青空のカケラ

月波結

ある晴れた日のこと…

 空は晴れていた。完璧な青空だった。そこには雲ひとつなく、どこまでも真っ青な空がガラスのように張りついていた。

 ところがそのガラス天井のような青空はまるで、元からガラス張りだったかのように突然、天頂からガチャーンと派手な音を立てて呆気なく割れてしまった。

「うわー!」

 人々はまずその音に驚き空を見上げた。空から大量のが降ってくる。それはキラキラと光を乱反射させながら恐ろしい勢いで地上目指して飛び散った。まるで落ちてくるシャンデリアのように。

 空を見上げ状況を察した人々は逃げ惑った。

 走る人、立ちすくむ人、しゃがんでしまう人。「うわー!」「きゃー!」悲鳴があちこちから上がる。中には呆然とただ空を見上げている人もいる。すべてを投げ出して逃げることをやめたのか。

 ――もうダメだ。

 事の成り行きをこれ以上、正視するのは耐えられなかった。だって、あんなにたくさんの破片が一斉に降り注いだら…。顔を両手で覆って、目を固く瞑った。


 わたしはそれをオフィスビルの室内から見ていた。今日も午前中に契約が取れなくて課長に小言を言われ、窓際でため息をついて交差点を眺めていた。そうしたら前触れもなく空が割れた。駅前の大きなスクランブル交差点の歩行者用信号が一斉に青に変わったときだった。開けた交差点に歩き出すたくさんの人たち。

 

 空は鋭く割れたガラスの破片のように、情け容赦なく地面に降り注ぐ。目を瞑っていても音が否応なく知らせてくれる。ザザザザッ、ガシャン、ドーン…。たくさんの悲鳴が上がり、一瞬で悲鳴は沈黙に変わる。


 ここで世界が終わるんだ。


 物凄い恐怖がわたしを圧倒し、その考えがわたしを縛りつける。窓に背を向けて、そのままの姿勢でずるずると座り込んだ。社内にいた他の人たちの中には、慌てて帰っていく人もいた。きっと家族の安否が心配なんだろう…。わたしはもう、怖くて怖くて、足に力が入らない。

 なんで今日、いきなり世界が滅びちゃうんだろう?まだずっと憧れてたあの人に、何も言ってない。短大のときに知り合ったあの人。今でもたまに飲みに連れて行ってくれる。いつか、もうすぐ、わたしの気持ちを伝えたいと思ってたのに…。

 急いで救急車を呼ぶ人、または家族に電話をする人。…わたしも連絡をしたい。でも、スマホを持つ手が震えてとても操作出来ない。何回タップしても、間違ったところに指が触れてしまう。


 少数ながら血まみれの人がゆらゆらと体を揺らしながら、交差点から建物の入口に歩いていく。生きていると言えるのかしら、というほどひどい傷の人もいる。スプラッタと言ったら不謹慎かもしれないけれど、とても助かりそうにない人々。呼んでも救急車が果たして来るのだろうか?


 一体、何が起こったんだろう?

 さっきまで何事もなくよく晴れて平和な日だったのに…。


 砕け散った、天井を失くした空の向こう。震えながら見上げると、何かがそこに現れる。陽炎のように揺らめく巨大な黒光りする円盤状のもの。それはユラユラとした陽炎から、次第にその輪郭をハッキリしたものに変えていく。

 ゴォォォォ…。

 地鳴りのような重低音。交差点を見ていた人も、交差点を歩いていた人も、同じように空を見上げた。

 ゴゴゴゴゴ…。

 何?あれは何 ?

