第50話 個人行動開始



         2


 “己を知り、成長させるには過去を整理せよ。前だけ向いて踏破できるほど人生は甘くない”

 ……誰の言葉だったか。おそらくは、また顔を思い出せなくなってきたあの親友の言葉なのだろうと推測できる。自分の幼少期について整理してみてはどうかと、彼女の生前からたびたび提案されていたが、今の今までそのやる気は起きなかった。

 面倒だったのだ。筆記はもちろんペンを持つのも面倒だ。けれど、丁度依琥乃いこのの名前を思い出せたのだから、これを機会に書き始めるのもいいだろう。彼女の存在抜きに私という人間は語れないのだから。

 更科さらしな君あたりに見せるのならば構成を考えて書き始めるのだが、これは人に見せるために書くのではない。あくまで自分のためだけに書く備忘録びぼうろくで、遍歴だ。

 だから簡潔に、時系列にそって書き始めよう。

 今からどれほど遡ろうか。

 更科君と引き合わされる前、射牒さんに弟子入りする以前、そして、伊神依琥乃と出会うその前へ。

 そうだ、その頃から書けばきっとわかりやすい。


 記そう。

 ――――私、陽苓誡という人間の全てを。


         2


 悲鳴は遠くから響いた。とりあえず声のした方に駆け出すが正確な方向が推測できない。いつもは反響からある程度は把握できるのだが今回はそれができなかった。あの小さな少女に気を向け過ぎていたのだ。


 曲がろうと思っていた角を無視して直進する。そこからは三方向に枝分かれしていた。どの方向か分からない。舌打ちを洩らす。


 悲鳴が聞こえてから六秒経過。時間がない。一か八か適当な道を選び進もうとすると、反対側からベルトを掴まれた。


「――――こっち」


 いつの間にか私に追いついてきた少女――陽苓ようれいかいだった。


 今度は手を引かれ走り始める。小さな子どもに手を取られているせいで前傾姿勢となって間抜けなフォームになってしまう。


「おい、場所がわかるのか」


 共に走りながら訊くと誡は首を横に振る。


「……でも、あっちのほうが、……あぶない」


 言っている意味は分からなかったがとりあえず信用することにした。


「よしっ。方向を示せ」


 子どもの足に合わせていては時間がかかる。私は誡を小脇に抱えて走るスピードを上げた。


 曲がり角の度に誡が「……あっち」と指を指す。その通りに進むと、やがて乱立した建物の間がたまたま大きく拓けた場所、エアポケットに出た。


 中央付近には倒れている女性と、その女性に覆いかぶさるようにしている男の姿が。


「おいっ、そこで何をしている!」


 駆けつけながらわざと声を張り上げる。すると男は子供を小脇に抱えた長身の女に驚いたようで、動きを止めた。


 ここは弱弱しい月明りしか光源がない。いくら闇に目が慣れていても相手の顔までは判別つかない。男が凶器を手に持っていないことを確認してからゆっくりと近づく。腕の中の誡は大人しく身じろぎ一つしない。それは倒れた女性も同じだ。まったく動かない。


(遅かったか?)


 あと数歩で顔が分かる距離に入る。しかし男はもう少しという所で身をひるがえし逃げ出してしまった。


 追うべきか考えたが、被害者らしき女性の保護が先決だ。なにより私は小学生女児を連れた身だ。守りきる自信はあるが無理をしないに越したことはない。


 女性の横に屈み込んで脈を診る。指先に確かな鼓動を感じる。乱れもない。女性は不自然なほどやわらかな寝息をたてていた。ついさっき悲鳴を上げた張本人とは思えない。


「……生きてる」


「ああ。誡が誘導してくれたおかげだよ。助かった」


 礼を言うが誡は特に反応を返さなかった。女性を揺すっている。


「……おきません」


「薬でも嗅がされたか」


 であれば病院に連れて行かねばならない。人の意識を瞬時に奪う薬品は脳にも相応のダメージを与えてしまう。最悪障害が残る。それに倒れた時に頭を打っている可能性もあった。


