『人生』

花祭暁平

『人生』


 金のかからない趣味を探し求めて、ここまでたどり着いたけど、こいつは何でも喰っちまう化けモンだった。

 作家の今村与一が、遺稿にこう書いていた。彼にとってそれは、彼を魅了した化け物であって、また人生だったのだろう。彼がしたためた作品で、世間に出回っているものは幾らかあるけれど、この遺稿に勝るものはない。何故ならこれは生きた作品であって、今でも生き続けているものだからだ。

 潮留春吉は、昔、とある出版社に新米として入った。全くもってこの業界を知らない男であったが、それは彼にとってはどうでも良いことだった。特に何のこだわりもなく、河川を流れる木の葉のごとく、毎日を流れるだけで心地よかった。そうしたトゲもなければ角さえない性分が、うまいこと彼の人生を回して、この度晴れて就職にも結び付いたというわけである。

「よろしくおねがいします」

 間の抜けたあいさつは、殺伐とした編集部の空気にかき消された。まあ無理もない。こういう業界はきっと、どこでもいつも忙しいものなのだろう、知らないけれど。どこ吹く風で部屋を横切り、自分のデスクに座るが、驚き桃の木山椒の木、彼のデスクだけ何も置かれていない。しかしそれを気に留める人間もいない。働きアリには、2割の働かないアリがいるのだと言うが、まさしく潮留くんは働かないアリであった。

 とは言うものの、全く働かないわけでもなく、時たま上司に呼ばれれば、某先生の原稿を貰って来てねと一言、時間通りにそこへ行くだけで良かった。今日はお昼過ぎに、どこそこへ行けばいいのかな。潮留くんはこれまた真っ白な手帳をめくって、薄い字で書かれた住所をなぞる。それじゃあそれまでゆっくりしよう。彼はデスクの引き出しをチョイと開けて、中から漫画雑誌を取り出した。

「おもしろいマンガは、どんな人が書いてんのだろ。小説書きは、いくらか見たけど。クセのある人はやっぱクセのあるものを書くのかしら?」

 ぺらぺらと雑誌をめくるが、まあそろそろ見飽きたものだ。先月号のこの雑誌を、何度ぺらぺらめくったか、わからない。今月号は、いつぞや発売かな、おや今日だ、買いに行こう。と言うわけで、潮留くんは立ち上がって、ぺらぺらのビジネス・バッグをひっさげると、殺伐とした空気の中を通り抜けた。

 外の空気は、排ガス混じりで悪い。シャバの空気は、とよく言うけれど、シャバにも汚い空気はある。特にこんなに詰まった街じゃ、仕方のないことかも知れないけれど。

「すいません、これ、ください」

「あいよ……」

 街に本屋は沢山あるけれど、たいてい、アニメだのマンガだの、可愛らしいキャラクターとかっこいいキャラクターに埋め尽くされて、潮留くんはあまり好かない気分であった。

「どこを見ても、こういう絵がいっぱいあるよなぁ。今の時代は、絵描きさんにはラッキーな時代なのかな?」

 そんなことも、ないだろうけれど。

「趣味と仕事は、違うもんなぁ」

 今日は日差しが強いから、少し屋根のあるところでコーヒーでも飲んで、ゆっくり買った雑誌を読もう、と腹に決めていた潮留くんだったので、とりあえず、そこらの喫茶店に入ることにした。

「コーヒー、砂糖とミルクもつけてね」

「かしこまりました」

 と言うわけで、潮留春吉の毎日は、こうして流れるわけである。現実には、あり得ないけれど。こんな男がいれば、あらゆるところから非難ごうごう、まあ殺されても文句は言えないだろう。法は許さないけれど。

 時が経つのは早い。万人に平等に渡されているように見えて実はそうでもないけれど、時間は潮留くんの場合でも問答無用で追い立てる。そろそろ、原稿を取りに行かなければならない。コーヒーの味は、今日もいつも通り。料金も、いつも通りだ。

