第56話 未来への約束



         13


 病院に通い始めて数回目。その日、母は先生と話をするからと私を一人待たせた。病院の外のベンチで時間が過ぎるのを待つ。

 特にやることもなく、やりたいと思うこともなく。私はぼんやりと目の前をひらひら飛んでいく蝶々の行く末を見守っていた。

 そんな時だった。私は私に近づいてくる小さな人影を感じ取っていた。だから突然見ず知らずの幼女に声をかけられても、別段意外性はなかった。

「やっと見つけた。こんにちは運命。偶然に初めまして。あなた一人なの?」

 しかし私は少しの驚きと共にその笑顔を出迎えた。

 幼い私にとって、世界は危険に満ちていた。ありとあらゆる場所が警戒を促し、全ての人間が私を威嚇している。稀癌を通して感じ取る世界はそんなものだった。

 けれどその少女は違った。くりくりと光る大きな瞳も、腰まで届く長い髪も、血管が浮き出るほど白く透き通った肌すらも普通の人間から大きく逸脱するところはない。けれど、彼女は他の人とは異なっていた。

「…………しずか」

 質問に答えもせず、私は思わずそう呟いていた。それが、私が彼女に抱いた第一印象だったのだ。

 夢のように佇む女の子からは、一切の脅威を感じないどころか、稀癌は彼女の存在そのものを感知しないように沈黙していた。彼女につられて周囲の雑音も静まっていく。私は彼女と出会って、生まれて初めて世界の基本構造は無音なのだと知ったのだ。

 質問を無視した私の返答に女の子は気分を害した様子はなく、大人びた微笑みを浮かべた。

「ふふっ、そうかしら? そうね。私は何も成せないもの。もちろんあなたに危害を加えたりしない。あなたに直接何かを残すことはできない。そういう意味では私は確かに、何の脅威も持たない無味無臭な子どもと言えるわね」

 長ったらしい台詞をつっかえもせず、まだ舌ったらずな口調で言った。意味はよく分からなかったけれど、この子はきっと他人とは何かが違うのだということだけは、直感的に理解した。

「私の名前は伊神いがみ依琥乃いこのよ。私は貴女に興味があるの。欠月かけづき誡さん、私と仲良くしてくれる?」

 それは断られるなど欠片も思っていない純粋な笑顔。もちろん断る理由のない私は差し伸べられた手を取った。

 これが、私と依琥乃との初めての出会いだった。


         13


「……いただき、ます」

「うん、好きなだけ食べていいぞ」


 ビルから上手く警察に見つからないように逃げ出した私達は、少し遠くのファミレスにいた。夕ご飯にもまだ早い時間なので人も少ない。とりあえず誡にはパフェをごちそうする。今回一番の貢献者は誡だからな。明らかに誡の顔よりデカい器が運ばれてきたが、いいだろう。自由に選んで良いと言ったのは私なのだから。


 誡はいつもの無表情でスプーンを動かしている。しかし心なしか動きが素早いので、不味いということはないのだろう。


「よし、誡。例の物を渡せ」


 怪しい取引みたいに言ってみる。しかし誡は微かに首を傾げるだけで、反応しない。ふむ、比喩表現は通じなかったか。つまらんな。


「あのファイルのことだよ。私にもう一度見せてくれ」


 思えばビルを出てからはずっと誡が持ったままだった。いい加減に預からねば。


 テーブル越しに手を差し出す私に、誡は頷いて服をめくり腹からファイルを取り出した。


「なんて所に隠し持っているんだお前は」


 バッグも持っていないのにどうやって持ち運んでいるのかと思えば。思わず嘆息しながらファイルを受け取ろうとして――


「っ?」


 強めの静電気みたいなしびれが走って、私はファイルを取り落とした。


 この感触には覚えがあった。誡と出会ったあの日、倒れた女性の頭に手を伸ばした時に感じたあの感覚だ。


 ようやくあの感覚の正体に思い至った。これはイレギュラーである私が触れたことで、魔法だか魔術だかが消し飛んだ衝撃だ。このファイルはおそらくビルから持ち出されたら自動で発動するよう何かが仕掛けてあったのだろう。魔術師が遺失物にかける術など、まあ一つしか思いつかないな。