 そう考え女性の頭部に手を伸ばす。しかし静電気のような衝撃が走り、反射で手を引っ込めた。


「?」


 手にしびれはない。私は別に静電気体質というわけではないのだが……冬だから仕方ないか。


 気を取り直してもう一度手を伸ばそうとすると、女性が呻き声をあげながら目を開けた。どうやら目覚めたらしい。


 頭を押さえて上半身を起こすが、女性はまだ混乱しているようだ。視線が定まらず、私と誡の間を行ったり来たりしている。


「大丈夫ですか? お怪我などは」


 問いかけると、初めて私が人間だと気づいたというように眼をしばたかせた。


「大丈夫……です。あなたは?」


「悲鳴を聴いて駆けつけました。男に襲われていたんですよ、あなたは」


 警察手帳を見せながら言うと女性は警戒を解いてくれた。やはり国家権力は便利だ。

 しかし女性はそれでも胡乱うろんな目つきで私と誡を見比べている。


「ああ、この子は私の知り合いですよ」


「お子さんですか?」


「まさか。お気になさらず」


 相手の警戒心を解くために微笑みを浮かべる。必要なのは詮索の隙を与えないことだ。


「さあ、立てますか? 近くに交番がある。そこでお話を聞かせてください」


 手を差し伸べて女性を立たせる。まだ不審そうに視線を彷徨わせているがそれ以上の言及はなかった。


 本当は男の追跡を行いたいのだが、あれが単独犯と決まったわけじゃない。この女性を放っておくわけにもいくまい。


 女性に手を貸しながら誡に声をかける。


「とりあえずお前もついて来てくれ。そのあと家まで送ってやる」


「……家には、かえりません」


「は? 本当に家出か?」


「…………家はとなりの県の。……私は友だちの……きせい、についてきただけ」


 私の質問に首を横に振った誡は、言葉を手繰たぐるように視線を彷徨さまよわせる。きせい……『帰省』か。その友達とやらの所に泊まっているのだろう。じゃあ旅行者みたいなものなのか。


「ではそこまで送る。文句はないな」


 誡が返事の代わりに私を見上げて小さく頷く。

 それを見届けて、私は女性に手を貸して歩き出した。


         3


 翌日の上司からのメールで、私は本当に有給休暇を割り振られたことを知った。しかも三日間である。


 ベッドからのそりと起き出して仕事に向かう準備をせねばとしていたところで、だ。急に休めと言われても困る。なんだか空振りした気分だ。


 昨日の女性も交番に送り届けたところで引継ぎをしてしまったし。手元にこれといった仕事はない。寝ぼけ眼を必死に開いて手帳を見るがやはりやり残した仕事は一つもなかった。


 つまり今日は完全OFF。

 むしろ連休である。


 世間はようやく正月気分から抜け出し仕事初めといったところ。外に出ればいまだ冬休み中の子供達が走り回っていることだろう。


 長い髪を指先で弄びながら窓の外を眺める。雪こそ降っていなかったが、早朝の冷たい空気がガラスの向こうに張り付いている。人通りは少なく、この寒いのにゴミ捨て場で会話する主婦の姿があった。


 やることがない……。


 別に私は仕事人間というわけではない。だが特別打ち込んでいる趣味があるわけでもないのが現状だ。テレビや映画の類は進んで見ないし、本も実用書を速読でぱらぱらして知識を吸収するだけ。音楽に興味がなくそもそも芸術を楽しめない。


 吸血鬼に各国の美術館に連れていかれたことはあるが、ついぞ芸術を解することはなかった。無駄に眼が肥えただけだ。


 そうすると家でやることがない。家事は日頃からこつこつこなしているから部屋が汚れているわけでもない。かといって外に出て何をすればいいのだ。就職のためにこの県に引っ越してきたから、大学の友人が近くに住んでいるという都合のいい話はない。


 ならば一人で行動しようにも、会員登録しているジムはまだ正月休みを明けていなかった。


「やはりジム通いは不便だな……。いっそ造るか……」


 金なら少し株をやればすぐ調達できる。コツはレゾンから教わったから覚えているし。


「いや、今はこの休日をどう過ごすかだったな」


 とはいえ休む必要性も休みたい気持ちもない。となると……。そこではたと気づく。


「これはむしろチャンスじゃないか?」


 そうだいっそ仕事をしてしまえばいい。先輩が流してしまった昨日の事件だ。あの社長にはやはり何か裏があるに違いない。今なら誰にも邪魔されず自分の意思で事件の調査ができる。


 この数か月で実感した。私は組織というものが苦手だ。単独で行動したい。それでも社会人なので表向きは平静を保ってきた。


 だが、今ならやりたいようにできるのだ。


「そうと決まれば朝食だな」


 腹が空いてはなんとやらだ。適当なスープとパンで空腹を片付けてしまおう。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る