第65話 愚か者
12【久祈 七月二十四日 14:56】
息を切らせてがむしゃらに走る。自分がいまどこにいるのかも分からないまま、汗を拭って足を動かし続けた。こんなに走って暑いのに、身体の奥底が冷え切っているのはなぜなんだろう。
小石につまづいて転びそうになって、私は地面に膝をついた。そっと後ろを振り返る。真っすぐ伸びる小道。そこにあの男はいない。胃の辺りが気持ち悪くなるあの気配もしなくなっていた。
指示された通りに視線をあの人に誘導して、それきりだ。化け物はあの人を追って行った。
前に向き直り、地面に視線を落す。頬から流れ落ちたのは汗だったろうか。それとも涙だったろうか。涙だとしてそれは、安堵からでたものだったか。それとも…………。
「どう、しよ。どっ、どうしよう! ああっ、私!」
自分のしたことの意味を今更になって理解する。私は私が助かりたい一心で、怪物をあの人に押しつけてしまった。大学生って言ってたけど、なんでか拳銃持ってたけど、あんなに小柄で細身の、ただの女の子に。
このままじゃあの人は死ぬだろう。私のおかしな力を理解してくれた。同類だと示してくれた。助けようとしてくれた。
せっかく私を見つけてくれる人だったのに。なのに。
私は昔からおかしかった。情緒不安定で集中力がない。物心ついた時から人に見られるのが苦手で、人の視線を自分から逸らすことができた。でもただそれだけ。それだけの力。
この力を使って人目を避け続けて、でも気づいた。こんな力使わなくたって、誰も私のことなんか見てないって。
それからは学校に行けなくなった。両親は兄ばかり可愛がって私のことなんか気にもとめない。それをいいことに中学生になってからは学校に一切顔を出さず、人の多い通りでスリをするようになった。
一度も捕まったことはない。気づかれたことすらない。目立つよう髪を金色に染めてみても意味は無かった。誰も私を見ない。見ようとしない。まるで初めからいなかったみたいに。
けれどあの人は――
涙がどんどん流れてきて地面に小さな水たまりをつくる。
予感がする。ようやく手に入れられそうだった何かを、このままでは失ってしまう気がした。
それは、それだけは駄目だ。
「私。私にできる、ことをっ。あの写真の――!」
そうだ。立て自分。あの人は、誡さんは死にに行ったんじゃない。時間を稼いで私を逃がすために囮を買って出たんだ。私はその間に、誡さんに託された任務を果たす。
「でも、こっ、ここ
飯野地区の地理に詳しくもなければ、こんな場所まで来たことはない。地図も無ければ携帯もお金もない。
「っ! だっ、誰か――! 誰かっ、いちょうさん! れーぞんさん! そうはんさーん!! どなたかいませんかー!!」
それでも果たさなくちゃいけない約束を胸に、私はまたがむしゃらに走り出した。
13【奏繁 七月二十四日 15:33】
ドゥの言う訓練を今日も続ける。一刻も早く自分の稀癌をコントロールできるようにならないといけなかった。今まで
だから何十という呪いを一度で消すには、何十もの人格が同じタイミングで魔法を使用可能な状態にする必要がある。
ドゥが持ってきてくれた着替えに袖を通して、
今も頭の中で五十もの声が鳴っている。頭蓋骨の中に赤の他人を一クラス分詰め込んだみたいだ。
精神疾患にも、他人の声が聴こえてくるという症状があるのを思い出す。
拳にたくさん貼られた
ドゥが
広い部屋にたくさんの人々。彼らは好き勝手に行動し、喋っている。一人だけ彼らを
この中で一番偉いのは
また戦いが始まる。誰も彼もが一人の人間として存在しようとしているから、大人しく
たくさんの人が
今までは、平均に均したほぼ違いのない自分だけが中にいたから良かった。それ以上増えるとも思ってなかったから、稀癌は人格を産みださなかった。だが、ドゥの指摘で自分が二重人格の稀癌罹患者ではなく、人格製造の稀癌罹患者だと自覚したことで稀癌は次のステップへ進む。
ドゥが広い場所と人気のない場所を指定した理由が分かった。
修行を初めて早十日。成果は見えない。それがさらに焦りを生む。誡の前にいつ
捕尾音宍粟は稀癌罹患者を襲う。もちろん
必ず捕尾音宍粟を止めなくちゃいけない。誡を救うために。
……それに、もう一つ
修行を初めて数日経ったときの事だった。休憩している間に
するとドゥは答えた
「自分が死ぬのは怖くないです。私の魂は私以降、死んでいない。みなさんのように死への本能的恐怖を積み重ねていないんです。だから恐怖はない。怖いとすれば……それは彼と離れて二度と会えないことでしょうか」
「彼……?」
「師匠――捕尾音宍粟のことです。彼はずっと私と共に居てくれた。何千年という時間の中で、全てのものは必ず滅び、消えゆくものでした。私は“残る”何かを知らない。どんな物も人も想いも、必ず痕跡すら残らず消える。それだけ
「ドゥ……」
「けどもう迷いはありません。どれだけ怖くても、私は師匠をこれ以上苦しめたくない。必ずやってくる別れの一つを終えるだけです。……ですので、奏繁さんは心配しないでください」
心配するなと言われても。だってドゥの笑顔は無理をしたものだったから。
当たり前が失われるのは怖い。それはよく知っている。いつか死ぬと知っていても、
それでも彼は決めたのだ。だから
そう何度目かの覚悟を決めて、今日も自分との闘いを始めようとした時、耳が聞き慣れない声を拾った。まだ遠くにいる、女の子の甲高い泣き声のような。
産みだした人格にはもちろん女性もいる。だが、その声じゃなかった。稀癌を制御できずに新しい人格が勝手に産まれたのか? いや、それも違う。自分の中にいる人格の数は正確に把握できている。
ということは、こんな場所に女の子がいる……?
