第38話 鮮血終焉


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「ど、どうして貴様がここにいる!」


「ああ? なんだ誰かと思えば懐かしい顔だ。まだ生きていたのか小僧。若作りまでして必死だなぁ」


 怒鳴る紳士は明らかに冷静さを欠いていた。対するレゾンはいつもの凶悪な笑みを浮かべている。この二人、どうやら面識があるらしい。しかも決して仲良しなどとは言えないようだ。後ろの方で青年の厳罰人がオロオロしている。彼はレゾンを知らないようだった。


 一通り歯ぎしりと憎々し気な視線をレゾンに送っていた紳士は、青年の目があることを思い出したらしく、帽子をかぶり直して大きく息を吐いた。そして今度はまた自分ぼくらを見る。


「貴様の考えなどどうでもいい。とにかく、その罹患者共をこちらに引き渡してもらおう」


「駄目だ」


「なに? 巫山戯ふざけるな! なぜ貴様が人間のガキをかばう」


「君には関係ないな。とにかく彼らは渡せない。大人しく引き下がれ。俺と敵対したくはないだろう?」


 レゾンの眼光に厳罰人たちが後ずさる。無理もない。レゾンの視線を直接受けてない自分ぼくですら全身に鳥肌が立っているのだ。空気が震えている気さえする。かいに至ってはあてられてか顔を青ざめさせ吐きそうになっていた。


 漆少年は……、レゾンを見て唖然あぜんとしている。昔見た家族のかたきを思い出しているのか、それともただ単に、突如空から現れた長身のイケメンに威圧されているのかは、自分ぼくにも判別つかない。


 紳士は狼狽ろうばいを隠しきれないながらも仕事に忠実であるらしく、逃げ帰ることはしなかった。それどころかこぶしを握りしめてなおみつくようにレゾンに迫る。


「っく、せめて、一番奥の罹患者は渡してもらう。もともと我々のターゲットは彼だ。ソイツはもう狂っている。基準値を遥かに超えているんだ! 我々の仕事を邪魔しないでもらおう!」


 だがレゾンはどこ吹く風のようで、涼しい顔を崩さない。


「だからどうした。こいつのせいで人間がどれだけ死のうと俺には関係ない。それに、君は間違っているぞ」


「は?」


「漆賢悟は正確には狂っていない」


 レゾンの言葉に、ようやく矛先が自分に向いていると気づいたらしい漆少年は少し驚いた顔をしたあとなぜか倒れた。慌てて顔を覗き込むと寝ているだけだ。


 どうしてこんな時にと思ったが、どうやらレゾンが腕を軽く振っただけで少年を眠らせたらしい。触れもせず人を眠らせる。魔術の一種だろう。一瞬空間に陣が浮かんだのが見えた。


「おい、その子どもが狂っていないだと? 数値は明らかに基準値を超えているのだぞっ。連盟を侮辱するのか」


「ふん。えるな小僧。いま証拠を見せてやるとも」


 つまらなさそうにレゾンが少年に近づく。完全に眠らされている少年は安らかな寝息をたてていた。その少年の頭にレゾンが手をかざす。そして、早口に何かを詠唱した。


 驚きの声は紳士ではなく、青年の方から上がった。漆賢悟の脳髄のうずいの辺りから一匹の巨大な、半機械的な様相の芋虫いもむしが出てきたのだ。生物とロボットの中間くらいのグロテスクな姿だ。自然のものではない。


 レゾンはそれを摘み上げ、紳士に向かって放り投げた。受け取った紳士は気味悪がることもなく虫をまじまじと見ている。それにレゾンは軽い解説をつけた。


狂乱蟲きょうらんちゅうだ。すでに消えた古い魔術の一つだよ。人の脳に寄生し、本人の精神状態と連動して心を掻き乱す。取り除いてしまえば効果は消える。これでこの少年も少しはまともになったろう」


 眠り続けている漆少年。中にそんなものを住まわせていたのか。少年がずっと精神不安定だったのはこの虫の影響もあったわけだ。


「なぜこんなものがその少年の中にいたのかね」


「むかし回収しそびれたのだ。そのむしは寄生時に麻酔と幻覚作用も引き起こすからな。集団を喰う時によく使う。それを土産にくれてやる。失われた魔術だ。研究対象としては値千金だろう?」