 何々区、どこそこ町、そこらへん通りのあのアパート。そこに作家の家はある。潮留くんはコンコンと、小さなドアをノックした。

「どうも、アレコレ出版社です。原稿ください」

 鍵は、開いていた。

「開いてるじゃないですか。はいりますよ」

 しかし、シンと静まり返っていた。ひたひたと廊下を歩いていくと、どうも薄暗い。窓は締め切って、どこも電気は消えている。

「あれ」

 中は、もぬけの殻だ。作家先生はどこに消えたのか。首をかしげながらも見回ってみると、書斎を見つけた。机がぽつんとそこにいて、周りを本棚が、まるでボディーガードを務めているように立っている。机の上の書置きは、そっと一言「探さないで」。

「あちゃぁ、最近多いなぁ、こういうの」

 潮留くんは上司に電話を一本入れて、何やってるのと喝を入れられた。これはこれでめでたし、チャンチャンと終わればそれでいいのかも知れないが、実際、潮留くんにもノルマがあるわけで。お前それでは仕事にならんと言われてしまった。働かない2割のアリでも、流石に8割の働きアリに代わって働くこともあるそうだ。と言うわけで、潮留くんの次なる仕事は、出版業界の人間であれば誰もが頭を悩ます大物作家に会って、原稿を取って来ようというものだった。

「了解です。がんばります」

「頑張るのは当たり前だ、結果を出せ結果を」

「はい、がんばります」

 電話はそこで途切れた。

 大物作家とは、どんな人だろうか、と潮留くんは思った。軽く想像してやめた。

 街からそれなりに歩くと、もうそこは街じゃなくて、山奥だった。日は、暮れかけていた。

「やれ、疲れたけれど、ここかな。大きい家だなぁ。流石は、大物作家」

 大きな門の横に、チャイムのボタンがあった。鳴らしてみると、どなたですか、とはきはき真っ直ぐな声が聞こえた。

「アレコレ出版社です、どうも」

 あいさつも早々、大きな門がギギッと開いて、くぐり抜けるとそこは雪国、いやいや白いレンガの道が、豪邸に向かってどこまでも伸びる。庭には噴水があって、夏色の水を涼しげになびかせた。その近くの彫刻は、よくある神話とかに出てくる神様だろう。詳しくは知らないけれど。

「こんにちは。アレコレ出版社の潮留です」

 大きなドアに、あいさつをかますと、中から声を聞きつけて、ひとりの若い女性が出てきた。顔立ちの良い、なんともしとやかな娘さんだ。

「はい、何用でしょうか?」

「大物作家さんに会いに」

「大先生なら……今はお会いになれないかも知れませんが」

「外出中ですか?」

「いえ、家にいます」

「では、会えるじゃないですか!」

 潮留くんは、ずずいっと無理くり中に入ってみた。いちごのように赤いじゅうたんに、降り注ぐ雨のようなシャンデリア。内装は目に楽しい。

「いかにもな内装ですね、マンガとかでは見たことがあります」

「ちょっと、勝手に入られては困ります……」

「あ、あっちが書斎ですね」

 若い女性を気にすることなく、潮留くんはひとつの部屋へと真っ直ぐに進んだ。その部屋の入口に、大きく「書斎」と筆で書かれた立て看板があれば良かったのだが、そんなに都合よくはない。

「これは客間でしたね、失敬」

「ご案内しますから、縦横無尽に動き回らないでください。いいですね?」

「はい」

 潮留くんは、若い女性が怒っている理由について、全く思考を巡らせなかった。もっぱら壁掛けの絵が面白くて、それを見ていた。

「すいません、この絵はピカソですか? ダリですか?」

「それは知りませんが、大先生の居場所なら知ってます。ここです」

 冷たくあしらわれながら、壁掛けの絵と絵の間にあるドアの前に立たされた。ごゆっくりと一言、女性はどこかへ帰って行った。潮留くんは、絵の作者くらい教えてくれてもいいのに、と思った。

 コンコン。

「すいません、アレコレ出版社の潮留です。大先生に会いに来ました」

 中から返事はない。しかし、中から音がするので、もぬけの殻ではなさそうだ。

「大先生?」

 鍵は、かかってなかった。

「開いてるじゃないですか。はいりますよ」

 中に入ると、床中に紙が、クシャクシャに丸められて置いてあった。これは、原稿用紙だろうか。文字の海には、足の踏み場もない。赤いじゅうたんさえ見えない。

「うわぁ……えらいこっちゃ。あ、先生! はじめまして」

「おや珍しい、ここに人が訪ねるなんて」

 山に埋もれて、何かがもそもそと動き出した。人だ。髪もひげも真っ白で、まるで仙人のように見えた。潮留くんは床の原稿を蹴飛ばしながら、その近くまで寄ってみた。近くで見るとなおさら仙人のようだ。