「すまないな、誡。退屈かもしれないが、私達はしばらくここで人待ちをしなければいけなくなった」


 改めてファイルを取りながら言うと、誡はちょいと私を見て、すぐパフェを切り崩す作業に戻っていった。


         14


「お前はいつもこうなのか?」


「……いつも」


 ひたすら小さな口の中に吸い込まれていくパフェを見ながら問うと、誡は何のことか分からないというように私の言葉を繰り返した。


 やはり誡は感情が薄いせいか、共通認識に頼った意思の疎通に問題があるようだ。仕方なく私は、今度は言葉を増やして問いかける。


「だから、いつもこうやって危ない現場に首を突っ込んでいるのかと聞いているんだ」


 ドリンクバーの安いコーヒーを傾けながら言う。すると誡は少し考えてから頷いた。しかし頷くだけで、またパフェを食べ始める。会話を続けようという意思が見えないな。もしや単純にパフェを食べたいだけだったりするのか?


 しかしパフェばかりに集中されても困る。大人として人生の先輩として、注意すべきことは注意してやらねば。


「さっきのビルのことはあの少女の指示ではなかったんだろう? どうしてそう、自分から危険に近づこうとするんだ。お前の稀癌は危険を察知するタイプのものだろ。避けようと思えば……いや、分かるからこそ危険だと感じないのか」


 可能性に思い至って、私は視線を落とした。誡の稀癌がどういう原理で危険を察知しているのかは分からない。稀癌に原理などというものを求めても無意味だ。


 だが誡が危険を感じ取っているのは事実。そして危険が実際に分かってしまうからこそ、誡はそれを特別なことだとは考えていないのかもしれない。


 危険なんてものはこの世に腐るほど転がっている。その大小はあれど、身近に存在しすぎていると感覚がマヒしてしまうものだ。


 となれば、誡に危険に近づくなと言ってもあまり効果はなさそうだ。なぜなら、それは誡にとってただの日常なのだから。距離を取れと言われても難しいだろう。


 誡が多くを語らないから推測の域を出ないが。間違ってはいない気がする。となれば私が何を言っても無駄だな。自然の成り行きに任せるしかないだろう。そうなると……。私が誡にしてやれるのは一つだ。


「お前はいつまでこっちにいるんだ?」


 テーブルに肘をつき訊くと、誡はようやく底の見え始めたパフェから顔を上げて答えた。


「……あした、帰ります」


「そうか、じゃあ今日でお別れだな。…………なあ誡。もしまた何処かで会った時、まだお前がそうやって危ないことをし続けているのなら、陽苓ようれいかい、お前に戦い方を教えてやろうか?」


 私の提案は突拍子もないことだったのだろう。誡は眠たげな瞳を微かに見開き、キョトンと私を見返すばかりだ。それに私は苦笑して、難しい話ではないと続けた。


「護身術からでいい。どうもお前の力は荒事を引き寄せかねない。備えはあったほうがいいだろう。今回は出逢いの記念にこれをやる。約束の代わりだ」


 言って、誡の前に二丁の拳銃を置く。誡はそれを見てスプーンを置いた。


「…………」


 表情を変えぬまま、私を真っすぐ見つめて来る。


『いいの?』


 無言のままに、瞳がそう問うている気がした。私は口の端に微笑を浮かべて誡の頭をなでる。


「いやな、警察に入ってから銃を支給されて、こっちは使う機会も無くなっていてな。持っていてもいたずらに使ってしまいそうで、処分しようと思っていたところだ。だったらより必要な人間のもとへ行ったほうがいいだろう。

 それは特別製だから軽いわりに頑丈だ。弾が切れても役に立つ。護身用に持っておけ。次会った時に手入れの方法も教えてやるから」


 拳銃を裸で置いていると衆目につく。ずいぶんとポケットに入れっぱなしだった巾着袋を取り出して銃を中へ突っ込むと、誡はそろそろと手を伸ばして袋を受け取った。


 本物の銃を躊躇いもせず受け取れる時点で、やはり誡に平凡な人生は無理だろうと確信した。それもまだ可能性の話だ。案外普通に育ってちょっと無口なだけの可愛らしい女性へと育つかもしれない。


