第54話 方向性はこうして確立する
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その出来事が起きたのは、病院からの帰り道のことだった。
横断歩道で赤信号の時間をやり過ごす。歩行者信号が青になって母は先に歩き出した。私もその後に続こうとして、目線の先が、全て真っ黒に染まっていることに気がついた。今まで見たことのないような色。それは現実の光景ではない。私が感じている、もう一つの感覚。その頃はまだ理解しきれていなかった稀癌による警告だった。
私はとっさに母親の腕を思い切り引っ張った。バランスを崩した母親が歩道に倒れる。何事かと目を白黒させる母の目と鼻の先を、すごい速さでトラックが通って行った。
信号無視の暴走トラックだった。
母はそれにもまた驚き、すでに無表情で立ち上がっていた私を恐ろしいものでも見るように見上げた。
それもそのはずだ。
今まで人形だと思っていた存在が、自分から動いたのだ。この生き物には意思がある。母はそれを確かに認めた。そして同時に恐れたのだ。
自分はこの存在に、復讐されるかもしれないと。
それは全くの
そうして、私は彼女と出会うことになる。
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日の暮れた繁華街を少女はあてどなく歩いていた。上着から腕を出しておらず、両袖が歩くたびにぱたぱたと揺れる。少女はコートの下にあるものを隠し持っていた。
それは二丁の拳銃。正確には、リボルバーと自動拳銃を一丁ずつ。
射牒の元から逃げ去った男にメモを渡して帰ってくると、姿を消した射牒の代わりにこの拳銃が落ちていたのだ。誡はどこにもいない射牒の姿を探してさ迷っていた。
(…………どう、しよう)
こんなことあの友人の指示にはなかった。感情の薄い誡にとっては、自分で行動を決めるということは難しい案件なのだ。具体的な指示があればそれにそって行動できる。だがこの突然の出来事に対応できるほどの柔軟性を、この時の誡はまだ持ち合わせていなかった。
とりあえず誡は射牒と合流しようと、より危険な道へと向かうことにした。射牒が誡を連れて行くところは、いつも多かれ少なかれ危険に包まれていたからだ。大通りを曲がり、より人気のない道へ。赤色の光が点滅する方向へ足を向ける。
ひたすら光を追っていく誡は気づいていない。自分が、空きテナントとシャッターの目立つ、危ない道の方へ向かっていることに。
何度目かの分かれ道に差し掛かり、誡は足を止めた。右に曲がれば命の危険があるほどの輝きに突入することになる。左は、死ぬほどではないが危険なことに変わりない道。射牒がいるとすればどちらだろうと考えて、誡は右に曲がった。
誡は恐怖というものを知らない。その先に危険があることは分かっても、それを恐れることがない。簡単に脅威を選択してしまう。だから誡はその道を選んでしまう。
その先になにがあるとも知らずに。
煙草の吸殻ばかりが目立つ道を速足に進んでいくと、道の向こうを幼い少年が駆けていくのが見えた。少年は一心不乱に何かから逃げるように走っていく。目を大きく見開き半ば悲鳴を上げながら口で浅い呼吸を繰り返して。その服には、真っ赤な染みが広がっているように見えた。
誡が首を傾げてさらに進もうとしたその時、世界が闇に包まれた。見える景色は変わらないのに世界の空白が全部黒く染まってしまったような、不自然な闇だった。もちろんいきなり夜の帳が降りたわけではない。
これは稀癌の見せる幻覚。現実の景色と、そこから乖離した光景とが誡の脳裏に二重に映る。
少女は思わず呼吸を詰まらせた。身体全部が冷気に舐められているようだ。背筋に耐えがたい怖気を感じ身震いすると、頭上からその声は降りた。
「
少し
鷲鼻の目立つ長髪の男だ。無理矢理一つにまとめられた髪が、ぼさぼさと四方へ広がっているのがまるで逆さになった大樹のようだった。