「先生、原稿をください」

「そこらに捨ててあるから、好きに持っていきなよ」

「これ全部ですか? 流石に多いですよ」

「……冗談だよ。君は、まるで子どものようだね」

 それを聞いて、潮留くんは喜んだ。

「それほど若く見えると言うことですかね!」

 大物作家はうなった。

「うーんなるほど、これは凄いモンをオレに寄こしたね。君みたいなのは、小説の中にしかいないかと思っていたけれど。やれ、モチーフはやるから、さっさと新しいモンを書けと言っているのだろうかい?」

「それで先生、ウチの出版社に書いておられる原稿と言うのは?」

「いや、ないけれど」

「あれ、ないんですか?」

「というより、まだ作品が完成していないし、どこにあげるかも考えていないんだよ」

「そうなんですか、それは残念」

 潮留くんは、肩をがっくり落とした。大物の生原稿を、誰より先に見られるかもしれないと思っていただけに、少し残念だった。大物作家は咳ばらいをして、まあまあ、と慰めた。

「そう気を落とさんでくれ。しかし、ここに人が訪ねて来るのは、めずらしい。ゆっくりしていってくれよな」

 大物作家は机の上の機械に向かって、お茶をおくれと話しかけると、数分もしないうちにさっきの女性が来て、湯呑を2つ置いて行った。

「どれ、せっかく来てくれたんだ。オレと話でもしないか」

 潮留くんはうなずいた。

「少しなら」

「よしきた。そうこなくちゃあ」

 大作家はお茶をふたくち呑んだ。

「何か聞きたいことは?」

「壁掛けの絵は、ピカソですかダリですか?」

「ん、泣く女はあるが、大半はベクシンスキだよ。オレはベクシンスキが好きでね」

「むずかしいことをお話になりますね」

「いや、ただの人名だよ、キミ。ベクシンスキを知らないかい?」

「しりません」

「そうかぁ……まあ、彼の絵は人を選ぶかも知れないね」

「でも、おもしろい絵でした」

「そうか、そいつは良かった。ベクシンスキに伝えたいね」

「ええ、とても」

 潮留くんはそこら辺に捨ててあるくしゃくしゃの原稿を取って、ペンでメモした。ベクシンスキ、覚えてたら調べよう。

「悲しいかな、今の時代、作品は知っているが作者は知らない、といったことは往々にして起こりうる」

「泣く女はピカソですよ」

「有名なヤッコさんは、いいのさ。オレの名前は知ってるかい、キミ?」

「いいえ」

 大物作家はハッハと笑って、お茶を呑みほした。

 潮留くんはそわそわと、部屋の奥を見た。大物作家の今までの著書が並んでいる。とても薄い、短編集と書かれたものが左側に並んでいる。

「先生は、短編を書いておられる?」

「ああ、昔はね」

 今度は、葉巻に火をつけた。潮留くんも、負けじとタバコを出した。

「どれ、昔話でもしてやろ」

「ももたろう?」

「いや、オレの昔話だよ……。さて、何でオレが小説なんか書いてんのか分かるかい」

「しりません、教えてください」

「諦めが早いね、けっこう。ガキの頃の話だ、オレん家は貧しかった。衣食住はやっとこさで、何とかなってたが、遊ぶものがなくてな。暇だったんだよ。そこで目をつけた、これにね」

 大物作家は、今書き途中の原稿を掲げた。

「ああ、紙と書く物さえあればできますものね」

「文字書きは苦手だったが、まあオレが楽しむんだ、下手で上等」

「それで、気づいたら大物作家になっていたと」

「ま、そんなもんだ」

 大物作家の顔はほころんだ。窓の外は夕暮れる。切れそうな電球の太陽が、地平線に捨てられようとしていた。すこし涼しい。

「金のかからない趣味、その中では、オレはこれが性に合う。だが、こいつはおそろしい化けモンだったんだよ」

「怪談話にはまだ時期が早すぎますよ」

「ま、意味合い次第によっちゃ怖い話だな」

 潮留くんは眉をひそめた。

「なぁ、物書きの道は、迷いの森だ。進んでも進んでも、森の終わりは見つからねえモンで。たまに寄り道したり、空に飛びあがってみたり、後ろに進んでみたりする。それでも、森に終わりはねえ。一歩踏み込めば、そいつを喰っちまう森なんだ」

