 少女と師との間に割り込んだ奏繁さんが腹部を師の爪で刺された。様子を窺っていた私は物陰から跳びだそうとしたが、少年の覚悟を決めた表情を見て動きを止める。奏繁さんは口から鮮血を吐きながらも捕尾音ほびね宍粟しそうを指差していた。彼が首から下げた半分に欠けた十字架が光る。魔法を発動させるための膨大なエネルギーをあれが供給しているのだ。


「――神ならざる御業にて疑り申すっ!!」


 魔法を発動させる叫びと同時に鉱物のひび割れるような音が辺り一面に響く。一度広がったそれは空間を伝って捕尾音宍粟に集約し、彼に集まった途端に弾けた。ガラスが大破したような鋭い爆発音。それは異常を消し去る魔法が発動する音だった。


 魔法の直撃した師が殴られたようにのけ反る。奏繁さんの体から爪が抜き取られる。勢いで崩れた彼は背後にいた少女に抱き留められた。少女は泣いている。あの子が彼の大切な誡さんなのだろう。生きているのが不思議なくらい血まみれだ。


 傷口を押さえた奏繁さんは、私が隠れている場所を見つめて呼び声を上げた。


「ドゥ――――!」


 震えた足が反応して勝手に物陰を飛び出す。


 奏繁さんは自分を弱い人間だと言っていたが、そんなことはない。あなたの勇気は、人一人救い背中を押すのに十分すぎる。


 ふらふらと寄る辺を失ったようにたたらを踏む我が師に駆け寄る。両手で自分の顔を覆った彼を見れば分かる。数多の呪いを引き剥がされて混乱しているのだ。時間がない。そう考えた私は彼の腕を強引に掴んだ。


「師よ! 我が師よ! 正気にお戻りなさい。さあ私の眼を見て。思い出して。あなたは自分の願いを叶える奇跡を、ずっと昔に手に入れていた!」


 膝をついた師の手を顔からはがす。師は混乱にあえいでいた。だが落ち窪んだ眼窩がんかの奥に一筋の光がある。彼は変わらずここにいる。私の呼び声は届いているはずだ。


忘却の魔術は消えたはず。はいまだ生きている」


 告げる真実に、背後で息を呑む気配がする。奏繁さんだろう。彼に真実は伝えていなかった。私は彼と、そして師匠に伝えるように口を開いた。


「自らの命と引き換えに、どんな生命も終わらせるたった一度の奇跡。それがあなたの稀癌だ。あなたがその稀癌を生んだ時、私は怖かった。死ぬことがじゃない。君がいなくなってしまうのが。あんなに長く共にいてくれた人は始めてで。あんなに私のことを想ってくれた友は始めてだったから。思ったよりも早く来てしまった別れが怖くて先延ばしにしようとしてしまったんです」


 それこそが私の罪だった。ずっと私を殺すことを願い続けた師。私に終焉をくれようとした君。師匠はそうして奇跡すら生んだ。けれど私は君と別れるのが怖かった。もっと一緒にいたいと思ってしまった。そして使ってしまった。忘却の魔術を。


「私はその稀癌のことを忘れるよう、あなたと私に魔術をかけた。自覚を失くした稀癌は発動しないから。そうやって、『全知・不全能』に指摘されるまでの膨大な期間、私たちはその稀癌を思い出しもしなかった」


 私と同じ罪人の魂を持った幼い少女は、私に言った。もう終わらせましょうと。もう、悲劇は終わっていいのだと。私の罪を教え、罪をあがなすべを私に教えた。


「私のためだけに生きてくれる君が嬉しくて、君の苦しみをこんなにも引き延ばしてしまった。私は愚かだ。神の怒りを買うほどに罪深い。けれど悲劇の幕は下ろさなくちゃならない。君を、これ以上私の我がままに付き合わせるわけにはいかないから。師よ、どうか思い出して」


 一方的な懺悔ざんげだった。いつの間にか涙が頬を流れ世界を歪めている。これじゃあ彼の顔が見えない。急いで袖で涙を拭いまた正面を向くと、そこには柔らかな笑みを浮かべる師の顔があった。


「…………おかしいな。お前を殺す旅だったのに。ずっとお前と共にあれると思っていた」


 悲しげに呟く。その乾いた瞳から涙があふれていた。ああ、この顔だ。まだ心を残していたころの君の顔。ずいぶんと懐かしく感じる。


 私たちはそれほどに、誤ったまま遠くに来てしまった。


「私もです。だからずっと一緒に生きたいと願ってしまった。でも駄目だ。これ以上はあなたの魂が本当に壊れて消えてしまう。もう、終わりにしましょう。ごめん、ごめんなさい。我が師よ。本当に、ごめんなさいっ」