 あくまで銃はもしものためのお守りのようなもの。手段を与えると人の行動は助長されるが、誡のようなタイプに限ってそれはない。無暗に振り回す道具としてではなく、頭に入れ込んだ知識のように、コイツは使うべき時だけこれを使うだろう。


 言うなれば、誡の命を繋ぐ安全装置のようなものだ。


 誡のためを思えば二度と会うことの無いほうがいいが、不思議とこの少女とはまたどこかで、しかも割とすぐに出会うような予感がしていた。


 不恰好に膨らんだ巾着を小脇にパフェを食べ続ける誡を見ながら苦笑する。私はイレギュラーだ。奇跡にも神秘にも見放され、神の威権すら届かぬ身であるというのに予感などと。しかし感じてしまうのだから仕方がない。


 コーヒーを飲み干してドリンクバーに注ぎに行こうかと考えていると、私の後ろに座った男が店員に豆から挽いたアメリカンコーヒーを注文する声が聴こえた。その声にどこか聞き覚えがある気がして腰を下ろしなおすと、案の定、再びその声が届く。


「お久しぶりです祇遥ぎよう射牒いちょう警部補」


 椅子を挟んで背中合わせの誰かは、確かに私に対して涼やかに挨拶を投げかけて来る。恐らくそいつはこっちを振り向いてもいない。メニュー表を見るともなしに眺めながら、独り言のように呟いているのだ。


 だから私も、振り返らないままコーヒーカップの縁を撫でた。


「これはこれは、アヴァールの社長さんか。ご無沙汰だな」


 仕事の時とは違い敬語を使わず返答する。アヴァール社長――梶宮かじみやの意識が背後こっちに向かうのを感じた。


「おや、もう猫をかぶる気はないので?」


「今日は非番だからな。それに、猫をかぶっていないのはそっちも同じだろ? 殺気がぷんぷん臭うぞ」


 わざと嘲笑うように言ってみせると、梶宮はくくっと喉の奥で嗤う気配がする。


「これは失敬。部下から報告を受けて飛んで帰って来てみれば。……まったく、あなたは連盟の人間ですか? ファイルにかけていた追跡魔術がここで途切れた。あなたが魔術を使うのは確かでしょうが」


「そんなものは知らないな。私は魔法も魔術も使えない、奇跡に見放された一般人だとも」


「魔法と魔術を分けて語る時点でコチラ側の人間としか思えないのですがね」


「ああ、これは口が滑ったな。失礼。だが私がソッチの人間じゃないのは本当だ」


「よくもまあうそぶきますね。今のは挑発ですか」


「なに、買いかぶり過ぎだよ。そんなに警戒されるほどじゃない」


「未知の相手に警戒するのは当たり前でしょう」


 空気が急速に冷えていくのを感じる。互いの警戒心が背後でぶつかって探りを入れ合う。突如漂い始めた剣呑けんのんとした空気に、通りすがりの店員が息を呑むのが分かった。


 だというのに誡は気にするでもなく、パフェを食べ終わって礼儀正しく手を合わせた。稀癌で梶宮には気がついているはずなのに。マイペースな奴だと感心してしまう。


 しかし誡のおかげで周りを見渡す余裕が生まれた。店内には少数とはいえ私達の他にも客がいて、店員が働いている。私は牽制けんせいするように肩をすくめる。


「まさか、ここでおっぱじめる気じゃないだろうな」


「しませんよ。派手にやり過ぎると連盟に見つかってしまいますから」


「なんだ。お前らはやはり、脱盟者か」


 私の言葉は触れてはいけない物に触れたらしい。梶宮はついに腰を上げ、私達が座るテーブルの前に立ちふさがった。


「……この先に我が社が買い取った土地があります。そちらでお話しませんか、祇遥ぎよう射牒いちょうさん」


「いいだろう」


 誘いに乗って席を立つ。誡もついて来るらしい。巾着袋片手に椅子からひょいと飛び降りる。


 梶宮はコーヒーを運んできた店員から伝票だけを受け取り、ついでに私達の伝票も引き抜いて行った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る