金髪。しかも頭頂部が黒くなってるから染めた色なのだろう。太陽を反射して光っている。中学生くらいの女の子で、道沿いにこのビルへ走ってきていた。こんな場所に、しかも人避けの結界があるのにどうやって。
そういった疑問は、女の子が泣いているのに気づいて全部吹き飛んだ。
反射的に立ち上がる。胸の困惑を置き去りにして足はもう動いていた。声を聞きつけたのだろう、上の階からドゥが降りてきたが、声をかけようとする彼を素通りして外へ駆ける。
ビルから出るのと女の子がビルに辿り着くのは同時だった。
「君! どうしたの!?」
倒れそうになりながら走る女の子に駆け寄る。
「あぅっ、そうはんさん! 奏繁さんだよね!? ねっ!?」
勢い込んでゆさぶられる。視界がぶれて何がなんだか分からない。ただ、見覚えのない少女だということは分かった。
「そうだけど。なんで
「誡さんが! あっ、危ないの! 私のせいでっ、お願い助けて!」
「誡が!?」
「死んじゃう。誡さん……誡さんっ、私の代わりに、犠牲になって。もう死んじゃってたらどうしよぉ」
少女は泣きじゃくりながら何度も誡の名前を呼ぶ。それで
「誡のなかに自己犠牲なんて考えはないよ。彼女はただ自分に忠実なだけだ。誡は無計画な人じゃない。そう簡単に死んだりしない。だから泣かないで?」
後から追いついたドゥが女の子を
「まさかこんなに早いとは」
ドゥが
「まだ奏繁さんの調整が済んでいないのに」
「どうにか捕尾音と誡を止められないの?」
「無理です。一度戦い始めた師はもう止まらない。私は不死身ですしある程度の魔術なら扱えますが、師の動きを止めるのは不可能です」
悔し気に唇を噛む。それでもう、事態が手の打ちようのない所まで来ているのが分かってしまった。
「……分かった。今から魔法の詠唱を始めるよ」
「でも、まだ人格を支配できてないのでしょう? せめて三十は確保して呪文を詠唱させないと、無駄撃ちになる確率が高い。たった一度のチャンスを逃してしまう。冷静になってください奏繁さん。今行動できなければ誡さんは死ぬでしょう。でも、貴方が失敗してもそれは同じです。あなたが死ぬぶん、より悲惨な結果になるっ」
「分かってるよそんなこと! だったら成功させればいいんでしょ!? 黙って見てろ!!」
思わず叫んで
だったら、
「あああああああああああ!! 頼むっ、応えてくれ!!」
眼をつぶって、自分の中に呼びかける。
そうやって叫びながら、意識の裏ではドゥの言葉を思い出していた。
稀癌は病気じゃない。
稀癌という字は当て字だ。後世の人間が稀癌を誤解して付けた字。本来はきがん――祈願と読む。人の願いによって生まれる、現実を超越する力。それは祝福であって呪いではない。
「お前らは他人だ! でもみんな
稀癌は前世の自分が生涯持ち続けた願い。もしくは死の瞬間にあって抱いた強烈な願いの現れなのだ。
稀癌罹患者は、正しく
「みんな
人間の身に余る強すぎる力。それに心が潰されてしまわぬように、負けてしまわないように、稀癌は副作用という形で罹患者を守った。
誡の未感情は、多すぎる感覚情報から心を守るため。飛び込んでくる感覚情報の全てに当たり前のように反応していたら、精神が保てないから。だから稀癌は彼女の感情を薄く調整した。
そして
それに強烈な個性を持った人格を一つ許せば、オリジナルが薄れてしまう。主導権を握れなくなる。そのため稀癌は
稀癌罹患者の多くが精神疾患のような症状を抱えるのは、まともな精神じゃ稀癌を受け入れられないから。
つまり稀癌の副作用とは、罹患者の心が稀癌によって壊されないよう最適化した結果なのだ。
「だったら分かるだろ!? 誡が危ないんだよ! 助けられるのは
だがそれじゃ駄目だ。己の願望を、願いを、そうやって弱められ造り変えられてしまった己じゃ稀癌は使いこなせない。本当の力を引き出せない。己としてあれ。欲望に忠実に。己の望みの果てを求める。副作用を克服してやっと、稀癌は真の力を発揮する。
「彼女を救うために力を貸してくれ。この一度だけでいい。助けたいんだ。失いたくないんだ。これで壊れても構わない。
願うばかりじゃ足りない。意思の力で別の自分をねじ伏せろ――自分を征服せよ。
「
自ら
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