第36話 彼・彼女の支柱
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「――――なめ、るなっ」
降り下ろされたナイフを倒れざまに蹴り上げる。ナイフを落とすことはできなかったが、大きく弾かれた腕はすぐには戻ってこない。
後ろ手をつきそのまま走り出そうとして、私の
「なっ――」
足に触れたのは少年の左手だった。だがその手にはなにも握られていない。斬れるはずが、ないのに。
なぜか斬った本人である少年も口を開けて自分の左手を観察している。なにが起こったのか理解できなかったというように。
少年が静止している間に私は足の状態を確認した。左足の
次はどうして斬られたのか、という問いだが。……おそらく爪だろう。
何でも斬れるということは、何を使っても斬れるということ。ほんの少し鋭利性があれば斬れるのかもしれない。稀癌とはそういうものだ。
でたらめ、法則性皆無、あらゆる常識を無視する異能力。それが唯一、稀癌の共通概念なのだから。
同じことに少年も考え至ったのだろう。彼は笑って指についていた血を払った。
「はは、ははは。斬れた。やっぱり。あはははは。じゃあ、続けよう」
やはり見逃してくれないらしい。足の速さは想定外だった。これでは建物から出ても追いつかれてしまう可能性が高い。足も、いつ感覚を失くすか分からない状態だ。ならば隠れ場所の多いここで決着をつけるしかない。
だが拳銃なしにどう戦う。相手は道具無しでも人を切り刻める稀癌持ち。懐に入るのは自殺行為だろう。やはり距離をとってどうにかするしかないか。
……そのためには。
私は周囲に視線を巡らし、間取りを把握した。それからナイフを手の平で弄んでいる少年に落ちていた木片を投げつける。小さな木片だったが少年はナイフを振るって切り落とした。そうして一瞬、意識が私から逸れたのを利用し横の窓へ飛び込む。
この建物、内側にも小さな庭があるらしく、窓はそこに繋がっている。ガラスは廃院の時に全て取り外されたのだろう。ここまで見てきて一枚も残っていなかった。
そしてこの建物の周囲は、伸びすぎ手入れされなくなった木々が生い茂っている。内側の庭も例外ではない。私は木の幹に
頭上で少年の驚嘆の声が響く。だが真似て飛び降りてくることはないようだ。足音が窓際から遠ざかっていく。階段から下に行こうというのだろう。
さて、少し余裕ができたところで、動いて建物の構造を把握しつつ一人作戦会議だ。
銃が無い以上、使えるのは己の肉体とその辺りに落ちている物くらい。接近戦を挑むのもいいが、一撃で相手を無力化できなくては追撃がくるだろう。
それと大前提が一つある。少年を殺してはいけないということだ。少年に自供させねば
やったことの証明は簡単だが、やっていないということを証明するのは大変だ。だからこそ更科君は『捕まえる』と言ったのだ。彼の計画を私が狂わせるわけにもいかないだろう。
相手を殺さずに、遠くから無力化する。……条件が難しいな。いっそのこと少年が極悪人で、殺しても誰も悲しまない人物ならばよかったのだが。いや、私が人を殺せばなぜか更科君が苦しむ。やはりそれは面倒だ。この仮定は使えない。
「……と、なると、無力化しか道はない」
ため息が
ここで鬼ごっこをしながら、策を考え出さなくては。
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最初の目的地にはレゾンに投げ飛ばされて着いた。強烈な吐き気を堪えて辺りを見渡す。狭い公園の中、人の気配はない。
「ここじゃないか」
急いで次に向かわねば。丁度走っていたタクシーを止めて乗り込んだ。
次の住所も車なら数分でつく。
パラパラとめくり流し読みをする。漆少年の人となりを知れば、何かあっていても止める方法を思いつけるかもしれないと思ったからだ。この際、プライバシーとか良心の
読んでいてすぐに気が付いたのは、本当に依琥乃と会った時のことしか書かれていないということだ。そして漆少年の気分が揺れ動いた時に限って、依琥乃が彼を訪ねている。
依琥乃は面倒見の良い少女だった。レゾンのこともある。不安定な年下の少年を放っておけなかったのだろう。
ページをめくるたびに、勝手に見ていることへの罪悪感が
『四月●日、また、ボクはおかしくなっていたらしい。そういう時は、なにもかもを力のままに切り刻みたくて、しかたがなくなる。依琥乃からの電話で彼女の元へ帰る。しかし今日は収穫があった。ボクにも切れないものがあったのだ。依琥乃は苦笑して「切れないと、斬らせないには、大きな違いがあるのよ」と言っていたが、よくわからなかった』
