HerbsMagic
人仁
第1話 オレンジピール 1
「不当だ!」
「横暴すぎる!」
「足立君は何も悪いことしてないじゃない!」
私の周りで、長きも短きも共に働いてきた仕事仲間の皆が声を荒げる。視線の先には店長がいた。店長は非難の声を浴びせられながらも、彫りの深い顔を緩めようとはせず、外野の言うことなど聞く耳もたんと言いたげに無視を決め込み、私を睨んできていた。
「どんな理由であれ、穏便に済ませられなかった君にも落ち度がある。直接手は出してないにしても、事情を知らない周りのお客からは、問題を起こした店員とみられてしまっている。そんな人間を、うちでは雇い続けることはできない。店の信用にかかわるからな」
私はシップの張られた、まだわずかに痛む右頬の熱を感じながら、店長の顔から首元へと視線をずらし、瞬きを二度した。店長が続ける。
「俺もこの店を任されている身だ。君を残してお客が寄り付かなくなり、売り上げが下がりでもしたら、本社に顔向けできない。一番よく働いてくれる足立君をクビにするのは私も心苦しいが、私も店を守らなければならない立場にあるんだ。賢明な君ならわかるだろう」
問題を起こした人間は、排除されなければならない。それがたとえ、加害者でなくとも、不都合があれば同じこと。私は、この店にとって不利益な存在となってしまったのだと自覚した。
「わかりました」
私は店長の目を見返して言った。辞めたくはないが、私がいることで店に迷惑が掛かるのなら、そう言うほかなかった。迷惑を掛けてまで居座ろうとは、私は思わない。
店長はほっとしたように表情を一瞬緩ませた。
「さすがに物分かりが良いな。いや、残念だよ。私がもっと早く出られていれば、うまく収めてあげられたかもしれない。それだけが悔やまれる」
「何言ってんのよ。ビビッて厨房に隠れてたくせに」
厨房で食器洗いを担当しているパートのおばさんが、呆れ口調で店長を責める。そうだそうだと周りから合いの手が入ると、店長はぐっと奥歯を噛みしめるような顔をした。
「うるさい!用がない者はさっさと帰れ!」
店長が血相を変えて怒鳴り散らす。
「君も。もう話は終わりだ。帰りなさい。明日から来なくていいから。悪く思わんでくれ」
それだけ最後に言って、店長はブーイングの起こる厨房を足早に出て行った。
「なにあれ。サイテー」
「店を守るだとか綺麗ごと言って、結局は自分が責められたくないだけじゃない」
「だよなあ。店守んのは当然としても、それ以上に従業員も守れよって話だよな」
「天音さんには『大変だったね。今日はもう帰っていいよ。なんならしばらく休もうか』なんて言ってたくせにね。女と男で対応が違い過ぎない?」
「今日イチむかつくわー」
従業員の皆は店長が去った後も、まるで自分の身にあったように怒り、口々に不満を声に出していた。
店長と従業員の間に確執が生まれている。これはいけないと私はくるり回れ右して、皆に向き直った。
「そういうわけみたいなので、皆さん、今日までお世話になりました」
事態の終息を図るために、私は無理矢理に笑顔を作って頭を下げた。
「ちょっと、本当に言われたままおとなしく辞めちゃうの?」
食器洗いのおばさんが心配そうな顔で尋ねてくる。他の皆も愚痴合戦を中断して、私を見る。
「こんなの許されるわけないわよ。あんたは誰よりも早く天音ちゃんのもとに駆け付けてかばってあげて、あの男に注意しただけなのに」
「仕方ありません。店長の言うように、あの場にいたお客様の中には、私に問題があったと思っている方もいらっしゃるでしょうから。次回来店した時に、私がいることで不快感を与えてしまうかもしれないことは確かです」
「でもねえ」
「それに、店長からしたら私の対応は最適解ではなかったのでしょう。悪いのは私です。どうか、店長を責めないでください」
厨房がシンと静まり返る。憐れむような視線と、なぜ店長を庇うのかわからないといった疑問を投げかける視線が私に向けてくる。私はそれらを振り払い、仕事が終わったというのにわざわざ残って抗議までしてくれた方たちに、諸々の感謝を込めてもう一度深く頭を下げた。
「最後にご迷惑を掛けてすみませんでした。お世話になりました」
