第1話 オレンジピール 2

  私が住む奥菜市には、三つの山がある。その一つが笠山だ。駅から歩いて四十分ほどのところにある、標高約二百五十メートルの山である。三つの山の中では一番標高が高く、山麓にはそこそこに大きな公園があり、ハイキングコースも充実していることから、地元住民から特に親しまれ、学校の遠足の場としても必ずと言っていいほど名前が挙がる場所でもあった。私も小学生の時に三回、中学生の時に一回、遠足で足を運んだことがある。遠足でなくても遊びに来たことは数えられないくらいあった。さすがに高校生になってからは、遠足という行事自体がなくなり、私自身も私の周りの人も、わざわざ山へ行こうと言い出すものはいなくなり、次第に近づくことすらなくなったが。

 久しぶりに訪れた笠山の入り口にある、鳥居のように大きな木製のアーチを前に、私はしばしの間懐かしみに浸った。ここに立つのは少なくとも二年ぶりである。近くにあっても用がなければ来なくなるものだ。私が卒業した小学校や中学校に行こうと思わないのと同じであり、私は山からも卒業したということだろう。数人の子供たちが遊んでいる遊具がやけに小さく見えるのも、私がそれだけ成長したという証なのだ。誇らしいような、寂しいような、複雑な心境。あの子たちも、いつかは山へ来ることはなくなるのだろうか。

 若干センチメンタルな気分になりつつ、私はアーチの前で右に首をひねる。確か男性が言うには、件の喫茶店はアーチを前にして右手側の道をまっすぐ行った先らしい。車通りの少ない幅広の一車線は、道なりに行けばぐるりと山の周りを一周することになる。私はいつも学校の遠足で級友と列をなして歩いた道をたどって山に赴いており、そのルートでいくとアーチまで一直線に続く道にあらかじめ入って、あとはまっすぐ突き進むだけなので、思い起こせば右はおろか左の道にも行ったことがなかった。背を向けた側からアーチを潜り、帰りはその逆をたどったことしかない。無論、山の麓のどこかに喫茶店があるなど、知っているはずもなかった。

 広場での男性の言葉は疑い深いところもあるが、もし本当に悩みが解決できるような喫茶店があるのなら行かない手はない。まあ、万が一怪しい店であった時は即座にその場を離れればいいし、最悪の場合は携帯で助けを呼べばいい。警戒心だけ忘れないようにしておけば、どうとでもなるだろう。

 私は十七年住んだ土地の、未だ足を踏み入れたことのない道への一歩を踏み出した。


 

 特筆するべきこともないまま十五分ほど道なりに歩いた頃。私は、それまでぽつぽつと見かけた民家とは違う雰囲気を放つ一軒の建物を発見した。山の周回の道と街のどこかに続く道の分岐点にあり、背の低い生け垣に囲まれた青い屋根のレンガ造りの一軒家。西洋風の二階建てで、外壁に一つ、街頭が取り付けられている。入り口のドアに続くツタの張った階段には段ごとに鉢植えが置かれて、名前もわからぬ花が鮮やかに咲きほこっている。家の隣の庭には、橙や赤や黄や白の色とりどりの花がひしめく花壇があれば、青々とした植物が一列に並んでいる畑のようなスペースもある。ちらと見える建物の裏手には、果物の実がなっている木も植えられているようだった。家庭菜園にしては、ずいぶんと手が凝っている。あたりにはかすかに甘い香りと植物の青い香りが立ち込めていて、息を吸い込むとなんだか気持ちが安らぐのを感じた。

 物珍し気に目を向けながら歩を緩めて前を通ると、「OPEN」と書かれた木彫りのプレートがドアノブにかかっているのが見えた。おや、と目を凝らす。扉の横には、「HerbsMagic」と書かれた白塗りのプレート。私は階段の前で足を止めた。公園で会った男性が言っていた店というのは、どうやらここのことらしかった。