 たぶん、映画でしか見たことの無いものだ。巨大なソレは空の真ん中に浮かんでいた…。黒光りするその丸い何かは、いわゆるソーサー型の空飛ぶアレでしか有り得なかった。ちょうど交差点の真上に浮遊して、実にゆっくりと回転している。止まりそうで止まらないハンドスピナーのように。慌てるわたしたちを嘲笑うかのように、ゆっくりと。そう、ハリウッド映画で大都市上空に現れるアレだ。

 思わずポカンと眺めてしまった。だってそれは、もう地球の滅亡寸前てフラグ立ってるでしょ?わたしなんかにできることなんて、何も無い。…そう思うと悔し涙がこぼれてくる。

 オフィスに残っていた少数の人たちはわたしと同じく、絶望しているようだった。誰も何も言葉を発することができないほどに。


 こういう場合、自衛隊とか?米軍とか?あるいは政府の人が交渉を試みてくれないのかしら。映画だと地球外生命体と交信したりしてるじゃない?そういうのための対策はないわけ?何もしてくれないのなら、あの危機対策管理に費やしてきた分の税金は返して欲しい。…なんて場違いなことに憤る自分がおかしい。


 今日で何もかも終わってしまうなら、今まで積み上げてきたわたしの人生の意味はなし崩し的に無くなってしまう。まだ結婚もしていないし、子どもも産んでいない。わたしと保険の契約をしてくれた人の保険金だって、こういう場合は支払われないだろうから、彼らがこつこつ積み立てたお金も意味がない。それと同様、人類がこれまで築き上げてきた文明という名の積み立ても意味がなかったんだ。

 物心ついた頃の朧気な記憶、小中高と仲の良かった友達の顔、それから、上手くいかなかった恋。意味もなく思い出されて、ああ、本当にもう死ぬんだな、と覚悟を固める。あがいても逃げ道は無い。


 巨大な黒い浮遊物の真ん中に赤く光っているところがある。きっとあそこから何かよくわからないけどエネルギーの塊みたいなものが発射されるんだな。マグマのように、線香花火のあの赤い塊のように、どくどくと脈打ってそれは大きくなっているようだ。もし二発目を撃たれたら、屋内にいても無事というわけにはいかないだろう。屋内だからといっていつまでも安全ではないはず。ほとんどゼロ距離射撃だもの。

 いっそスマホで動画撮ってネットで流してみようか…ニュースでもよくある感じの。それともインスタに上げてみようか、あの円盤を…。そんなことをしても、何にも意味が無いように思えた。そんな気力もないし、それに、既にアレは世界中のマスメディアに注目されているに違いない。わたしのすることはやはりただ奪われるのを待つことだ。この、些末な生命を。


 そのとき、

「まだ諦めるな!生きてるんだから!」

 と誰かが叫んだ。ゆっくりと目を向けると、それはわたしと毎月、営業成績の最下位争いしている冴えない、森下クンが出した声だった。森下クンは何故か課長の机の上に仁王立ちして、凛とした顔をしていた。その瞳は決意に満ちている。…森下クン、いつもあんなに冴えないのに、わりと熱血漢だったんだ…。飲み会に行ってもすぐに赤くなっちゃって、既に出来上がってる先輩に「何だよオレの酒は飲めないのかよ」と当然のごとく絡まれる森下クン。前日の営業が悪くて、毎朝課長の机に呼び出される森下クン。そしてそんなとき、彼はいつもにこにこと気弱そうに笑って何かが行き過ぎるのを待っている。彼は一体、どうしちゃったんだろう?やけになっちゃった?彼の本音が読めなくて、ちょっと同情的な視線で見てしまう。

 他の人たちも驚いた顔をして彼を見上げている。いつも朝からカリカリして大きな声で営業成績の数字を吠える課長の机の上。当の課長は家に帰りそびれたらしく、床にへたりこんで森下クンを見ていた。


「みんな、まだ諦めないでください。ボクは仕事が確かにできないから信用できないと思うけど。宇宙人の地球侵略ものの映画は人より数見てるし、そういうストーリーのゲームは飽きるほどやったんだ」

 …なるほど、成績が伸びないわけだ。

「だから。できることを諦めないでやってみましょう!具体的に言うと、このビルから出て、逃げます。ここがいつまでも安全とは限りませんから」

 この絶望的な状況の中でなぜか異様にキラキラ輝いている森下クンに注目が集まる。「マジかよ、森下…」

「そんなことできるの?ここにいた方が安全じゃない…?」


「さらに具体的に言うと、このビルの入口に一番近い地下鉄に逃げます。これはその手の作品ではテッパンです」

 えへん、と言いそうな勢いで森下クンは胸を張って言い切った。その手の作品て言われても…。

「日本には残念ながら有事に備えたシェルター施設がありません。だから、地下鉄に下りてシェルターの代わりにするんです。そういう映画もマンガもゴマンとありますから心配しなくて大丈夫ですよ」