土曜日の昼下がり。休日ということもあって人通りの多い駅前の広場で、私は一人ベンチにもたれかかり天を仰いでいた。木々の間から降り注ぐ春の温かな日差しが実に心地よく、絶好の行楽日和を感じさせる。実際、駅方面は絶え間なく人が出入りし、街ゆく人々はにぎやかな声を発し、それぞれの休日を謳歌している。広場の端ではこれからイベントでもあるのか、同じデザインのTシャツを着た人たちが、特設の舞台の周りで機材やらなにやらを運びながらいそいそと準備に励んでいた。
そんな中、私が何をしているかと言えば、特に何もしていなかった。誰かと待ち合わせをしているわけでも、目当ての店の開店時間までの時間つぶしをしているわけでもない。無論、イベントが始まるのを心待ちにしているわけでもなかった。ただ、一昨日アルバイトをクビになり、使っていた制服を返しに行った帰りに、まっすぐ家に帰ってもやることがなく、どこかへ行くほど気分が晴れやかでもなかったので、なんとなく公園に立ち寄っただけのことだった。手頃なベンチに腰を降ろしてみたものの、すでに今日唯一の予定は達成されてしまっているため、どうにも手持無沙汰であった。
先週までなら、この時間帯は決まってアルバイトに精を出していた。もともと趣味というものを持ち合わせていなく、高校生になってからは放課後も休日も予定がなければアルバイトで埋め尽くしていた。休日ともなれば開店から閉店までいることだって珍しくなく、それくらい、私はアルバイトに浸った生活を送っていた。苦だと思ったことは一度もない。退屈な時間を埋められて、人の役に立つことを実感でき、おまけにお金ももらえるとなれば、これほど有意義な時間の使い方はないだろうと思っていた。
少なくとも三年生に上がるまでは、あのファミレスでアルバイトを続けることだろう。私は漠然と思っていた。それなのに、なんの前触れもなくアルバイト生活には終止符が打たれてしまった。予定帳のほぼ全ての日付に書きこまれたアルバイトの文字は一斉に消え失せてしまい、休日はおろか放課後の予定すら真っ白になってしまった。
こうしているだけでは、私は怠惰な学生でしかなかった。有意義とは言い難い時間を過ごしている。なんとかしなければならない。
以前までの生活を取り戻すのは至極簡単だった。早急に次のアルバイト先を決めればいい。私にとって、働く場所のこだわりはそこまでなく、働くことで得られる充実感が重要だった。前のアルバイト先は居心地は良かったが、絶対にそこでなくてはならない理由はない。だから、どこでもいいからまたアルバイトをはじめ、空いてしまった空白を埋めることができれば、それで問題はないはずだった。
しかし、私には次を見つける前に、解決しなければならないことがあった。それをないがしろにしたまま次に移ることは、できなかった。
私は間違っていたのだろうか。一昨日から何度となく繰り返した言葉を頭の中で反芻し、思い返す。
一昨日の夕方、私はいつものようにホールでお客様の対応をしていた。まだ込み始める前。店内に流れていたゆったりとしたジャズのBGMと同じく、平穏な時間が流れていたときだった。
きゃあ!と女性の悲鳴が店内に響いた。それを引き金に、もともと静かだった店内が水を打ったように静まった。店内の音はスピーカーから流れるBGMのみになった。
その時私は空いたテーブルの食器を下げているところだった。足を止め、声のした方を見ると、同期であり同じ高校のクラスメイトでもある天音さんが、スカートのすそを押さえ顔を真っ赤にして、テーブル席に座る金髪のお客様を睨んでいた。
何か問題があったのか。こういった場合、チーフか店長が率先して動くはずなのだが、チーフはシフトから外れていて今日は不在であることを思い出す。ならば店長はと辺りを窺うも、その姿は見当たらなかった。他の従業員は誰一人として動こうとしない。私は食器を厨房に置くと、足早に彼女のもとに駆け寄った。
『どうかしましたか?』
どちらともなく、私は尋ねた。
『こいつが、スカートまくり上げたのよ!』
天音さんが、涙目で声を張り上げ、金髪の男性を指さした。あたりが一瞬ざわついた。さされた男性はにやにやとし、あまり品のよくない顔で視線を明後日の方に向けていた。
『本当ですか?お客様』
私は問いただすような目を男性に向けた。
『手上げたらたまたまスカートにあたっちまっただけだよ』
へらへらと笑いながら、男性は言った。それを聞いた天音さんは烈火のごとく怒った。
『嘘!明らかに故意だった!あんたスカートの裾掴んでまくり上げたじゃない!』
『掴んでねえって』
『掴んだ!』
『証拠はあんのかよ』
『証拠ですって!?しらばっくれるんじゃないわよ!』