「…………確かに、その罹患者の数値も規定値を下回ったが」


 紳士が奥歯を噛む。このまま引き下がるのはプライドが許さない、とかいうのだろうか。


 一触即発の空気が漂う。このまま大戦争でも始まるのかという雰囲気だ。自分ぼくが誡の背中をさすりながら見守っていると、いつのまにか何処かと連絡をとっていた青年が紳士に呼びかけた。


「先輩。連盟本部より観測情報です」


「なんだねこんな時に。よほどの大物かい?」


「はい。日本国における識別名称『捕尾音ほびね宍粟しそう』。災害指定Sランクが日本に入ったと。……撤退指令です」


「………………チッ、奴か。――――いいだろう。ここは引くとしよう。災害指定に関わって呪いを感染うつされてはかなわない。とくに捕尾音はこの吸血鬼と違って自重というものを知らないからね。……ルー、航空機のチケットを手配しておきなさい」


「あ、はっはい!」


 なんだかよく分からない会話を繰り広げた二人は、なんだかよくわからないまま踵を返し、そのまま建物から去っていった。


 残された自分ぼくと誡は話について行けず、漆少年は寝息をたてている。レゾンだけが苦々しい表情で舌打ちを漏らしていた。


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 不機嫌そうに立ち去る先輩の背を僕は小走りに追った。


 災害指定の到来に撤退するのは仕方がない。術者は本来、生き延びて自身の研究成果を書物グリモアにまとめることを至上とするからだ。

 しかしあれほど罹患者に対し嫌悪を示していた先輩がこうも簡単に引き下がるのは、どうも違和感があった。


 突如現れた銀髪の男。謎の吸血鬼はそれほどの脅威だったというのだろうか?


「先輩ほどのお方が、吸血鬼なんていうホムンクルス相手にあれほど譲歩じょうほするなど、どうなさったのですか」


 納得がいかず先輩へ呼びかける。


 この時代に真の吸血鬼などすでに存在しない。原始に存在したあらゆる純正の怪物は、人間に忘却されることで姿を消した。だからあの吸血鬼もどうせ錬金術者にそう作られたまがい物であろうと憶測をつけての言葉だったのだが、予想外にもそれは否定された。


 追いつき、見上げた先輩の顔は、極度の緊張から解放されたかのように青ざめていた。


「そんな生易しいものではないよ。あれは本物の吸血鬼だ」


「え?」


 意味が分からず疑問符が洩れる。先輩は「無理もないな」とかぶりを振り、そうしてもう遠くになった廃墟を睨みつけた。


 そこにいる存在の死を願う、敬虔けいけんな信徒のような面持ちだった。


「二度と会わないほうがいいが、まあいい機会だ。覚えておくといい。

 あれこそは、全知・不全能に魅入られし唯一現存する最後の幻獣。原始から現在に至るまで常に存在し続ける者。――――識別呼称『レゾンデートル』。Sランクなど生温い。正真正銘、原罪指定の化け物さ」


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 これほど血にまみれた姿でタクシーに乗ることはできない。私と更科君は射牒さんに迎えを頼み、廃墟に残った。


 レゾンの姿はもうない。眠った漆賢悟をかつぎ、彼を施設に送り届けると言って先に帰って行った。


 私の傷口も半分ほどが癒えていた。なぜか妙に協力的だったレゾンの魔術だか魔法だかによって、服の上からは目立たないほどに斬り傷が治療されたのだ。

 しかし完治するほどではない。右目もまだ切れ目が入ったままだ。吸血鬼が言うには、治癒力を底上げしているからそのうち治っていくというが……。


 あの化け物が優しいというのも気色が悪い。付け加えて、目については正式に病院へ行くことも勧められた。人体の構造には興味がないので治しようがないそうだ。


 見える視界はいつもの半分。おかしなことに稀癌の映す視界は、失われた右目の分もしっかり映る。もともと目をつむっていても歩き回れたのだ。ぼんやりと幻影のようにまぶたに映る紅を避ければ、それは脅威のない正しい道となる。視力のあるなしは稀癌になんら影響を与えない。