 彼はそこまで言うと、にこり、と仕事の時には見せない人懐こい笑顔を見せた。


 何もせずに死にたいという人はいないもので、皆、俯きがちにのろのろと立ち上がる。そして森下クンの顔を見上げる。

「いいですね、皆さん!決して諦めないこと、これが肝心です。これはゲームの中でもノーコンティニー条件のミッションです。つまり小さなミスが命取りになります。判断を誤らないよう慎重に、かつ迅速に進みましょう」

 森下クンが拳を振り上げると、なぜか皆さんがそれに応じて、「おー!」と掛け声を上げた…。森下クンのカリスマと人望、今まで見誤ってた。


 森下クンが簡単な指示を出す。ハイヒールの人は出来れば逃げやすい履き物に履き替えること。不必要なものは置いていくこと。ただし、思わぬものが役に立つことはあるということ。女性や、足腰が弱っているような人を優先すること。わたしも急いでハイヒールを脱ぎ捨てる。室内履き、オシャレなサンダルとかにしなくてよかった。

 次に彼が腕を振り上げてさっとドアに向かって指さすと、みんなが訓練された兵士のように無駄のない動きでドアへ向かった。


 さて、いざ行動となった。

 彼はオフィス入口付近で皆を指示し、皆は生命がかかっているせいか乱れることなく訓練された部隊のように素早く階段へ向かった。幸いうちのオフィスは六階という微妙な高さだったので、混乱さえしなければ降りることはできそうだ。ただ、その後ビルの外に出ることを考えるとどうにも気が引けた。あの巨大な浮遊物が今にも攻撃してくるかもしれないし、そうじゃなくてもさっきの攻撃で血まみれで倒れている人の山を越えていかなければならない…。考えるだけで泣きたくなる。気がつくと森下クンがわたしの後ろからそっと肩を叩いて、

「川西さん、大丈夫ですよ。混乱したら負けです。ボクを信じて」

 と声をかけてくれた。そうだ、ここがきっと踏ん張りどころ。自分の生命は自分で守らなければならないから。

「皆さん、入口まで到達したら少し待っていてください。タイミングを計って外に出ます」

 カリスマ森下クンがそう言うと、皆が一斉にうなづいた。緊張した皆の視線が森下クンに集中する。


 彼は入口に慎重に近づいた。交差点から逃げて飛び込んできた人が少数、傷だらけで倒れている。彼はそういう人たちにも腰をかがめてそっと、

「大丈夫ですよ、きっと助けを呼んできますから」

 と微笑んだ。その言葉だけで、その人たちの緊張は少しだけ和らいだようだった。

 そして立ち上がると、あの交差点を端から端まで見回しているようだった。

「皆さん、交差点は倒れている人々がいる以外はまだ安全なようです。円盤からも今すぐの射撃はありません。まだ、エネルギー補填中です。目指す地下鉄の入口は、ご存知だと思いますが交差点を右斜めに渡ったマックと牛丼屋のところ。そこまで振り向かずにまっすぐ走ります。質問ありますか?」

 皆は何も言わず、「了解」の意味を込めてうなづいた。

「もしもに備えてカバンは頭の上に。防災頭巾の代わりです。…それでは3カウントで飛び出します。課長、先頭を頼みます。ぼくは最後尾から行きます!」

 さっきまでオロオロしていた課長が急に仕事を与えられて自分の職場での立場を思い出したらしく、

「皆、ここを乗り切ろう!」

 と喝を入れた。気がつくと周りの人たちの目は、今までに見たことがないほど真剣だった。


「スリー、ツー、ワン、走れ!」

 森下クンの指示で一斉にビルから飛び出す。怖い、怖い、怖い。たくさんの死体が怖い。あの円盤が怖い。…死んじゃうのが怖い。

 泣きたくて泣きたくてどうしようもなかったけど、森下クンが背中に手を添えてくれる。彼の顔をちらりと見ると、やさしい目で「大丈夫」と語ってくれた。走るしかない、生きるためには。