天音さんは男性に対し、今にもつかみかかりそうな勢いでまくし立てる。私は万が一のことを考えて天音さんを手で制しつつ、二人の間に割って入った。
『天音さん、落ち着いて。もう一度冷静になってよく考えてみてください。勘違いじゃなく、本当に故意でしたか』
背にかばった天音さんを見て、私は聞いた。天音さんは心外だと言わんばかりに目を見開いた。
『私を疑うの!?』
『正確な判断をするための確認です。勘違いだった場合、お客様に多大なご迷惑が掛かります』
冤罪を避けるためだと、私は天音さんを諭した。天音さんを疑いたくはないが、客商売である以上、実際に現場を目の当たりにしていない私が、いの一番にお客様を疑うことはできなかった。
目を真っ赤にした天音さんは、一応は私の言うことを理解してくれたようで、唇を噛みながら落ち着きを取り戻そうとしてくれた。そして、数秒沈黙したのちに、言った。
『間違いない。呼び止められて、向き直った瞬間、スカートの裾をつまみあげられた』
天音さんの目がまっすぐに私を見た。嘘は言っていないと、私はその目を見て確信した。
私は金髪の男性を見据えた。
『お客様。こちらそういった店ではございませんので、止めて頂けますか』
『えー、何?お前客より同業者の言うこと信じるの?それって客商売としてどうなの』
へらへらとしていた男性の目つきが鋭くなった。
『彼女が嘘をつくとは思えませんので』
『そんなの俺知らねえんだけど』
『では、故意ではなかったと?』
『そうだって言ったじゃんよお』
あくまで男性は偶然であると主張した。とても罪を認めるようにはみえなかった。私は、こうした場合どうするべきかを考えた。このまま押し問答を続けていては、食事中の他のお客様の迷惑になる。後に来店して来るお客様も、自動ドアを潜った瞬間、店内の異様な雰囲気を察して引き返していくかもしれない。一刻も早く正常な空間に戻すには、長々と言い合いをするのは得策ではなかった。天音さんがどの程度の処罰を与えたいと思っているかはわからないが、ここは穏便に済ませた方がいいのかもしれない。これ以上被害が出ないよう、彼への対応を全て男性店員に任せれば、ひとまず再発は防げると、私は考えた。
『わかりました。でしたら今後気を付けてください。仮に偶然であっても、従業員も一人の人間ですので、行為によっては不快に思うこともあります。次おなじようなことが起こりましたら、故意であっても故意でなくとも、然るべき対応をとらせていただくことになりますので』
『なにその妥協しましたみたいな言い方。すっげえむかつくんだけど』
『他のお客様のご迷惑になりますので。どうしても納得がいかないのであれば、防犯カメラを確認することも可能ですが』
言い終わるや否や、右頬に衝撃が走った。いくつか悲鳴が上がり、私は一瞬何が起きたのかわからないまま仰け反った。
いつの間にか立ち上がった男性が、拳を前に突き出しているのを目視して、ようやく私は、殴られたのだと自覚した。
『マジむかつく。どけよ』
続けざまにお腹を蹴られ、私は情けなくも通路に尻もちをついた。一瞬ヒヤッとしたが、後ろにいた天音さんはとっさに避けてくれたようで、巻き添えを食らってはいなかった。そのことに脈打つ頬とお腹を押さえながら安堵していると、そのすきに男性は大股で私の横を通りすぎ、出入り口に向かっていた。
『あーあ!この店客に冤罪吹っ掛けてきやがった。二度とこねー』
店全体に聞こえるように大声で言い放ち、そばにあった待合用の椅子を蹴っ飛ばして、男性は不機嫌なオーラを放ちながら出て行った。シンと静まり返る店内。重苦しい空気に似つかわしくなく、流れるBGMは陽気な曲調のものに変わった。
その後すぐに店長がやって来て、私と天音さんはバックヤードへ連れて行かれた。天音さんは店長から辛かっただろうと、慰みの言葉と強引な帰宅を促され、私は頬の腫れの治療後、その日はホールでなく厨房での作業をするようにと命じられた。
そして、一日の仕事を終えた矢先に、私にはクビ宣告が下された。
何がいけなかったのか、私にはいまだに理解できていなかった。私は私なりに最善を尽くそうとことを運んだはずだった。天音さんを擁護しつつも肩入れしすぎず、相手がお客様であることを考慮して、過度な攻撃的発言も控えた。クビになるほどの行いはしていなかったと思う。