「金がかからない上にいつまでも続けられるってことなら、いいことじゃないですか」

「ま、金はかからねえがよ……」

 後はお茶を濁して、大物作家はだまった。潮留くんは、ずっと模索した。物書きの森に終わりはないけど、出られはしないのかな。

「あの、迷いの森は、いつか出られますか」

「ん、簡単に出られる方法は、あるんだよ」

「それは?」

「歩くこと、やめりゃいいのさ」

 その顔はいっそすがすがしかった。潮留くんは、ありがとうございましたと一礼して、その日は帰ることにした。上司に電話したら、お前にしては上出来だとほめた。うれしく思って、その日は良い夢を見た。

 翌日、背広のポケットの中に、丸まった紙を見つけた。ベクシンスキと書いてある。ああ、昨日メモした紙だ、忘れてた。潮留くんはその紙を広げ直して、何となく中身を見た。

「お、これは、すごい!」

 その原稿用紙は、右下に小さく、ページ数が記してある。

 これは38万5829ページ目の原稿だ。ボツにはなっているけれど。

「終わりは見えないってそういうことかぁ」

 潮留くんはまた、大物作家の家へ道を辿った。途中、いつも通りのコーヒーを飲んで、いつも通りの料金を払いながら。

「こんにちは、アレコレ出版社の潮留です」

 門をするりとくぐり抜け、すると大きなドアからまた、若い女性が現れて言った。

「今日もですか。大先生の原稿は……」

「ええ。終わってない」

 潮留くんはひょひょいとすり抜けて、中に入った。ベクシンスキの絵は、今日見ても面白い。女性はうんざり顔で、エプロンをギュっとつかんだ。書斎への道のりはたやすい。

「今日も来ました」

「ん? やあ、キミか。熱心だね」

 大物作家の部屋は、昨日より散らかっていた。

「先生、38万ページ目の原稿を、昨日は持って帰ってました」

「まあ、ゴミだからそれはお好きにどうぞだけれど」

「今書いておられる作品、38万ページもあるんですか」

「まだ書くよ。それじゃ少ないくらいだ」

 潮留くんはまた、大物作家の後ろの書棚を見上げた。

 左から順に短編集、しかし右に行けば行くほど、本は分厚くなる。一番右になれば、辞書の3倍あろうかという厚さの、上中下巻だ。昨日は特に気にもしなかったが、どうやらこの作家の作品は、年々長くなってきているらしい。そりゃ、誰が原稿を取りに来たとして、いつだってまだ作品は出来上がってないわけである。どおりで出版業界泣かせの作家なわけなのだ。

「先生、最後に出した作品は?」

「ん、それだ」

「これは、いつですか」

「30年前」

「では、今の作品は、30年前から書いてらっしゃる?」

 大物作家はすこし間をおいて答えた。

「いいや、オレは30年前からだが……この作品は、実はオレのモンじゃないしなぁ。オレの先生の作品だよ」

 潮留くんは、冗談と笑った。大物作家は、冗談に聞こえてもなお本当のことだよと答えた。

「先生の先生の作品を、先生は書いてらっしゃる?」

「よくよく言えば、オレの先生も、オレの先生の先生から作品を継いでるのさ」

「それはなんとも、むずかしいお話をしてらっしゃる」

「オレの先生の先生もまた、先生の先生から遺稿を継いで、そんで次のやつがつぎ足す形で作品を書いているんだが、オレの書き分が今38万ページまで来たわけだね」

「むずかしいお話をしてらっしゃる」

 大物作家はハッハと笑った。

「いったいそんなに、何を書いているんですか」

「ん、なんでも書くよ。とりとめもない話題を書く。家の女中が怒ってるさまでもいいわけさ」

「そんな、ありふれた日常を書いてるんですか。大作だと思ったら、そうでもなさそうですね」

「大作だよ。オレや、先生たちが書いてきたこれは言わば日記のようなもので、オレらが生きている“今”を描いている。そういう意味では、ありふれていることしか書いていないが、つまり、“今”は途絶えることはないんだ。“今”を書くには、38万ページじゃまだまだ。先生の先生の先生の先生から続いてたって、まだ足りないだろうよ」