 息が切れて、地下鉄の階段を下りるのに膝が笑ってしまう。結論から言うと、『すごい怖かった』。交差点を渡るあいだ、何人もの人を飛び越え、跨いだ。転びそうにもなった。亡くなった人の荷物や体の一部を踏んでしまったりもした。謝っても謝りきれない。申し訳なさでいっぱいだった。その度にわたしは「ひっ!」と小さく叫んだりしたけど、並走する森下クンが、

「気にしない」

 と言ってくれた。そうだ、平常心。森下クンもビルから出る前に、慎重にって言ってたもの。

 そうしてなんとか我々、社内に残っていたメンバーは全員、地下鉄駅の構内に入ることができた。そこにはわたしたちより先に逃げてきた人もいた。震えて肩を寄せ合う親子やカップル。小さな子は、起こったことの大きさがまだわからないみたいでお母さんの腕の中で大きく目を見開いている。そして決して膝から降りようとしなかった。

「ボク、交差点の向かいにあったマツキヨ見てきます。できたらコンビニも。どなたかエコバッグみたいなもの、持ってたらお願いします」

 ハッとなってわたしは自分のカバンの中をゴソゴソ探る。お買い物用の、百均で買ったエコバッグが2枚も出てきた。

「川西さん、ありがとう。助かるよ」

 わたしも役に立ったことがうれしくて、ほっとする。もちろんわたしだけじゃなくて、何人かの人が袋状のものを渡していた。

「ぼくも行くよ」

 営業課のホープ、樋内くんが立ち上がった。さすが体育会系、息の乱れもない。

「樋内、ありがとう」

「あの、ぼくも行きます」

 いつでもマイペースで笑顔がトレードマークの癒し系、坂口さんも手を挙げた。

「助かります。じゃあ、行きましょうか」

「森下!」

 突然、課長が大きな声を上げる。バツの悪そうな顔をして、森下クンと目を合わせられないみたいだ。

「その…今まで悪かったな。何だか今、謝っておかないといけない気がしてさ。とても感謝しているよ…。お前が戻るまで、こいつらはオレが責任持って守るから…よろしくな」

 課長は森下クンの肩に手をかけると、彼の顔をじっと見た。

「全部終わったら、お前の査定、上げてやるから無事に戻れよ」

「はい!今期以降もよろしくお願いします」

 彼は笑顔で樋内くんと坂口さんを連れて行ってしまった。場は、一気に緊張が解けたようだった。肩の力が抜けた。こんなに何かに一生懸命になったことって今までなかった。まさに、『一生懸命』。課長がわたしの隣に来て座り、

「川西もよくがんばったな。お前、体力無いのに偉いよ」

 と頭をポンポンしてくれた。

「俺にはお前と同じくらいの娘がいるんだ。まだ大学生だが、無事だといいんだがな…」

 わたしも自分の家族に思いを馳せる。父さん、母さん、おばあちゃん、お姉ちゃん、お義兄さん…。それからかわいい姪っ子の杏奈。うちは地方だから、この騒ぎに巻き込まれてないといいんだけど…。


 ブルブルブル…。

 皆のスマホが一斉に振動した。政府のアラートが今更、鳴った。メールで届いた内容は、『政府が今回の件に対して緊急対策委員会を設けたこと。被害があったのは主要都市のみであり、詳細は不明であること。米国と協議中であること』だった。予想はしていたが、実家は田舎なのでたぶん大丈夫。ちょっとだけほっとする。


 次の攻撃が、行われるのかな…。地下にいてもやっぱり危ないんじゃないかな。


 悪い方に悪い方に、黙ってると考えが偏る。仕事は営業成績で足を引っ張ったら辞めることで償えるけど、今回はそういうわけには行かない。皆の生命がかかっているのだから、ミスは許されない。気持ちをしっかり持たないと。

 体育座りでじっと固まっていると、森下クンたちが荷物を持って帰ってきた。皆の目がパチッと開いて、森下クンに集中する。やっぱり皆だって同じように怖いんだ…。

「無事に戻りました」

 息を切らした森下クンは笑顔で告げた。

「えっと、お店の方も逃げたみたいでいただいちゃったんですけど…ボクたちだけじゃなかったんですがね。カロリーメイトみたいな保存のきく栄養食品と、飲み物、それから救急用品、懐中電灯とあと、スマホの充電池、持ってきました」

