第66話 戦う理由


   14【誡 七月二十四日 15:37】



 乱れた呼吸を整えることができない。そんな暇はなく、そんな余裕もない。目前の男はそびえ立つ大樹のように存在し、笑っていた。


 私の全力が通用しない。すっかり軽くなった拳銃を両手に握りしめて、私は片膝をついていた。まだ反撃すらされていないというのに私は立ち上がる力を残していなかった。気を抜くと下を向きそうになる視線を必死に男へ向ける。今はそれで精一杯だった。


「もう終わりか小娘?」


 私を見下ろすその影を睨み返す。すると捕尾音はまた嬉しそうに喉を鳴らした。


「くくっ。楽しいなあ陽苓誡。楽しいであろう?」


「……は? 私が楽しんでいると?」


「なに不思議そうな顔をしておる。貴様はいま貴様の全てを守るために戦っている。何かを守るための戦いは貴様の願いそのものであろう。それを楽しまずになんとする」


 男の言っている意味が分からなかった。戦いを楽しむ? 私にそんな感情はない。戦いに際して心臓が早くなるのはあくまで運動の結果だ。命のやりとりを楽しむなんて、そんなこと……人としてあっていいはずがない。


 なのに、なんだろう。この胸に這い寄る感覚は。否定したいのに、突き付けられたものを振り払えない。


 胸に去来する痛みに私が唸っていると、捕尾音は笑ってまた口を開く。


「それとも失う恐怖のほうが強いか。もはや戦意すら萎えてしもうたか?」


 そんな馬鹿なと拳銃を握る。しかし自分の脳裏にある敗北の二文字の存在感を無視できない。歯を食いしばりなんとか立ち上がったが、もはやどこから攻めればいいのかすら思い浮かばなかった。諦めが雫のように着々と意思を穿うがつ。それは巨石がひび割れるように、いつか私の膝を折るのだろう。


 そんな私の弱気を感じ取ったのか、捕尾音は少し考え込んでから人差し指をピンと伸ばした。


「ではこう付け加えよう。貴様が敗北すれば、吾はこの町だけではない。貴様の匂いのする――貴様と親交ある全てをこの世から殺し尽くそう」


 邪悪に口角を引き上げる男の言葉に、私は喉を詰まらせたようにして反応した。


「どうしてっ、そんなことをして何になると」


「何にもならん。貴様の戦う理由を作るだけだ。だが勘違いするなよ? これは疑似餌ではない。吾は貴様を殺したあと実行するぞ? ああ、この廃墟にも強く残っておる。いけすかん吸血鬼は除外するとして、男が一人。まずはこやつから殺してやろう」


「やめろ!!」


 体の不調も忘れて叫ぶ。この廃墟に出入りしていた人間など私以外だと彼しか思い浮かばない。更科さらしな奏繁そうはん。私の大切な友人。たいせつな人。駄目だ。彼だけは失いたくない。


「では戦え」


 無慈悲に言い放ち宍粟が懐から何かを放り投げる。コンクリートを滑って私の足元で止まったのは、刃渡りニ十センチほどのナイフだった。


「飛び道具は使い切ったのであろう。それなら頑丈だ。使うがいい」


「……どうして」


「楽しむためだ。当たり前であろう。貴様もたかぶれ。感情を殺すな。貴様の稀癌は感情に呼応するものであろう。それとも貴様は義務でのみ戦っているのか? 先ほどの小娘を逃がしたのも、人としての自己犠牲ゆえか?」


 戦闘を楽しむ男に反発を覚える。男の言い分は全て間違っている。正しいことなど一つもない。そう素直に思えたから、私はすぐ反論することができた。


「違う。……義務なんて知らない。犠牲なんて知らない。私はただ、私のやりたいことをするだけです」


 断言して、私は気づいた。そうだ。私は守りたいから守るんだ。これは私の願い。私だけの感情。


 この男を恐いと感じるのも私の感情だ。でもそれ以上に、更科君を失うことを恐れるのも私の感情なのだ。かつて友人の死を聞かされた時はまだその恐れを知らなかった。でも私はあの鏡の世界で、大切な人を失う悲しさを教えられてしまった。知ってしまったらもう誤魔化せない。

 私は更科君を絶対に奪われたくない。たとえそれが、私が死んだ後のことでも。


「……奪わせない。お前なんかに」


 強く言い放つ。身体が震えているのが分かる。そうだ。怖い。けれど人間は恐怖するから注意する。死から逃れる本能のままに、危険を予測し、工夫して対処し、危険をねじ伏せる。


 私は弱い。きっと私が臆病だから、稀癌は私の感情を薄くして心動かされないようにしてきたのだ。四方から押し寄せる恐怖から自分の心を守るために。


 けれどそんな未感情では危険という自分を害する“恐怖クリエ”を十分に察知できない。


 この数分で私は理解していた。この男と――恐怖と対峙することで稀癌の精度が上がっている。もっと、もっと恐怖に敏感になるのだ。未感情など捨てて。人間らしく危険に怯えながら、冷静に危険へ対処しなくては。


