第五章 冷笑の硝煙
第49話 出逢いは必然
第五章
1
ふと頭上を見上げれば、張り巡らされた電線に、それでなくても狭い夜空が切り取られている。月の光が入らず街灯の間隔も遠いから路地はどうしても薄暗くなる。
その薄暗闇の中を私はおぼつかない足取りで歩いていた。身体に不調があるわけじゃない。今日は精神的な疲労が大きかった。
――
そんな職場の先輩の言葉を思い出す。大柄で髭を生やしどこか熊にも似た容貌のその男は、私よりも二十年先輩の同僚だった。経験も豊富で階級も私より上だ。判断力もあり頼れる人間なのだが今日は少し様子が違った。普段の先輩の言うことは基本的に的を射ていることが多いというのに。
しかしその先輩が断言した。
あの男は無関係だと。
「そんなわけ、ないだろう」
つい、自分のものとは思えない憎々し気な呟きが洩れる。己の身体をコントロールできていない証拠だ。
事件自体は単純なものだった。一人の建設作業員が起こした民間人への暴行事件。隣の県で起きたそれは、しかし予想を超えて複雑なものとなっていた。
――容疑者が、何も覚えていないと証言したのである。
事件直後、駆けつけた警察によって捕らえられた容疑者はしばらく暴れてから唐突に気絶。目覚めてからは、事件のことをなど何も覚えていないと主張し続けている。
精神鑑定、薬物判定、あげく脳みそまで調べたが異常はなし。しかし嘘を言っているようにも見えない。それが隣の県の捜査員の言葉だった。
なぜ事件が発生した県の職員ではない私が調査を行ったのか、という理由は簡単だ。
事件直前、容疑者に唯一接触した人間がこの県内に本拠地を置く会社の社長だったからである。応援要請を受け、代わりに私と先輩が
社長は二十代後半の好青年だった。西洋風の顔立ちで軽く口ひげを生やし、言葉にも外国のなまりがあった。
物腰も丁寧で
私の眼には、少なくとも何らかの事情を知っているようにしか見えなかったのだが。先輩は繰り返し、『あれは白だ』と私に言い聞かせ続けた。そして終いには、
――――お前は疲れてるんだ。クリスマスも正月も休みとれてなかったろ? ちょっと休め。今は幸い目立った事件もない。俺が代わりに有給申請しといてやるから。
と、頭を撫でられた。
その髭をむしって丸焼きにしてやろうかと思ったが、私ももう二十三歳なのでさすがに自重した。学生時代なら勢いで二、三発殴っていた自信がある。だが今の私は仮にも国家公務員。それ相応の言動を心掛けねばならない。
自分の能力を存分に生かせる職として警察を選んだ。だが、組織に従属する堅苦しさを理解していなかった。自分の意思で思うように動けないのがこれほどストレスの溜まるものだとは思っていなかったのだ。
意図的にため息をつく。自身の内に溜まった黒いものを外に吐き出した。
ここの路地を真っすぐ行ってそれから右に曲がった方が自宅への近道になるが、今日はもう少し夜風に当たっていたい。そう考えて私は左に曲がろうとした。
しかし、それはできなかった。
私を呼び止める声があったのだ。
「……そっちはだめ」
そんな言葉に足を止める。路地の角の積み上げられた段ボールの上に小さな人影が座っていた。
(――――子ども?)
十歳くらいの子どもだった。真っ黒なジャンパーが闇に紛れ、白い肌が浮いているように見える。子供の性別は区別しづらいがおそらくは少女だろう。光源が少なくてもわかる整った容姿と、重力のままに垂れる短い黒髪がどこか人形を想起させる。
生々しいのに動いている姿が想像できない、誰かが丹精込めて作り上げた歪なアンドロイドのような。
少女の眠たげな生気のない大きな目が私を真っすぐ捉えていた。
気がつけなかった。誰もいないと思っていたのに。
疲れすぎて判断力が鈍ったか?
