第67話 極限へ至る
16【宍粟 ■月■日 17:3■】
殺さねばならぬ。殺してやらねばならぬ。肉を裂き、血を絞り、頭蓋を割って、その命を終わらせねばならぬ。
そう自分に厳命した日のことを、私はもう思い出せなくなってきている。
それでも、やらねばならぬ。あの日の想いが
それだけが唯一、何も持たぬ私が、私を救ってくれた彼に捧げられる幸せなのだから。
それは解放だ。神の愚かさからこの普通の少年の魂を解放する。それなりに長い時を生きていて痛感した。人間に永遠など必要ない。全ての人間が永劫の命を持つならば別だが、一人だけ別の時間で生きなければならないのはこの上ない悲劇だ。彼はいつも置いてかれる。命に置いて行かれる。誰も共には生きていけない。皆が彼を置き去りにするしかない。
それはあの時、彼に置いて行かれた私よりももっと辛いに違いない。
それを彼はずっと続けてきた。これからも続けねばならぬ。吾のように心を摩耗させ楽になることすら彼には許されない。正常な思考のまま、ありとあらゆる終わりを見せつけられる。自分には決して手に入らないそれを。
吾はどうなろうと構わない。ただ彼に安らぎを。彼に優しい終焉を。そのために吾は、わたしは――私は願い続けた。
予感はあった。前例はないが条件は満たしている。
吾の肉体は死んでいる。魂ももう、正しく人とは呼べないものになる。それは死と同様。それでも生き続ける吾は転生したも同じことではないか。ならば、そうやって死ぬまで抱き続けたこの願い。自分に厳命したその願いが、奇跡を起こすのではないかと。
いつだって、奇跡は探すより作るほうが簡単だから。
その思惑は実を結んだ。私の意識が微かに残るうちに、吾は私の願いを叶えることができる。彼を救うことができる。
なのになぜあなたは、そんなに悲しそうな顔をするのですか?
どうしてだろう。もう吾にそれを解する感情など残っていないのに。分からない。どうして。私は何か間違っていたのだろうか。
吾はただあなたに、幸せを贈りたかっただけのはずなのに。
16【誡 七月二十四日 16:36】
私は分かりやすく興奮していた。心臓が限界を超えて拍動し血が
全身の感覚が鋭敏になっている。空気の流れを舌で味わい、摩擦の熱を鼻で嗅ぎ分け、反響する音の出所を指先で判別する。普段ならじっと考えて判断するそれらを、動き回りながら瞬時に行い続ける。
三つのタスクを受注する間に二つのタスクを終わらせる。積もった課題を蹴りの一つで粉砕してはまた脳を高速で回転させる。
そうやって攻撃を避け反撃するのを繰り返す。それでもまだ届かない。切り裂くのは相手の表皮のみ。
衝撃と息苦しさに自分の腹部を殴打されたことを遅れて理解する。吹き飛ぶ身体をひねって天井を蹴り捕尾音から距離を取った。追撃はない。その一瞬の思考の隙間が溢れ
「ふはっ、ははははっ!」
自分の笑い声がうるさい。だが捕尾音の言う通りだ。こんな極限はきっと二度と味わえない。私の命はいまこの瞬間、一秒一秒が充実している。
左手にナイフを。右手に銃口を握って鈍器に変えた拳銃を持つ。そしてもう一度捕尾音に向かって駆けだした。
「そうだ誡! 己が獣性を受け入れろ! お主の待ち望んだ宿敵がここにいるぞ!!」
笑いながら叫ぶ男の死角にもぐり込む。身を低くして振り下ろされた腕をかいくぐりその腕を掴んで飛び上がる。大口開けた顔へ蹴りを放った。間一髪で避けられたのでそのまま肩を踏みつけ背中側に倒れる。
捕尾音が私を捕らえようと振り返る。その隙に相手の膝を折るために、私は身体を跳ね起こした。
「「――
同時に呟く。突如
また距離を取って私たちは向かい合う。