これは誡と漆少年が出会った時の話だろう。そうか、依琥乃が二人の衝突を止めたのか。もう少し読み進めると、漆少年が自分の刃を避けた誡に執着しているのがわかる。
少年の稀癌は外に働きかけるもの。その異常性に気が付きやすいタイプのものだ。自身の抱える異常とは、他者からの指摘が無くてはなかなか気が付くことができない。
そうして「なんでも切ってしまう」という異常を抱えた少年にとって、切ることができなかった誡という人間は意識に強く残る存在だったのだろう。
またページを進める。数枚めくると漆少年はもう中学生になっていた。
『五月五日、こどもの日だからと依琥乃が小さな鯉のぼりを持ってきた。もう中学生なんだからとボクは言ったけど、依琥乃は楽しそうだった』
『六月十七日、誰もいないのに声が聞こえてきて、ボクを責める。耐えきれず道端で吐いてしまった。ちょうど通りかかった依琥乃が背中をさすってくれた。温かい手だった。幻聴はいつの間にか聞こえなくなっていた』
『九月二十二日、皆がボクを馬鹿にしている。通り過ぎる人間全てが、ボクを殺そうとしている。けれど、依琥乃は黙ってボクを抱きしめてくれた。涙が出そうだったから耐えた。彼女がボクへ向けているのがただの同情だと分かっていても、傍に居てくれることだけで、ありがたかった』
『●月二十八日、学校でつくったクッキーを渡すと、依琥乃は嬉しそうに食べてくれた。彼女は病弱らしい。いつか二度と会えなくなる日が来ると、以前から告げられていた。けど、きっとあの笑顔だけは忘れない。なにを失っても、ボクはただ、依琥乃との思い出を、ずっと覚えていたい。そう思った』
「――っ」
記されているのは途方もない感謝と、行き場のない愛情だった。
漆少年が依琥乃へ向ける感情。それがどんな愛なのかは分からない。友愛なのか、親愛なのか。それとも――――人が人に恋した時に、当たり前に生まれる
きっと、少年にも判別などついてはいなかったのだろう。言葉になったのは感謝だけ。けれど、漆賢悟にはそれで十分だった。多くは求めない。ただ、ずっと覚えていたかった。忘れたくなかった。
本当に、それだけだったのに。
どうして運命は、これほどまでに残酷なのだろう。
「つきましたよー。この辺りでいいですか?」
運転手がそう告げる。
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遠方から岩を
腐った床で転ばせる作戦、失敗。
「…………もうだめです」
そもそも、こう、罠とか張るのは苦手なのだ。それは射牒さんとかの領分である。私はお世辞にも手先の器用な人間じゃない。どちらかと言えば後先考えず突っ込んでいくタイプなのだ。それに足が限界に近い。いいかげんに走り回るのも疲れてくる。
そうして、追いつかれた。
「見ぃつけた。お姉さん、鬼ごっこはおしまい?」
どうする? こうなったら一撃で相手の意識を奪うしかない。だが、どうすればいいのだ。一瞬で勝敗を決するには、どこを殴ればいいのだ。人体の急所は分かるが、誤って殺すわけにはいかない。
私が師匠から教わったのは命の取り合いだ。制圧ならまだしも、反撃の隙を与えず意識を一撃で刈り取るすべなど門外漢も
「…………そうだ」
私の稀癌は全ての危険を感じ取るものだ。そこに制限などない。ならば、私にとって危険なものだけでなく、相手にとっての危険なものも感じ取れるのではないだろうか。
そうすれば、殺すことなく一撃で少年を昏倒させるにはどれほどの力加減でどこを殴ればいいのか、分かるはずだ。
稀癌は成長する。意識して行えば加速度的に。昔、誰かからそう教わった気がする。
そう、ならば、分かるはずだ。相手の認識を感じ取ればいい。
しかしどうすれば、自分以外の人間の感覚を認知できるのだろう。
喉元の辺りまで答えが出ている気がするのだが……。
ともかく、考える時間が欲しい。
「……あなたの忘れているものとは、いったいどういったものですか」
問いかけると、少年の動きがぴたりと止まった。
構えていたナイフを下ろし、思案するように頭が揺れる。
「なんだろう。わからないから、ここに来たんだ。ここに来ればなにかわかる気がして。そしたら、お姉さんがいた。お姉さんも、ボクの忘れているものに、きっと関係があるんだ。あるはずなんだ。どうしてかそう思う。
ねぇ、教えて。お姉さんはなんでここに来たの。お姉さんも、ボクと同じものを忘れてしまったんでしょう?」
ただの言葉に身体が揺さぶられる。
「……私が、忘れてしまったもの」
「そうだよ。思い出してみて。お姉さんを切り刻めば、誰かが教えて──止めてくれる気もするけど、お姉さん自身が教えてくれるならそれがいいよ」