「足りないというよりかは、終わらないだけですよね」

「ああ、単純に言えばな」

「タイトルはなんですか?」

「ん、『人生』だよ……」

 それから数年の後のこと、その大物作家は亡くなったらしい。原稿用紙の山の中で、ある日こと切れていたと女中が語っているそうだ。その顔には、無念の情をたたえていたという。

その頃、潮留くんは、コーヒーを飲みながら、喫茶店のテレビを見ていた。

「作家の若林与兵衛死す、かぁ。最近よく人が死ぬね。この人、どんな作品書いてたんだろう」

「ええ、若林与兵衛ですか。私もよく読みましたよ」

 マスターが、懐かしんで言う。

「なんて作品ですか?」

「ん、確か、『泣く女』。結構長い作品ですが、彼の日常描写は巧みですよ」

「へぇ、泣く女、かぁ」

 ひとくち、コーヒーをすする。いつもより苦いような気分がした。

 やがてニュースは切り替わって、世紀の発見、中東遺跡で古代文書出土、という話題になった。

「世紀の発見か、やれ、大げさだなぁ」

「ええ、でも、世界最古の小説かもって話ですよ」。

「へぇ! そんな昔から小説を書いている人がいるんだな」

 潮留くんは感心して、コーヒーを一気に飲みほした。空は夕暮れて、すこし涼しくなった。そろそろ帰ろう。

「じゃ、また来るよ」

「はい」

 コーヒーの値段は、最近、いつもよりすこし割増になった気がした。まあ、特に気にもとめないけれど。帰りがけに文具店によって、原稿用紙を買う。ちょうど、切らしてしまっていた。

「よし、今日も少しずつ、頑張ろうかな」

 家に帰って、潮留くんは書斎の机に居座った。

「うんと、『今日はコーヒーがいつもより濃くて、すこし値段も高かった。美味しくなった分、高くなったのだろう。それから――』……後は、何を書こうかな。そうだ、最古の小説!」

 テレビをつけてみると、夕方のワイドショーでもすこし取り上げられていた。

『今日は専門家の荒屋先生をお呼びしています』

『どうも、どうも』

『今回の文書出土、研究の上で大きな進歩に繋がるんじゃないですか?』

『ええ、何せ、最古の文学作品であって、内容もまた、当時の生活を如実に書き表している、そんな作品なんですよ。ジャンルで言えば、随筆とか、あるいは日記と呼んでも差し支えないような――』

『なるほど、今回は、多くがまとまった状態で出土したんですよね』

『はい。なんと、タイトルまで分かっているんですよ』

『ほう! 最古の作品、そのタイトルとは?』

『ええ、それは――『人生』、だそうですよ』

『人生! それはまあ、大作ですね。作者もまた、大きく出たなぁ。というか、書けるんですかね、人生なんてでっかいもの!』

 潮留くんは原稿用紙にペンを滑らせながら、ニコニコ笑った。そっか、『人生』か。今でもそれは、生き続けていることを知っている。終わりはまったく、見えないのだけれど。

 潮留春吉、またの名をペンネーム今村与一は、やがてその遺稿に、こう記している。


金のかからない趣味を探し求めて、ここまでたどり着いたけど、こいつは何でも喰っちまう化けモンだった。先生はこう言った。名前も知らない先生だけれど、それは的を射ている発言だと思う。また、物書きの道は迷いの森だとも言っていて、踏み込んだ人を喰ってしまう、つまり、彼はこう言いたいのだ。それは『人生』を喰うんだと。ただ、その森から出るにはただ歩くのをやめればいいらしい。でも、誰かが歩みを止めたって、森は生き続ける。なぜなら、他の誰かがまた、歩みを進めるんだから。

――今村与一著、『名もなきベクシンスキに宛てて』より。

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『人生』 花祭暁平 @HANAMATSURI

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