男性客が激昂した理由である妥協案を提示したのが原因だったのか。ならば徹底的に天音さんへの行為について抗戦すべきだったのだろうか。いや、トラブルが長引けば店にはもっと迷惑が掛かっていたし、男性の怒りをさらにかっていたことだろう。被害が他のお客様に及んでいた可能性もある。それこそクビは免れない。では、彼の言い分を全面的に肯定していればよかったのか。彼女の勘違いで大騒ぎしてしまい申し訳ございません。とでも言って、天音さんをその場から遠ざけるべきだったのか。それではあまりにも天音さんがかわいそうではないか。辱めを受けたのに、注意すらされないなど、やられ損でしかない。天音さんからしてみれば、私も共犯者と変わらない。そして、そんな対応をすれば男性からは、何をやっても許される店の烙印が押されてしまう。
それとも、他の従業員と同様、固まって様子を窺っていればよかったのか。騒ぎの中に突撃していったこと自体、間違っていたということなのだろうか。
はあーっとため息が漏れる。わからない。どうしていれば良かったのだろう。私の対応のどこが間違っていたのだろう。模範的な対応とはどういったものを言うのだろう。私は解き方のわからない数学の問題を前にしているかのように、頭を抱えた。
こんなことなら制服を返しに行った時、店長に無理やりにでも聞いておけばよかった。会うなり制服の入った紙袋を奪われ、忙しいからと追い出されてしまい、のこのこと引き返してきたことが悔やまれた。一応混み始める前に行ったのだけれど。
「どうしたんだい。苦悶の表情を浮かべて」
不意に声を掛けられ、私は顔を右に向けた。同じベンチに腰かけ、人の良さそうな笑顔をこちらに向ける男性と目が合った。面識のない人だった。みたところ二十代ぐらいだろうか。ジーパンに黒のTシャツというラフな服装のその男性は、顎に手をやり、私を品定めをするように見据えた。
「頬のシップはあれかな。喧嘩でもしたのかい?」
とっさにシップが貼られた頬に手をあてがう。痛みはもうないものの少し赤みと腫れが残っていて、まだシップに頼る生活は続いていた。帰宅して私の顔を見るなり両親が発した第一声と同じ反応であることから、部位が部位だけにやはり喧嘩を連想させてしまうようだ。できることなら早くシップとの縁を切りたいところだったが、殴られたのが人生で初めてだった私にとって、殴られた跡というのは意外にも完治に時間がかかることを現在身をもって体感しているところだった。
「これは、ちょっと事情がありまして」
「ふむ。気の毒に。せっかく男前なのにな。私ほどじゃあないが」
冗談めかして言って、男性はふっと目を細める。私が男前であるかはどうでもよいとして、男性は確かに整った顔立ちをしていた。髭はなく、すっきりした顎のライン。少し吊り上がった切れ目の涼し気な目元。清潔感のある短く切りそろえられた髪型。どこか知的な印象を受けた。
私は、見知らぬ二枚目男性が突然フレンドリーに接してきたことに戸惑いながらも、ファミレスでのバイトで培った人当たりの良さを生かし、心の中で謙遜しつつも「ありがとうございます」と軽く頭を下げた。男性は私が返した反応とは違う答えを期待していたようで、苦笑い気味に口元を歪めていた。
「それはそうとして、悩み事かい」
「ええ、まあ」
「わかった。意中の女性にでも降られたのだろう」
内容を聞くでもなく、男性はそうに違いないとうんうんと頷いた。
「そうしょげることはないさ。女性なんてこの世に掃いて捨てるほどいる。ほら、この場だけでも数えきれないほどの女性が溢れている。一人に振られたところで、気に病むことないって」
「いえ、あの、別に振られたわけではなくて」
「んん?なら、これから誰かに告白しようとしているんだな。そうかそうか。がんばれよ少年」
ぽんぽんと肩を叩かれる。
「あいにくですが、告白しようともしていません」
「じゃあ、気になる子がいるとか」
「いいえ。気になる相手も今のところは。というか、直接女性とは関係がないことでして」
「なんだ。違うのかい。君くらいの子が悩むのなんて、女関係しかないと思ったけど」
いささか極論が過ぎる気がする。
「すみません」
「真面目だなあ。謝らなくてもいいよ。冗談みたいなものだから。まあその頬と同様に、君にもいろいろあるってことだろう」