 嗚咽おえつを堪えきれなくて、私はしゃくりあげながら謝罪を口にした。何度も何度も、泣きながら謝った。私が記憶を消さなければ、この終わりはもっと早く、もっと穏やかに訪れていたはずなのに。


 師は私の頭を優しく撫で、顔を包んでくれる。


「馬鹿か。もっと共にと願ったのがお前だけだと? 罪というなら吾も同罪だ。それに吾は壊れてもよかったんだ。お前の……あなたのためにわたしはあるのだから」


 頭から重みが消える。師匠の体は崩壊を始めていた。体の外側から灰か砂のように崩れていく。当たり前だ。死した身体を保ってきた呪いすらもう消えたのだから。後は人間の摂理に従って朽ち果てるのみ。こうしていられる時間は、もうない。私は覚悟を決めて両手を広げた。


「ありがとう。私はもう逃げない。その死を今度こそ、私の心臓におくれ」


「ああ。一人では死なせない。共に行こう。──自然の不死にして不老なるは秩序のみでいい。不老不死たる罪人きみよ。安らかたまえ」


 私の胸に骨ばった大きな手が当てられる。その手から流れ込んできたものが私を優しく包んだ。静かに、やすらかに。私はずっと死は冷たいものだと思っていた。だがそうではなかったのか。それとも、彼の願った力だからこうも温かいのか。


 ずっと自分を縛っていた何かが消えるのを感じる。確かに死が私へ届いたのだと確信する。そっと目を開けると、師が笑っていた。その微笑みに微笑を返すと、師の体はボロボロと崩れ去ってしまった。限界だったのか、それとも稀癌の代償だったのか。どちらとも知れない死が彼を連れ去っていった。


「おやすみ、我が師、我が最愛の友よ」


 骨すら残さずちりに消えた師の前から立ち上がる。もう涙は流れなかった。泣く理由が無かったから。私たちは共に生きて、最後は別れを告げることができた。それで十分幸せだったから。

 ただ一つ、彼がなぜそこまで私のために尽くしてくれたのか、それを聞けなかったことだけが心残りだろうか。


 私は静かに振り返った。そこには少女に抱きかかえられた少年がいる。私は二人の前に行って膝をつき、荒い呼吸で腹を押さえる少年の手を退かした。そして傷口に軽く触れる。治癒の魔術。原始の時代に失した古い魔術だ。私の技能ではごく表層の治癒しかできないが、これで血は止まる。


「ありがとうございました、奏繁さん。そして誡さん。あなたたちのおかげで、こうして目的を果たせた」


 治癒を終えて微笑みかけると、奏繁さんが起き上がった。少女が彼を支えるように手を添える。少女のほうにも魔術をかけようとしたけど、驚くことに少女の出血はもう止まっていた。魔術を使う必要がない。稀癌の隆動によって回復力まで向上しているのだろう。


 奏繁さんが私を悲し気に見つめている。


「ドゥ……君は稀癌でも死ねなかったの……?」


 私はその問いに首を横に振った。


「いいえ。ちゃんと、師の稀癌で私は死にました。ただ長い時を生き過ぎたせいか、死が全身に染み入るまで時間がかかるようです。その間に神の威権も弱まり消えるでしょう。おそらく長くて二、三年のことです。今まで生きていた時間に比べれば一瞬ですよ」


「これからどうするの?」


「そうですね。朽ちる瞬間まで、旅をしようと思います。師と共に訪れた場所を廻って、彼との思い出に浸ります。いつからか、私にとって人生とは彼との時間を指すものになっていましたから。それを全てなぞる前には終わりが来るでしょう」


「じゃあ、これで本当のお別れなんだね」


 少しだけ寂しげに、少年が私を見上げる。少女も事情を知らないなりに私を見つめていた。二人とも、良い稀癌だ。師から習った占いの術を無意識に使って、私は目元を和らげた。


「あなた達に最高の感謝を。そしてお二人の祝福を願います」


 深々と頭を下げる。


 別れの言葉は、次の時代を行く者達への手向たむけに。


 人間は長く生きる必要はない。全てを一人で行おうなど考えなくていい。なぜなら願いは託せるから。次につなげることができるから。


 強い願いは不幸を引き寄せるかもしれないし、誰かを傷つけるかもしれない。でも、きっと誰かを幸福にするために、人は願うのだろう。


 師匠がそうであってくれたように。私も最期の時をそうやって過ごそう。

 そして願わくば、若い二人のこれからの長い道行きに、


さちあれ」


 そう呟き、私は一人きりの旅を始める。果てなき願いとともに、唯一の友との思い出を抱いて。




        第六章 残欠ざんけつ災禍さいか 了



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