少女は立ち尽くす私を見つめ続けている。ピクリとも動かない。やはり人形のようだ。
(……幻聴じゃないよな?)
ぞわぞわと内臓を這って奇妙な不安感が私を襲った。
「駄目とはどういうことだ?」
聴き返す。すると人形は少しだけ髪を揺らし、私の問いに答えた。
「……あぶないのだと」
「…………?」
意味が分からない。少女が言葉を発したことに安堵しながら、私はまた言葉を投げ返した。
「もう少し要領よく説明できるか?」
腰を曲げ視線を合わせて問うと、思考するような沈黙の後に答えがあった。
「……ここから先はきけん……だれも通すなと、いわれています」
言葉のニュアンスを理解できる程度の最低限の抑揚で少女はそう言う。たどたどしいところがあるのが逆に子供らしくて安心する。
「つまり誰かの指示で見張り番をしてるってことなのか」
少女がカクンと頷く。それを受けて私は腕時計を確認した。夜の十時をとうに過ぎている。子供が一人で出歩く時間じゃない。嫌な予感がしてきた。
「いま何時だと思ってるんだ。お前みたいな子供は家に帰って寝る時間だぞ。その指示を出したやつは誰だ? 両親か?」
「……いこの」
「は?」
「……ともだち」
予想していた答えではなかった。育児放棄とかそういうことじゃないらしい。いや待て、その友達がコイツと同じ年代のガキとは限らない。
「そいつの歳はいくつなんだ?」
「……一つ下……七才」
同じ年代のガキだった。しかも年下。七歳っていうと……小学一年生くらいか。となると、この少女は八歳ということになる。歳不相応な落ち着きだ。私ですらこの年頃はもう少しやんちゃというか、クソガキ感漂っていただろうに。
だがこれで
だがこんな時間のお散歩はこの少女の年頃ではまだ早い。
「その友達とやらはこの先にいるんだな?」
まとめて家まで送迎してやろうと考えての発言だった。けれど少女は首を小刻みに横に振った。
「……このさきはきけん、通行きんし。……おかえりください」
「…………」
人間から全ての感情を削ぎ落したような、虚ろな目が私を見ていた。
嘘を吐いていない、ということはわかる。百歩譲って少女の言葉を全て信じよう。
ならばなおさら私には無視できないものがある。
背中を這う違和感が私の視線を路地の奥へと向けさせた。真っ暗な細い路地。しかしその奥は住宅街に続いているはずだ。
不穏な空気が漂う。私の直感がこの先になにかがあると告げている。
「…………だめ」
無意識にその方向に進もうとして袖を引かれた。見ると、やはり無表情の少女が私のスーツの袖をがっしりと掴んでいた。
「……そっちは、まっ赤でもやもやで、さむくてくさくて、……あたまがいたい」
「すまん。意味がわからんのだが」
いったいなんの比喩なんだ。連想ゲームにしても高難易度がすぎる。
「……おねえさんもあぶない人。けど、……そっちはもっとあぶない。……死にます」
「“死”ときたか。なおさら私は行かなくてはならないな。私はこれでもおまわりさんだから」
こげ茶色の手帳を見せつつ言うと少女が微かに眉をひそめる。さすがは国家権力。相手に有無を言わさず自分の意思を主張できるのは便利だ。
「といっても、お前を一人残していくのは気が引けるな。後で家まで送ってやるから一緒に来なさい。名前はなんというんだ?」
「…………」
私の問いに少女は様々な思考を押し込めるように黙る。そうしてようやく口を開いた時には、私の袖を放していた。
「……
言い直してから少女が段ボールから降りた。
「そうか。私は
顔に微笑みを作り手を差しだす。少女は私と、なぜかその周囲にも目を配らせてからその手をとった。
握った手の小ささに感心した、瞬間だった。
あの悲鳴が路地に響いたのは。
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