なんとなく謝ってしまった私に、男性はさして気にした様子もなく笑って見せる。名も知らぬ私に話しかけてきたことからしてもそうだが、ずいぶんと社交的な方だと感心した。男性は昔からの友人のように私に接してきている。私まで初対面であることを忘れてしまいそうなほどだった。男性が社会人なのか学生なのかはわからないが、どちらにしても友人は多そうだと思った。
「君、名前は?」と聞かれて、私は少しためらいつつも「足立優也です」と自分の名前を口にした。
「優也君か。見たところ高校生ぐらい?」
「はい」
「青春真っただ中だな。それで、君の持つ悩みは一人で解決できそうなのかい」
聞かれて、私は素直に答えた。
「どうでしょう。考え出して二日になりますが、解決の糸口はいまだにつかめていません」
「ずいぶんと壮大な悩みを抱えているようだ。もし必要なら、力になろうか」
その申し出に、私は驚いて、男性をまじまじと見た。
「見ず知らずの私なんかのですか」
「今はもう知り合いだろう」
気取った風でもなく、当然のように男性は言った。私は再度驚く。なんと心が広い方なのだろう。
「で、どうする」
私は考えた。悩みには助力を申し込んでもいいものと、一人で答えを導き出さなければならないものとがあると私は思っている。今抱えている問題は、どちらだろう。自身のミスであれば、自力で気づいて然るべきだとは思うのだけれど、だからといって長々と悩んでいては、いつまでたっても正解にたどり着けそうもなかった。
私は、早くこの悩みと決別したい。それに、せっかくの好意だ。断ってしまうのは忍びない。
考えた末、私は答えた。
「お願い、してもよろしいですか」
男性は満足そうに頷いた。
「ではまず、あそこをみてくれ」
男性がおもむろに指をさす。先を目で追うと、どうやら街はずれにある小高い山をさしているらしかった。
「笠山ですか?」
私が確認を取ると、男性はそうだと言って、指を下ろす。
「あの山の麓に、小さな喫茶店があるのを知っているかい。名前をハーブマジックと言う。そこの店長の入れるハーブティーが絶品なんだが」
「いえ、存じませんが。それがなにか」
会話の趣旨が見えず、私は首をかしげる。もしかして、その喫茶店で話を聞こうということだろうか。
そう思った矢先、男性は言った。
「そこに行けば、君の悩みも晴れるだろう」
ん?私は男性の言葉に眉根を寄せる。
「あの、あなたが力になってくれるのではないのですか?」
「うん。だからほら。悩みを解決してくれるであろう場所を教えてあげてるんじゃないか」
ああ。力になるってそういう。
「私はてっきりあなたがアドバイスをくれるものだと」
「そんなことは一言も言ってないよ。やだなあ」
はっはっはと笑う男性。確かに言ってはないのだけれど、話の流れからして十中八九そうだと考えるのが普通だと思う。
「心配しなくても、私がアドバイスをするより、喫茶店の店長の方がもっと的確な啓示をしてくれるよ」
「はあ」
「まあ騙されたと思って行ってみるといい。ここで項垂れてるくらいだ。どうせ暇なんだろう」
「そうですけど、あなたは?」
「私はやることがあるから」
そう言うと、男性は私をベンチから追い立てるように、さあさあと両手で押してきた。私は腑に落ちないながらも、立ち上がる。
「それじゃ。行ってらっしゃい。場所は、山の入り口にあるアーチを正面に見て、右手側の道をしばらくまっすぐに行けばつくから」
手を振り、見送られる。完全に行く流れになっていた。もしかしたら、彼はくだんの喫茶店の宣伝係なのかもしれないと私はふと思った。公園で暇そうな人に声を掛けては、気さくに話しかけ、警戒心を解いたところで、良い喫茶店があるんだけどと言葉巧みに誘導していく。それが彼の営業戦略なのかもしれない。ここでやることというのも、宣伝を続けるという意味だとすれば。
仕方なく公園の出口に向かって歩き出そうとしたところで、振り返り、男性を見る。ベンチに座り、変わらず笑顔で手を振る男性は、第一印象同様人がよさそうではあったが、疑いを持ってしまったからか、その実裏があるようにも見えてしまった。まさかとは思うが、喫茶店ではなく危ない店だったり、行った先で高額な品を買わされたりしないかと不安になる。
向かうふりをして逃げ出したい衝動に駆られるも、なんとなく男性は私が道を外れないよう目的地に着くまで見張っていそうな気がしてならなかった。仕方なく私は、笠山までの道を悩みの他に不安を追加で抱えながら、歩くのだった。
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