 ひとまず、嘘ではなかったことに安堵する。だまされていたわけではないようだ。外観からしても、特に怪しい雰囲気はしない。喫茶店と言われれば十分納得できる範疇である。試しに遠目に木枠の扉のガラス部分から、中の様子を遠目にうかがってみた。見たところ人の姿はなく、机と椅子とカウンターが確認できるのみだった。「OPEN」の札が掛かっている以上、無人ということはないだろうけど、それ以外はこちらも、特におかしなところはなさそうである。

 確認を終えたところで、私はすぐに入店しようとはせず、どうしようと考えた。言われるままに来てみたはいいものの、思えば一人で喫茶店に入ったことは一度もなかった。チェーン店ならば敷居は低かったろうが、ここはどうも個人営業店のようで、男が一人で入るには難易度が高く感じてしまう。変な目で見られたりはしないだろうか。一見さんお断り、なんてことはないだろうかなどと、心配事をつらつらと並べる。

 「こんにちは」

 私がぐるぐると思考を巡らせていると、背後から女性の声がした。振り返ると、そこには柔らかな笑みを浮かべた女性が一人立っていた。とても綺麗な人だった。公園で会った人と言い、今日は美形な人に良く合う。日に照らされた肌は透き通るように真っ白で美しい。たれ目気味の優し気な目元は全てを許す慈愛に満ちている。ああ、この人はよほどのことがないと怒らないのだろうなと、初対面ながらに私は思った。

 「どうも、こんにちは」

 「お客さん?」

 可愛らしく小首をかしげて言う。女性は手に買い物袋を提げており、紺のパンツスーツと桃色のトレーナーの上にエプロンを着けたいでたちをしていた。その上でお客さんかを聞いているということは、もしや。

 「もしかして、こちらのお店の方ですか」

 「ええ。店長の草味花代です」

 女性---草味さんはほんわかとした空気を漂わせて自己紹介をした。

 「うっかりバターを切らしてしまって、近くのコンビニまで買いに行っていたの」

 手に持った袋を顔の高さまで持ち上げ、がさりと鳴らせる。なるほど、確かに見慣れた黄色いパッケージの長方形がうっすらと確認できる。しかし、袋の中にはそれとは別に箱状の物が一つ余分に入っているように見えた。

 私の視線から察したのか、花代さんは袋からバターではないほうの箱を取り出して見せた。

 「たまたまお菓子コーナーに立ち寄ったらあったの。新発売のクッキー。私、新発売って言葉に弱くて」

 「はあ」

 照れたように微笑む姿は、あどけない少女のようで、私の年齢識別センサーを混乱させた。年上であることは間違いないのだろうけれど、一体いくつなのだろう。パッと見では二十代後半あたりだと予想する。

 「それで、あなたは?」

 「あ、私は、その、お客……でしょうか」

 「だったら、遠慮せず中へどうぞ」

 草味さんが私の前に進み出て、先導するように階段を上ってゆく。どうぞと言われたことで入店への心配はなくなり、私は草味さんの後ろで縛った栗色の髪がひょこひょこ揺れる動きに誘われるように後を追った。

 カランと鈴の音を響かせて、扉を潜る。すると、どこからかパタパタと掛けてくる足音が聞こえ、カウンターの奥から中学生か高校生ぐらいの女の子が姿を現した。

 「いらっしゃいませ」

 艶やかな黒髪をなびかせて、すまし顔で出迎えるその女の子は、私を見て言い、それからすぐ、草味さんに目を向けた。

 「お母さんも一緒だったんだ。お帰り」

 お母さん。二人は親子なのか。ということは、娘さんを見るに草味さんは少なくとも三十以上になる。とてもそうには見えない。

 「ただいま。お客様を席にご案内してあげて」

 「うん。どうぞ」

 短く交わし、花代さんはカウンターへ、女の子は私を出入り口から一番近い二人掛けのテーブル席へと誘導した。促されるまま、私は壁側の椅子へと腰を降ろした。

 女の子は、すぐにお冷とおしぼりを持ってきてテーブルの上に並べ、私にメニュー表を渡してきた。

 「決まりましたら、お呼びください」

 小さくお辞儀をして、正面に見えるカウンターへと戻っていく。会って間もないが、草味さんとは正直あまり似ていない印象を受ける。ほんわかとした雰囲気の草味さんに比べ、女の子の方は真面目そうだ。接客に関しても、淡々とこなしているようである。接客業をしていた身からすると、笑顔がないのは少し気になってしまうところではあった。

