私たちの森
古田 沢音
明け方に、よく夢を見る。
やわらかな光に満ちた、春の森にいる夢を。
私はいつまでも少女のままで、デイジーと呼ばれている。
いとこの女の子といつも一緒。彼女はスミレと呼ばれている。
私は黄色いワンピースを、スミレちゃんは青いワンピースと空色のカーディガンを着ている。私たちのおばあちゃんは、森の花と、空から、布を分けてもらうのだと言っていた。森の中の丸太小屋で、暖炉のぬくもりを感じながら私たちは髪を梳いてもらい、背中でおばあちゃんの声を聞く。
ユングフラウによろしくねえ、と。
おばあちゃん手作りの服を着て、デイジーとスミレちゃんは森を歩く。
さくさく、さくさく、と草を踏む。己の髪に合わせて選んでもらった黒い靴が草に埋もれていく。
私は現実世界の悲しい気分を引きずって、べそべそ泣いては立ち止まる、そんな日だった。黒い靴と一緒に心も埋もれて、草の塊にひっかかって――
スミレちゃんが口を開いた。
「こういう時こそ、おばあちゃんのおまじないを試す時じゃないかしら」
空色のカーディガンの肩で赤い髪が揺れた。髪とおそろいの煉瓦色の靴が、ひらりと方向を変えた。
スミレちゃんは私の手を引いて森の奥に分け入っていく。ユングフラウの花、どこだったかなあ。スミレちゃんの声が木立を駆け巡って、やがて降ってきた。足元を見て歩いていた私と、木を見上げて歩いていたスミレちゃんが、同時に声をあげた。
木から垂れ下がる蔓が細かく枝分かれし、枝の先で濃い緑色の葉に囲まれて、花が咲いている。
八重の花びらは白いけれど、夜になると青く光るのだとおばあちゃんは言っていた。落ちたものも光るのだろうか。夜の森を見たことがないのでわからない。
スミレちゃんはユングフラウの花を蔓の先から折り取った。花びらが重なってふわふわの球のようだ。手のひらに載せて、森の中を再び歩き出した。気づけば周りはユングフラウの花でいっぱいだ。
「ねえデイジーちゃん、おまじないの言葉、覚えてる?」
「たぶん、覚えてる」
「よかった」
私もスミレちゃんも、その場所に初めて来た時とても眩しかったのを覚えている。透けて見えるような、見えないような、不思議な水色が目の前いっぱいに広がっていた。
淡い水色に輝くそれは、大きな大きな石だった。おばあちゃんは《泉》と呼んだが、泉というより幅の広い滝に近い――私は「壁」だと思った。
薄い長方形の板が無数に集まって、地面から顔を出し、斜めに伸びて、空に広がって、気まぐれに形をなしたように見える。長方形の板のでこぼこが光を跳ね返して、あちらこちらできらきら光る。結晶の内側でも光が跳ねて眩しいのだった。
広がった結晶は、まるで地面に止まった蝶のように、天のほうで二枚重ねになっている。スミレちゃんは二枚重ねの隙間に花を投げ上げて、私の黄色いワンピースの端を、指先でつまんで引いた。私は口の中を湿らせて言葉を転がした。
ユングフラウ、ユングフラウ、森の端からおたよりします。
ユングフラウ、ユングフラウ、どうかお納めください。
結晶の内側で跳ねる光が一瞬、水色の光の束になったかと思うと、白い花は光に乗って結晶の中を駆け下っていき、地面の下に姿を消した。
「……これで、よかったのかな」
「……デイジーちゃん、まだ、悲しい?」
ううん、と返事しようとして目を開けると、夢の世界は消えていた。
布団の中でぽっかりと浮かぶ私は、すっかり元通りだった。
以来、悲しいまま眠ってしまうと、あの森の夢を見る。
逆にスミレちゃんがしょんぼりしていて、私がスミレちゃんのためにユングフラウの花を投げ上げる日もあった。地下のユングフラウは、八重の花びらにくるまれたおたよりを何通受け取ったのだろうか。私たちは重苦しい感情をあの花に何度乗せたのだろうか。
もちろん、お互い何でもない日にも森で遊んだ。ユングフラウの花と、黄色く枝垂れるミモザを編んで花冠にして《泉》の前で踊る。これもまたおばあちゃんから教えてもらったおまじないのひとつだった。踊るとおなかの底がぽかぽかと温かくなり、森の木が涼やかに香った。
ある日、夢の中の丸太小屋の暖炉の傍で、おばあちゃんが息を引き取った。
そこからどうしたのか覚えていないが、次にスミレちゃんと会った時も、丸太小屋におばあちゃんはいなかった。暖炉の火は消え、小屋の中は真っ暗。私たちは小屋を出て、悲しくて一緒に泣いた。もう暖炉の前で髪を梳いてもらえないし、新しいおまじないも知ることはない。
スミレちゃんはおばあちゃんの繕ってくれた水色のカーディガンの袖で、涙を拭いた。
「こういう時こそ、」
「おばあちゃんのおまじないを試す時じゃないかしら」
私たちは顔を見合わせた。
私が花を摘み、スミレちゃんが投げ上げた。二人で一輪の白い花を見上げ、一緒に同じ言葉を唱えた。
ユングフラウ、ユングフラウ、森の端からおたよりします。
ユングフラウ、ユングフラウ、どうかお納めください。
光が水色の束になったのを私たちは見た。けれども花は途中で止まり、光が元に戻っても、そこに留まっていた。花が地下のユングフラウのもとに駆け下ることはなく、私たちの呟きが草の先で跳ねて落ちた。
「どうして」
二枚重ねの結晶の隙間にひっかかったのだろうか。手をつっこんだら取れるだろうか。それとももう一輪摘んできて、もう一度試してみようか。私たちが相談を始めたら夕暮れが来て、あっという間にあたりは暗くなった。
薄暗いけれど、ほの明るい。
ユングフラウの白い花が青白く光り始めたのだった。森の奥でも、すぐそこでも。地面に落ちた花も――そうか、地面に落ちても光るのか。
あ、と隣に立つスミレちゃんが空を見上げ、指さした。
「一番星みたい」
色を失って黒く沈む《泉》の中で、ひっかかったままの花が青白く光っていた。結晶の間で光が反射して、反射した光が瞬いて見える。
唐突に「おばあちゃんはお星様になった」というフレーズが浮かんだ。
《泉》の中で星のように存在していてくれるなら、心強いことはない。……何が? おばあちゃんが?
「これで、よかったんだよ」
ふうっと息をついて、私は言った。
「悲しくても、ユングフラウに委ねなくて良かった。これで、よかったんだよ」
悲しい思いは、悲しいままで。大好きなおばあちゃんを悼む気持ちは、自分たちのものだ。抱えていけばいい。誰かに委ねるのではなく。
森にそびえる《泉》の空に、おばあちゃんを失った私たちが、悲しみを掲げた。私たちの森では、これもまた、おまじないとして正しく成り立っている。
「うん、デイジーちゃん、お弔いが済んだ気がするよ」
スミレちゃんも、薄闇のなか頷いた。
「悲しいけれど、区切りはついた」
おばあちゃんのいない森で、白い花を吸い込んだ水色の《泉》は、いまでも夜になると青白い光を灯すのだろうか。
夢から覚めたあの日以降、デイジーは私たちの森にたどり着けなくなった。けれどスミレちゃんと手をつないで歩いた森の色や《泉》に灯った花の光は、消えず私の胸に残っている。
私たちの森 古田 沢音 @sawane_f
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