「おおー」

 と小さな賞賛が捧げられる。

「いやー、ハリウッドの映画で主人公が電気屋で充電池、盗むってシーンがあったの思い出して」

 彼はにやりと笑った。イタズラっ子のように。皆も心なしか少しだけ空気感が変わって、休憩モードにようやく入ったように見えた。

「それから、アラート入りましたね。地上の方が電波がいいと思って、動画とか見てきたんですけど…実はワシントン上空にここのよりずっと大きな円盤と船団が来ていて…」

 一気に緊張が走る。あれより大きなって…想像もつかない。しかも、他にも小さいのが飛んでるってこと?

「ワシントン以外の、世界中のあらゆる規模の大きな都市の上空には、ここと同じものがいるみたいです。被害も同じですね」

 沈黙。それって、どれだけの生命が奪われたってこと?また手に震えが走る。それを見た隣の課長が、わたしの手に自分の手を添えてくれる。本当に、お父さんみたいな手だった。大丈夫だよって、無言で伝えられているみたいに。

「それで?これからどうなるの?他の都市は二度目の攻撃を受けたの?」

 成績女性トップの安藤さんが大きな声で発言した。さすがだ、わたしと違って気丈なんだな。出来る人は違う。

「いいえ、まだ他の円盤も二度目の攻撃はしていません。今、どうやらワシントンの母船とアメリカ政府が話し合っているみたいです」

 わたしたちだけじゃなく、周りの避難していた人たちもざわめいた。

「まぁ、アメリカにはエリア51もあるし、きっと何らかのアクションがありますよ」

 なんとなく説得力に欠ける気もしたけど、樋内くんが後を継いだ。

「ぼくのアメリカの友人にもスカイプで直接聞いたら、向こうで公表されている内容も同じようでした。ぼくたちには頼りになる森下もいるし、もう少し、がんばりましょう!」

 爽やかな笑顔で場を盛り上げる。

 近くに避難していたカップルの男性の方が、そろそろとこちらに近づいてきた。森下クンに何か尋ねている。

「いや、いいですよ、足りなくなったらボクたちはまた補充しますから。それより彼女さんが心配ですよね?止血方法、わかりますか?」

 彼氏さんは首を横に振った。下を向いて、申し訳なさそうな感じだ。

「じゃあ、ボクと樋内でやりますね。慣れてるから大丈夫ですよ」

 慣れてるのかー?

 彼女の方はさっき逃げてくる時に体のどこかを切って出血しているらしい。確かに言葉の通り、ふたりは器用に、そして不思議なコンビネーションで彼女の手あてをした。

「いや、実はぼくたち、たまにサバゲー、一緒にやってて」

 ははは…と照れた顔で樋内くんが言った。

「えっと、サバイバルゲームですね。室内でもできるとこがあるんですけど、森の中でやる本格的なのもあって。そこでも森下はすごいですよー。判断も実行も早いし。ぼくは助けられてばっかり」

 どちらかと言うと、樋内くんの意外な一面を見た気がした。仕事が出来て気さくで、爽やかなスポーツマン。女性社員の憧れの的だったのに、プライベートでは、そうなのね?

「出来るのはこれくらいの応急処置ですよ。はい、しばらく動いたらダメですよ」

 膝をはたきながら森下クンは立ち上がって、そう言った。…すごい、偉そうじゃない。人を助けたのに、すごいなー。謙虚さって、どんな時にも大切なんだな。だってリーダーが威張ってばかりいたら、ついて行く方はたぶん、嫌になってしまうもの。…いや、課長の事じゃないです…と心で言い訳をしてみた。


 時間がガムのようにびよーんと伸ばされたようだ。どれくらい経つのだろう。ずっと地下にいるし、疲れてるから、時間感覚がない。森下クンが食糧を配ってくれる。一人一人に声をかけながら。「がんばってるね、疲れたでしょう?」とわたしには言ってくれた。