 私はメニューを見るふりをしながら、店内に視線を走らせた。現在私以外に客はなく、従業員も、草味さんと女の子意外にいないみたいだった。このお店は親子で切り盛りしているのだろうか。席は二人席が四つ、四人席が三つ。どれも手入れが行き届いているようで新品のように綺麗だ。温かみのある薄い橙の壁紙に、庭に面した大きな窓から差し込む光を反射する、ピカピカに磨かれたフローリング。天井から釣り下がる淡い光を放つランプ、瓶詰めがたくさん並んだ棚のある厨房兼カウンター。フロアの隅には、青々とした葉を見せつける背の高い観葉植物が一鉢置かれている。喫茶店には初めて入ったが、シンプルながらなかなかに趣があって、いいなと思った。お店に来たというより、まるで、家に招き入れられたような感覚だった。私が働いていたファミレスとは全然違う、家庭的で落ち着いた空気。どちらが好きかと問われれば、客としてなら私はファミレスより喫茶店の方が好きかもしれない。

 続いて、ラミネートされたメニュー表に目を落とす。左側に軽食、右側に飲み物の名前が羅列されている。軽食はケーキやサンドウィッチが主だった。一応スパゲッティもあるようだ。時間は二時過ぎ。昼食はなんとなく食欲がなくて抜いていたが、今はほんの少し食欲が出て小腹も空いている。それでもスパゲティを食べられるほどではなく、私はハムサンドを頼むことに決めた。

 さて、と今度は飲み物を決める。定番のコーヒーやジュース類に加え、ハーブティーと書かれた欄があった。公園で会った男性は、ここのハーブティーが絶品だと言っていた。勧められたからには、私もハーブティーを頼むべきだろう。ちなみにハーブティーは初めてだ。ティーと言うからにはお茶や紅茶のような味なのだろうか。楽しみである。

 ローズマリー、カモミール、ジャスミンなど、聞いたことのある名前から、スカルキャップ、マーシュマロウといった初めて見る名前のものまで、数十種類以上ある中から選べるようになっている。他の飲み物と共存するには枠が狭すぎたようで、ハーブティーだけ名前が裏面にまで及んでいた。それぞれ名前の下には主な効能が書かれていて、私のように詳しくない人にも配慮されている。種類にも驚かされるが、その多種多様な効能は学術書で新しい知識を得ようとしている時のように、私を驚嘆させる。もちろんというか、よく知らないだけあって、本当だろうかと懐疑的にもなった。

 一通り名前と効能をたどって行き、しかし私は首をかしげた。こうも種類があると、どれを頼んでいいものかわからなくなってしまう。

 「ご注文は決まりましたか?」

 女の子の声がして、私はメニュー表から顔を上げた。いつの間にか傍らに、出迎えられた時と同じ気真面目そうな顔で女の子が立っていた。

 「えっと、ハムサンドを一つと……」

 私は慌てて、もう一度ハーブティーの名前をたどる。無難に自分の知っている名前から選ぼうか。いやいや、せっかくなら今の自分に合った効能のものを選びたい。テスト直前に英単語を詰め込むように、私は書かれた文字を目で追っていく。

 そして、一つの名前にたどり着いた。

 「この、オレンジピールのハーブティーを一つ、お願いします」

 「ハムサンドと、オレンジピールのハーブティーですね。少々お待ちください」

 注文を反復し、メニュー表を下げてカウンターへ戻っていく。店内の静けさから花代さんの耳にも入っていたようで、女の子が注文を告げる前に、花代さんは準備に取り掛かっていた。

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HerbsMagic 人仁 @flake666

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