「おお、なるほど。これは美味そうな稀癌だ。だがしかし、まだ幼い。食べ頃までだいぶある、か」
男は誡を見下ろし舌なめずりをする。恐ろしい容貌だったが、押し寄せる大量の感覚に身体が麻痺して、誡の中にはなんの感情も湧いてこない。ただ何となく、この男から目を背けてはいけないことだけは分かった。
「その稀癌はまことに良い。真っすぐで、柔軟で、まことに食いでがある。幼子よ、成長せよ。命のやり取りを経験せよ。そら
男は誡の上着を指差した。正確にはその下に少女が隠し持つ拳銃を指したのだと誡はなぜか理解した。
「感性を磨け。湧き上がる事象を己で定義せよ。まずは、その大半を管理下に置くことから始めることだ。そこから溢れ出でる獣性こそが、キサマの力だ」
額に節くれだった指が触れる。死人のように冷たい指先だった。不思議と誡は、男の言葉に無意識に頷いた。なぜそうしたのか誡にも分からない。ただ身体が勝手に動いたという感じだった。
誡の首肯に男は満足げに笑う。
そうして誡が瞬きする間に、男の姿は掻き消えていた。
稀癌が映していた景色の黒も、綺麗さっぱり影すら残っていない。
「…………ジャンティー」
誡はそう呟きながら、ゆっくり振り返り男の指差した方へ進路を変更した。
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後ろに腕を回され、結束バンドで手を拘束される。ただそれだけの処置で私は床に転がされた。
ここは私が捕まった路地から車で十分ほど走った場所にある雑居ビルの地下だ。未成年らしき金髪の男が見張りに残り、残りの人間は上へ帰っていく。
「お姉さーん、アンタ何者? なんでオレらのこと調べ回ってたん?」
金髪男が関節をコキコキと鳴らしながら私を見下して言った。なんとも人生を舐め腐った顔だ。耳にはピアスが幾つも光っている。分かりやすい手下臭がするなコイツ。
「ボスが帰ってくるまで待ってもいいけど、オレってば手柄欲しいんだよね。アヴァールのこと調べてた動機とか理由教えてよ。誰に指示された? 警察はオレらに目を付けてんの? それともお姉さんの独断?」
「…………」
沈黙を貫く私に、男はつまらなさそうに身体を揺らして話しかけ続けている。その言葉の中からいつくか分かったことがあった。
こいつらはアヴァールの人間であること。ボスというのはあの社長のことで間違いないだろう。
そしてそのボスは、求心力はあっても部下を制御できていない。確たる情報も無いうちにコイツらが私をさらってきたのがその証拠だ。会社の裏側を完全に隠せていたあの手際と、今の私の扱いには差がありすぎる。
派手に調べ回っていればいずれアヴァール側から接触があるとは思っていたが。まさかトップの不在中に動くとは。しかも、下の頭脳は低能なようだ。
だんまりを決め込む私に男はしびれを切らしたらしい。金髪は
「そうだ! お姉さん胸はないけど顔だけは美人だからさぁ、ちょうど暇してんのが上に五、六人いるから、遊んでもらえば? そしたら喋りたくなるかもねぇ」
いいアイデアだというように男は身体をくねらせる。私はその吐き出された“遊ぶ”という言葉の意味を知らないほど純情ではない。それでも、さしたる脅威は感じなかった。
頭に浮かぶのは、あの吸血鬼と過ごした最後の一夜の記憶だ。大学入学の日。これで会うのは最後だと言い、奴は私に最後の修行をつけたのだ。あの時の私には理解できなかったが、アイツの意図がようやくわかった。
「ふはっ、ふふふはははははは!」
気づくと私は身体を縮めて笑い声をあげていた。突然笑い出した私に男がたじろぐ。私はそんなこと気にも留めず、笑い過ぎてまつ毛に涙をにじませながらあの日の滑稽な吸血鬼の姿を思い出していた。
「いやはや、修行のシメがどうしてアレだったのかとずっと疑問だったが、確かにこれはねんねじゃ耐えられんだろうな。アイツの判断は正しかったわけだ」
数年抱えていた疑問にようやく納得がいって、私はすがすがしい気持ちで狼狽えている男を見上げる。腕の自由が利かないまま上半身を起こし、不敵にその顔を