 銃を片方捨ててナイフを拾う。手の中でくるりと回す。鋭い刃が空を切る音で自分の感覚をさらに研ぎ澄ます。


 そして自分の中にある、矛盾するもう一つの感情を理解する。

 この窮地がこころよく愉快だと、そう感じてしまう自分を理解する。


「ふはっ――」


 耐えきれず口から漏れたのはそんな笑い声。生まれて初めて浮かべた笑みは、耳馴れたあの特徴的な笑いを模していた。


 さあ目を逸らすな。楽しんではいけないと無意識に押さえつけていた、この心臓の拍動を受け入れろ。これが私の業。矛盾。そして、私の本当の感情。


 向き合え、組み伏せ、利用しろ。この恐怖を、この喜悦きえつを、力に変えるのだ。


「私が、お前を殺す」


 にぃと口角をつり上げ腰を落とし、ナイフと自動拳銃を眼前に構えた。

 私は守りたいから、楽しいから、殺さなくてはならないから、


「稀癌の精度をぶち上げろっ!!」


 この怪物と全霊を以て戦うのだ。



  15【ドゥ 七月二十四日 16:51】



 奏繁さんに肩を貸して歩く。私の方が小さいのでバランスが悪い。おぼつかない足取りとは違い、彼の口は確かに長い詠唱を呟き続けていた。


 彼の使う魔法。それは遥か昔に忘れ去られた魔法だった。どんな異常も消し去る魔法。その効力は絶大だが使い勝手が悪いうえに、相性のいい人間もそうそう居ない。だから忘れられた。


 けど今世にたった一人それを使える者がいた。レーゾン・デートル。私よりさらに以前から生きている幻獣だ。奏繁さんは彼から魔法を享受されたのだという。


 幻獣のほとんどは人から忘れられたために姿を消した。だが彼は一人の人間の少女に一方的な恋をしていたために、この時代まで生き残るはめになったとどこかで聴いた覚えがある。


 もう少しで自分に与えられた神の威権が消せるかもしれない時だからこそ、レーゾン・デートルの人生を想わずにはいられない。彼は人間に恋したせいで幾星霜の世を生きてきた。そこに憎しみはないのだろうか。本来ならもう消えているはずの自分。それを捕らえ命を握り続けるのは、決して自分に振り向かない人間の女の子だ。しかももう何度も生まれ変わっている。魂は同じでも姿が違うだろう。男に生まれることもあっただろうし、顔も、声も、目の色さえもかつて自分が恋した存在とは違う。


 そんな人間の傍にずっといて、その願いに手を貸し続けて、そこに憎しみは生まれないのだろうか。


 こんなことを思うのは、私が師に責任を感じているからなのだろう。彼は本来なら短い人間らしい人生を終えるはずだった。なのに私が関わってしまったせいでこんな長い時間を生きて、その人間らしい心さえ失ってしまった。


 師にかつての心が残っていたのなら憎まれていて当然だ。私は自分の運命に師を付き合わせてしまった。いまだ彼がどうしてそこまで私のためにと行動してくれたのか謎は尽きない。ほんの短い間を共に過ごしただけのはずだ。私は彼に占いを教わった。それだけの記録しかない。私が彼のためにできたことなどなかったはずなのに。


 だが始まりがどうであれ、私が彼の人生を奪ってしまったのは間違いないだろう。いや、間違いなどありえない。確実に私の責任だ。なぜなら――これだけは忘れない――私が、私こそが彼の記憶を――


「ドゥ……」


 呼び声に意識を戻す。隣を見ると、青い顔をした奏繁さんが私を見ていた。


「奏繁さん? 呪文は」


「俺と半数は唱え終わった。遅れて唱え始めた奴もすぐ終わる。あとは発動させるだけだよ。――赤井廃ビルはそこだ」


 遠くからでも見えていた、その決着の舞台が目前に立ち現れる。かつて人の手で作られた商業ビル。外側は完成していても中身がない。はめられるはずだったガラスはなく、塗装もされていない。それでこの建物がただの空洞なのだと分かる。


 逃げてきた少女の証言では誡さんはここへ向かったそうだけど……確かにここに、我が師の気配もある。そして感じるのはもう一つ。


「二人ともいるようです。二階で戦闘の気配がします。まだ誡さんは生きて――というよりすごい俊敏に動いてます。速いな。本当に人間ですか?

 まあ、これだけ私が近寄っても師匠が気づかないということは、よほど彼女との戦闘に熱中しているのでしょう。これなら魔法の発動まで気づかれずに近づけます」


「名高い稀癌食いが熱中する程の戦闘か。さすが誡だなぁ。それでどうする? 魔法の発動猶予は約十五分。機をうかがう余裕なら充分ある。範囲はせいぜい五十メートルだ。位置によっては近づかないと効果がない。二人で近づく?」


「いえ。何が起こるか分からない。いざという時に私が陽動できるよう、別れて行きましょう」


「分かった。じゃあ俺は裏から。ドゥはそこの階段から行って」


 彼はこの建物について熟知しているのだろう。指差したほうには非常階段の入り口があった。奏繁さんは裏から回るようだ。


「ドゥ。互いの健闘を祈るよ」


 私の肩から離れて奏繁さんが笑う。ぽんと胸に拳を当ててくる。成功しても失敗しても最期の別れになるかもしれない。それを奏繁さんは理解している。


 実を言えば、別れの挨拶は苦手だった。私はいつも置いて行かれる側だったから。


 でも今回は違う。私は消える側。託す側だ。だから、遠ざかる背中に深く頭を下げて、言葉を贈ることにした。


「こちらこそ、あなたの幸せを祈りますよ、更科さらしな奏繁そうはん。短い時間でしたが、あなたと過ごす時間はとても暖かかった」


 少年は振り返らない。大切な人のために走っている。だから私も、私の大切な人のために駆けだすことにした。


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