「…………」
少年がなにを言っているのかわからない。
私が忘れている……。なにを忘れたというのだ。私は、私を襲うこの喪失感が、私の忘れているもの……。
言葉を失った私に、少年はなおも続ける。
「ボクは、何も思い出せないんだ。ちょっと前は、自分が何か忘れてしまっていることすら忘れてしまっていた。でも、何かが足りないと気づいたんだ。ボクの、きっと、とても大切なはずのもの」
そう、思い出せない。大切だったはずなのに。何を忘れてしまったのかすら、私にはわからない。
「ボクとお姉さんは似ているね。ボクは本当は、こんな力ほしくなかったんだ。前世なんて知らない。なにを望んだかなんて、今のボクにはなにも関係ないのに。これさえなければ、ボクは、もっと普通に過ごせたはずだし、もしかしたら、大切なものを忘れることもなかったかもしれないでしょう?」
そう、だ。私は望んで稀癌を得たのではない。稀癌がなければ、私は人の感情を理解できたはずなのだ。そうすれば母さんは、私に絶望しなくて済んだ。
「なぜかね、どんなモノでも切れてしまうんだよ、ボクの稀癌は。岩だろうと、壁だろうと、人間だろうとね。なんでも切る力を願うなんて、きっと前世のボクはろくでもない人間だったんだろ。そんな奴に押し付けられた力なんて、欲しくなかった。この力のせいで大切を失うのだとすれば、ボクはこの力を捨ててしまいたい」
前世の自分が何を望んでこの力が生まれたのかは分からない。けれど確かに、ろくな願いじゃなかったのかもしれない。危険を感知する力。まるで、自分だけ生き残ろうとしているような。
だから守りきれない。救えない。そうして、私達は失った。
失った……。いったい何を?
「ボクらには何も残ってない。一番大切なものを、失くしてしまったんだから」
ずっと大切にしてきたはずのもの。それはもう私の手元にはない。そう、もう二度と手に入らない。帰ってこない。残っていない。私には、何も……、残って…………。
「…………違う」
沈みかけた思考が浮上する。いつの間にか身体は震えていた。私の意思とは関係なく、身体の芯から震えていた。けれど私はそれを無視して言葉を吐き出す。
違う。私には残っている。
大切な物。
失いたくないと、感じることができる。
絶対に手放したくない人。
――――私には、更科君がいてくれる。
「……私とあなたは違う。確かに忘れてしまったかもしれない。けれど私は、自分の全部を失ったわけじゃないっ」
歯を食いしばって少年を睨みつける。少年は笑顔を凍らせたまま動かない。そうして歪んだ顔のまま、少年が叫ぶ。
「どうして、どうして、どうして! お姉さんならわかってくれるって思ったのに。ボクに、教えてくれるって思ったのに! ……やっぱり、切り刻むしかないんだね」
狂気に沈んだ少年がナイフを握り直す。
彼を引き上げるのは私の仕事ではない。
私は自分と、自分の視界に意識を集中させる。
一撃目を躱し、二撃目は腕をかすめた。少年の動きが止まったので私は斬れた部分を押さえて柱の裏に隠れる。そのまま少年の死角を利用して少し離れた。
肉を斬る高揚感のようなものからようやく抜け出した少年がまた動きだす。私は少年と反対方向に走った。階段を駆け上りしばらく走って立ち止まった瞬間、足に何かが当たる。見ると、それは無残に割れた私のスマートフォンだった。いつのまにやら最初に少年と顔を合わせた場所へと戻ってきたらしい。
屈んでそれを拾い上げる。液晶画面はもう使い物にならないが、電源は点いた。微かに表示される日付と時刻。そして、着信履歴。
三十分前に、更科君から連絡が入っている。
「…………あ」
なぜか直感した。更科君はここに来る。電話に出なかった私を心配して、息を切らせてここへ来る。
もしその時、あの少年と更科君が鉢合わせてしまったら……。
浮かんだ情景を頭を振ってかき消し、私はスマートフォンを投げ捨てた。
「……その前に、終わらせる」
大丈夫だ。私ならばやれる。相手にとってなにが危険なのかを見極めるのだ。
今の私にはできない。けれどすぐできるようになる。だって昔、練習したことがあるはずなのだ。
――――まだできないでしょうけど、とりあえず練習してみましょう!
誰かの無邪気な声が、音もなく脳裏に響いた。
身体がざわつく。胸の辺りは嵐のように。
これが人の言う激情というものなのかどうか、私には分からない。案外ただの体調不良かもしれない。けれど聴こえない声に励まされたのは事実だ。
さあ、顔を上げろ。心の準備は整った。
相対しよう。
これが決着だ。
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