「ふっ。また一つ保存していた稀癌を無駄に使ってしまった」
「……無駄撃ちしたくなければもっと狙ってはいかがです」
「呪いに
互いにニヤリと笑って幾度目かの殴り合いを始める。
息が切れているはずなのに気にならない。普段以上に脳を使っているはずなのに思考は妙に澄み渡っていた。それは私だけではない。捕尾音もそうなのだとなぜか分かる。
私と捕尾音は殺し合いの
互いの一挙手一投足に注視し反応する。その連鎖の末に殴り合う。理性的な現代人とは思えないほどの野蛮・野生をまるでそれこそ生きがいのように叩きつけ合う。
「さすがは最純度の稀癌! 願いの成就を得るために肉体にまで作用するとは! もはや人体の限界を超えているではないか!」
「限界などっ、貴方を殺すためならいくらでも超えてみせますっ」
「だが急激な成長に気迫はともかく、身体が伴わないのではないか?」
捕尾音の眼が不穏に輝き、私は天井から垂れ下がった何かの配線を掴んで柱に貼りついた。途端に鼻からどろりとした血が流れ出る。
捕尾音の言う通りだ。筋肉は
冷静に考えればいつ倒れてもおかしくない。けれど私は袖で強引に鼻血を拭って痛みを思考から追い出した。どれほど己が壊れようと、視線だけは
「はっ、それがどうしたというのです」
「くくっ、いいぞ! 最高の稀癌罹患者だ貴様は!」
もはやどれだけの間こうして殺し合っているのか分からない。もう一時間は経った気もするし、数分しか経っていない気もする。時間の概念など毛ほどの意味もなかった。私はただ
頬を殴られる。――まだ目は見える。
腕の骨が折れる。――まだ指が動く。
脚の肉が斬られる。――まだ地面を踏みしめられる。
腹を殴られる。――もう嘔吐する中身は残っていない。
さすがは稀癌食い。かつて相対した誰よりも強い。だが私もやられっぱなしではいられない。
捕尾音の皮を断ち肉を斬り耳を千切って内臓にナイフをお見舞いする。そうやって傷だらけになりながら私たちは楽し気に
全身血まみれで笑い声を上げる私は、相当酷い顔をしているに違いない。それで構わない。私はいま捕尾音を討つためだけに存在しているのだから。それが成されるというのであれば、爆発的なこの感情をいくらでも利用しよう。
だがついに限界が来てしまった。軽い体が捕尾音の右腕一本に吹き飛ばされる。受け身を取ろうと失敗してコンクリートを滑った。積み上げられ放置されていた木材の山に衝突し、どうにか上体を起こしたがもう足が動かない。
舌打ちを洩らしながら見上げると、そこには肩で息をしながら私を見下ろす捕尾音がいた。
「くくっ、よもやここまで成長するとは。消滅を覚悟したのは初めてだ。――だが、
捕尾音の爪が刃のように伸びる。それでとどめをさすつもりだ。なんとか反撃しようと震える手でナイフを構えるが、肩より上まで持ち上がらない。私の意思にもう身体が付いて来られなくなっていた。
歯を食いしばる。反撃の余地を探す。だが脳裏にかつて出会った人々の姿がよぎって、私は死を覚悟した。
爪が振り下ろされる。もう何をしても間に合わない。身体から力が抜けそうになったその瞬間に、私と捕尾音の間に誰かが割って入った。
広い背中が私の視界を覆う。
誰かの身体を爪が貫く。命を刈りとる凶器に襲われながら、彼の手は真っすぐ男を捉えていた。伸ばされた人差し指と中指が捕尾音を指し示す。
「更科く――――」
私が彼の名を呼ぶその前に、青年は血反吐と共に告げた。
「――神ならざる
それこそは奇跡を冒涜する
卵のひび割れるような音は
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