「森下クンほどじゃないよ」

 と言ってしまってすごく後悔する。何でいま、この時に限って素直じゃないの、わたし。

「会社ではいつも皆の足を引っ張ってるからその分ね。それに、…川西さんをボクは絶対に守るよ」

 ドキッとする。こんなときでも、と思うかもしれないけど、だって何だか彼の目がすごく真摯で、真っ直ぐ見ていることが難しいくらい。

「川西さんはボクが守るから安心して」

 彼はさっと立ち上がると、うちの社員以外の人たちにも声をかけて歩いた。いつの間にかわたしの前に樋内くんがしゃがんでいてこう言った。

「何もかも終わったら真剣にアイツのこと考えてやってよ。アイツずっとキミのこと…。いいやつだよ、ぼくが保証する」

「樋内くんは知ってたんだ…。全然気がつかなかった。でも、なんでわたしなんか?わたし、見ての通りなんにも出来ないよ?」

 樋内くんは苦笑した。

「そういうのは本人に聞いた方がいいと思うけどさ…。いつでも一生懸命なところがいいって。ズルしないし、計算もしない、ひたむきな所がいいんだって。まぁ、今日のことでアイツのこと、少しはわかったでしょ?アイツ、これから仕事も伸びると思うよ。ぼくはいつか抜かれると思って仕事、がんばってるくらいだから」

 はは、と軽く笑って樋内くんは言ってしまった。いやいやいや、そんなの信じられない。わたしはモテない自覚があるし…。何より今は生き残ることが先決だし。課長まで隣で、「アイツはいい男だ」とか言ってるし…。


 突然また、アラートが鳴った。今回の内容は、『アメリカ政府と宇宙船の責任者との間で交渉成立。宇宙人は人間をサンプルとして100人要求。これをクリアすれば二度目の攻撃はない』というものだった。

 …場が静まり返る。

 サンプルって、何?例えば解剖とか?脳だけ取り出されちゃうようなアレとか?…それ以上の想像はムリ、絶対ムリ。

 でも誰かがそれをやってくれたら、地球上のすべての人々が救われるって、そういうことだよね?


「わたしが行くよ」

 どっこいしょ、と隣にいた課長がおもむろに立ち上がった。

「こういうのは年老いた者が行くべきだ。しかもわたしはここの責任者だ。大事に至って逃げるわけにはいくまい」

 みんな、しーんとした。事務の溝口さんという若い女の子が、ハンカチで目を押さえている。他にもこらえきれず、泣き声を漏らしてしまう女の子がいた。いつもカリカリして、数字のことばっかで、怒ってばかりの課長も、みんなに愛される上司だったんだなぁ。わたしも鼻の奥がツンとしてきた。

「課長、ボクが行きますから、座ってください」

 森下クン?

「課長にはこのメンバーだけではなく、守るべき家族もいます。簡単にいなくなったらダメですよ。課長である前に、頼りになるお父さんでしょう?」

「森下…お前だって…」

「うちには出来のいい兄がいるから大丈夫です。跡取りは残って、そうじゃない者が戦いに出るんですよ」

 いつの話だよ…。森下クンが行かなくたって…。知らないうちに涙がぽろぽろぽろぽろ可笑しいくらいこぼれ落ちて、気がつくと森下クンが目の前にいた。

「森下クン…あのさ…歌の歌詞にあるじゃん」

「ボクもたぶん同じ曲のこと思ってた」

「わたしをもし、大事だと思ってくれるなら、わたしだけのヒーローにならないの?人類のヒーローじゃなくて」

 懇願するような目になってしまう。地球上のすべての生命も、自分の生命も、不思議と目に入らなくなって、ただこの人を失いたくないという思いでいっぱいだ。

「ボクもあの歌を聞いた時、自分も手を挙げたりしないと思ったよ。自分が愛する人たちを救いたいから、みんなの犠牲になるために名乗り出るなんてしないよなぁって。自分が死んだら愛する人と一緒にいられないじゃん」

 わたしはこくり、とうなづいた。

「だったら…」

「でもさ、こんなことになってボクは本当にキミをどんな手段を使っても守りたいと思った。ボクが犠牲になることでキミが生き残って、他の誰かと幸せになってくれた方がいいと思ってしまうんだ。ごめんね、わかって。…ずっと好きだったんだよ、成績悪くても頑張ってるの見て。女の子なのに偉いなって思うようになってさ…。今、言われても困ると思うけどさ…」

 全然気がつかなかった。そんな風に自分を見てくれる人がいるなんて。自分のがんばりを評価してくれる人がいたなんて。


 わたしが感傷に浸っている間に、『デキる男』樋内くんがどこかに手早く連絡して、森下クンがサンプルとして立候補すると伝えていた。英語で喋ってるんだけど…国防総省とか、なのか?