「五、六人だと? はっ、舐めるなクソガキ。私を屈服させたくばダース単位で連れてこい!」
久々に笑ったせいでそんな安い兆発をしてしまった。しかし男にはそれが異様に映ったようだ。
さて怯えさせてしまったようだが、これからどうするか。そう心中で今後の予定を六パターンほど立てていると、突然に地響きが鳴った。建物の根幹から響いて来るような揺れだ。
「なっ、なんだどうした!」
慌てた男がこれ幸いにと部屋を飛び出し外の人間に叫ぶ。すると上の階から声が返ってきた。
「なんか、上の給湯室が爆発したみたいっす!」
「はあ? なんでそうなるんだよ!」
「わかりません! 誰も居なかったのに急にボンって! 近くにいた奴は座敷童を見たって言うし」
……座敷童? んん? なんだろう、嫌な予感がするな。こうしている場合ではない。爆発が起きたなら消防が駆け付けて来るのも時間の問題だろう。捕まったふりし続けるメリットゼロだ。
「よっと」
背筋に力を込めて、腕を左右に思い切り引っ張る。するとプラスチックの結束バンドは簡単に千切れた。男がその瞬間を見て化け物でも見るような目で鼻水を垂らしているので、私はその顎を一殴りして廊下に出た。
ふむ。上にいた奴等は現場に向かったようだ。ここにアヴァールの不正の証拠でもあれば手っ取り早いのだが。消防が来るくらいはヤツラにも推測できるだろう。最悪証拠が破棄されかねない。
いくつも場所を当たっている時間はない。さてどこから行くべきか。数瞬の思考を走らせ天井を睨んでいると、その声は突然上がった。
「クリエ…………いちょうさんいました」
「は?」
横から声がして顔を向けると誰も居ない。まさかと思い視線を下方に向けると、そこには私を見上げる誡の姿があった。
まさか、さっき言われていた座敷童の正体は……。だとすれば上で騒ぎを起こしたのは誡なのか? いやそれよりも。
「どうやってここが分かった」
「…………いちょうさん、一ばんおっかないから。……見つけやすいです」
誡は言葉を選ぶように呟いた。だがその意味がやはりくみ取れない。私はつい渋面になってしまう。
「さっぱり意味が分からん。まあいい。ここは危ないからな。お前は早く外に――いや、そうだ。誡、お前勘が鋭かったな。怪しい書類がありそうな場所とか分からないか?」
言っていて気がついた。最初に会った時、誡は悲鳴の現場まで案内してくれた。そういう勘が鋭いのかもしれないと思って提案する。他人に頼りたくはないのだが、誡に邪気がなさすぎるせいで言葉はするりと出ていた。
誡は身体ごと首を傾げて微かに眉を寄せる。
「……あやしい……しょるい…………」
「その『おっかない』奴がいる場所でもいいんだ。――いや私はいいから」
子どもの真っすぐな目で指差されるとさすがの私もきついぞ。誡の前で暴力沙汰は数回しかやってないはずなんだが。
「他にこの建物でヤバイ所は分からないか。急いでいるんだ」
「…………たぶん、こっち」
数秒逡巡して階段を指差すので、私は初めて会った時のように誡を小脇に抱えた。
ほとんどの見張りは上の爆発現場に向かったようで、廊下に人の姿はない。それをいいことに私は誡の指差すがままに任せて走る。
足を動かし続けていて、ふと思った。どうして誡がここにいるのか。まさかこいつ、突然いなくなった私を迎えに来たのか? 私が居なくなればあの屋敷にさっさと帰るものだと思っていたんだが。
余計な心配をかけたのかもしれん。それとも、これもあの少女の思惑なのか。どちらにせよここまで来てもらったのに変わりはないか。
これは何か褒美をやるべきだろうな。案外あの少女もそれを狙って誡を送り込んできたのかもしれん。
「誡、この件が終わったらお前の望む報酬をやろう」
にやりと笑って告げる。しかし誡、意味が分からないというように首を傾げて、また前方を指差すだけだった。
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