 自分の状態を確認している私とは対照的に、更科君は先ほどから、少し離れた場所に腰を下ろして項垂うなだれている。私に背を向けるようにしているので、どんな表情をしているのかは分からなかった。


 なにか落ち込むようなことがあったのだろうか。

 私の怪我ことならば気にする必要はないと、一応告げたのだけれど。


 今回の件で彼に非はない。むしろ来てくれただけで私にとっては十分だった。私と漆賢悟の遭遇そうぐうは完全に偶然だったのだ。むしろそれを嗅ぎ付けてここにやって来た時点で、更科君は自身の領分を超えた働きをしたと言える。


 それに――と、私は思い出す。


 更科君は、血まみれだった私を抱きしめてくれた。


 彼の身体が私を覆うように締め付けた。走って来たであろう彼の身体が、血を流し過ぎて底冷えした身体にとても温かかった。

 でも、どうしてだろう。温かかったのは身体だけではなかった気がした。不思議だ。強く動悸がして、自分の内側の、もっと深いところにまでその熱がみ入るような……。

 もう一度彼に触れれば、この感覚の正体が分かるだろうか。


 そう考えて手を伸ばし。けれどそれ以上動けない。


 触れるのが、なぜだか躊躇われた。


 変な声が出てしまいそうで呼びかけるのも難しい。


 どうしてだろう。

 どうすればこの、唇の震える理由が分かるのだろうか。


 漆賢悟とのやりとりの中で覚えた胸の内の騒乱。あれが私の中にある感情の全てだというのなら、私は今もう一度それが欲しい。生まれて初めてそう思った。けれど、どれだけ記憶を再生させても、同じ感覚は再び私には訪れなかった。


 唯一形になったのは、あの震えだけ。


 私は、私の一つの可能性を垣間見た。依琥乃いこのを失い、寄る辺を失くした自分。醜い自分。人を傷つけることを躊躇う理性すら狂乱に落とした、自分。


 もしも私に更科君がいてくれなかったら、

 今頃私は、依琥乃を失った私は、どうしていたのだろう。

 あんな風に、狂ってしまっていただろうか。


 ……今なら分かる。少年と対峙した時に感じた震え。あれこそが恐怖だったのだろう。

 死の恐怖ではない。傷を負う恐怖でもない。


 一瞬でも、同じものに見えたから。

 そこに立っているのが、漆賢悟ではなく私だったかもしれなかったから。

 私はその可能性に、恐怖した。


 けれどあのとき骨の芯まで私を震わせた恐怖は、すでに私の中になかった。

 更科君に抱きしめられた瞬間に、まるで雪か氷のように溶けていったから。


 もうあの恐怖を具体的に思い出すことはできない。


 舞い散るほこりが日に照らされて、外国の映画で見た妖精の鱗粉りんぷんのように輝いている。

 レゾンの穿うがった穴から空を見上げる。青空を小さな鳥が絡み合いながら飛んでいった。


 掴みかけた感情。しかしそれは私の手をすり抜けて、またどこかへ飛び立ってしまった。飛んでそれを追いかけられたらいいのに。そうしてあの腕の中からも抜け出して、遠くへ行けたらいい。そうすれば、彼が涙を堪えることもなかったかもしれないのに……。


 けれど、それはできそうにない。


 なぜなら私はもう、彼から逃げられないから。


 追いかけてきてくれる姿を、嬉しいと定義してしまったから。

 そこからのがれることはできない。何度も私を捉えて離さない。


 私の心は、空ではなく更科君と共にある。


 触れる代わりに私は更科君へ近寄り、その背に自分の背を預けた。

 彼の身体が一瞬びくりと揺れる。

 けれどそれ以上は動かない。遠慮しているのだろうか。聴こえて来るのは、互いの呼吸音だけ。背中に温もりが伝わってくる。


 ――――これからもずっと、この人と共にいたい。


 きっと私はそう願いをのせて、この空を見ていた。




        第三章 枯野の鮮血 了


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