「Really?」

 樋内くんの大きな声に、社外の人も含めて皆がビクッとなった。何?何がどうしたの?

 また悪い考えが頭を駆け巡る。やっぱり宇宙人がワシントンを攻撃してきたのでは…。怖い…。森下クンがそっと手を握ってくれる。厚くて骨太な男の人の手。小刻みにわたしが震えているのが伝わってしまうに違いない。そしてこの温もりを手放したくないと思ってしまう。

 樋内くんがペラペラペラと聞き取り不可能な早さで英語で畳み掛けるように喋る。だから、なんなんだよ、樋内ー。

「森下!」

 森下クンはそっとわたしの手を離すと樋内くんと小声で話し始めた。一体、何が起きてる…?


「皆さん、すみません!」

 森下クンが素晴らしく美しい角度で、正しく謝罪のお辞儀をした。樋内くんもその斜め後ろで頭を下げる。

「実は、断られてしまいました!」

 ………?

「情報公開後、瞬く間に100人、集まってしまったそうです。すみません、判断遅かったみたい」

「やっぱり森下は森下だな」

 課長がポソッと言う。一瞬、場がシーンとなったけれど、皆、どっと笑った。大いに笑った。腹を抱えて笑った。

 だって、おかしくて涙が出ちゃう。ほらね、わたしのヒーローになんかならないよ、キミは。

「なんか、ほんと、ごめん」

 彼はすごく申し訳なさそうに小さくなって、わたしに謝った。

「まだまだ一緒に営業、がんばらないとね!」

「そうだね、まだまだ課長に怒られないと」

「ねぇ、あの営業成績じゃ二人分合わせても、一緒に暮らすにはお給料足りないよ」

「え!?」

 わたしは自分で思うところの『一番いい顔』で笑った。清水の舞台から飛び降りてみた。


 忘れもしないあの日、空はこれ以上なく晴れていた。雲なんてものは最初から存在しないみたいに。

 あの日、ガラス張りの空が割れて降ってきたあのキラキラした欠片。あれはなんと『氷』だった。例の巨大な円盤が威嚇射撃のために、空気中の水分を集めて凝縮して氷の欠片を作ったらしい。運悪くそれに当たって亡くなった人もたくさんいた。でも、ビルが崩壊して倒れたり、すごい瓦礫が落ちてきたりしなかったのは、つまるところ大きな雹が降ってきただけだったから。そして、そのせいで『雲一つない』晴天だったのだ。どこの都市も不思議なくらい晴れていたらしい。

 もし、あの日に二回目の攻撃があったら、それはあの真っ赤に熟したエネルギーの塊が降ってきたのだろう。それを阻止してくれたのは善意の百人だ。様々な人種、性別、年齢の百人の人々。彼らの名前を尊いものとして情報開示すべきかどうかが問題にされた時期もあった。今は遺族が承諾した場合のみ、情報開示されている。ドキュメンタリー化されたり、映画になったり。あの日のことは忘れられるはずがない。唐突に『日常』が戻ってきたのは誰かの犠牲があったからだということだ。「ありがとう」と胸の中で思うことしかわたしにはできないけれども。


 そしてわたしの『ヒーローになり損なった』彼は、今度はパパになる。彼にがまた増えるのだ。お腹の中の小さな生命のために、小さい小さい産着を洗う。お産の前に用意をしておく。

 今日も素晴らしく青い空。雲一つない快晴。あの日以降、しばらく青空が怖かった。けれど、今は赤ちゃんの産着をお日様のにおいにしてくれる大切な青空になった。青空の中を、三人で散歩に出かける日がきっともうすぐやってくるはずだ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

青空のカケラ 月波結 @musubi-me

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