第11話 柊の宮
——まるで、保護者のような言い方だったな。
その時に言われた言葉を思いだして、
飛英は苦笑した。
——いや、保護者というよりも、まるで母親か。
母というものを飛英は知らなかったが、《桜の宮》の柔和さは、まさしく母親が持っているものかもしれない。
「寒くないですか」
必要のない限り、口を開かない寡黙な男のだったが、その寡黙さが、今はありがたかった。
寒くないと言えば嘘になるが、まだ会って数時間の付き人に、なれなれしく弱音を吐きたくはなかった。
「ここを出れば、
ここ、というのは、
その先は、ところどころ雪で覆われている。
姮娥は、ヒュウマの手綱を両手で繰りながら、厚手の毛布と自身の体ですっぽり飛英を覆い隠していたが、それでも頰にあたる冷気はしびれるようだった。
「お前は、この郷に足を踏み入れたことがあるのか」
「はい、何度か。といっても、年初めのお祝いを届ける時くらいで、冬華殿まで行くのは初めてです」
口元を布で覆っているため、声はくぐもっていた。
夏の郷、秋の郷、そして——冬の郷。
今まで関わり合うことはなかった、他の巫女姫と、四獣。
——冬の郷は、確か「玄武」だったな。
桜の宮は、
書簡を渡して任せるつもりのようだが、その相手である柊の宮についても、飛英はどんな人物なのか、ほとんど知らない。
「知らないこと」が普通で、不思議にも思わなかった。
——色々知っておくには、今がちょうどいい頃合いなのかもしれない。
***
冬華殿は他の郷の建物と同じように、切り立った高い山の上にあり、その中心には、分厚く渦を巻いた暗い雲が、時折雪片を舞い散らせていた。
春の郷の温暖な空気に慣れている飛英は、体の芯まで凍りつきそうだったが、姮娥がヒュウマを降りた後も体に毛布を巻いてくれたので、なんとかその場に立っていることができた。
正面の門に現れた冬の郷の者は青白かったが、全然寒くなさそうに薄着をしているので、飛英は驚いた。
「遠路、はるばる来られてお疲れでしょう。こちらへ」
見た目は、名前通り寒々しい建物に見えるのだが、なかは思いのほか暖かかった。
灯篭のついた長い廊を歩いていくと、やがて階段があり、そこを下った先に、広間があるようだった。
「柊の宮さまが、お会いになられます」
薄着をした彼——彼なのか彼女なのか、飛英には分からなかった——が、そう言って微笑み、その場から離れると、あとには飛英と姮娥だけが、そこに残された。
どれくらいの時間が経っただろう。
現れたのは、
桜の宮と比べると、ずいぶん小柄に見える女性だった。
巫女姫は普通、十五になると登極する。
この郷を統治して三十年ほどと考えると、少なくとも不惑は過ぎているはずだが、妙齢というのがふさわしい女人に見えた。
「そなたが、春の郷の四獣か」
「飛英と申します」
飛英がそう名乗ると、
《柊の宮》は、ふいと手をかざした。
その動きを合図に、小さな杯を二つ盆に捧げた近習が、飛英の目の前までやってきた。
——先ほどの、彼か。
飛英がその姿を認めると、
「外は、その体ではこたえただろう。それを飲めば、きっと温かくなる」
先に、手をつけたのは姮娥だった。
——今さら警戒しても、致し方ない。
水のように透明な液体は、口に含むと独特の香りが鼻の先を抜けた。
そして確かに飲む前と比べると、体が次第に火照ってくるのが分かった。
「書簡は預かろう。まぁ、大体の察しはついているのだが。夏の郷の登極に関して、だろう?」
飛英は面を上げた。
「ご存知なのですか」
「
飛英は改めて、柊の宮を見た。
着衣にあまり頓着しないのか、動きやすいよう仕立てた小袖のような衣をまとっており、少ししわの刻まれた目元には、愉快そうな光が踊っている。
頰にかかる髪は、まるで透きとおるような銀色をしていた。雪が、日に照らされて光るような。
「桜の宮は、冬の郷におわす柊の宮さまならば、きっと良くはからってくれるだろうと」
飛英が差し出した書簡は、近習の手から宮に渡された。
宮は、流し目でその文面を見やりながら、
「きれいな紙だね、これは。こういう風情あるものを久しぶりに見たよ」
と、ひとりごちると、続けざまに言った。
「じゃあ
飛英が言われた言葉の意味をはかりかねていると、宮は、人の悪い笑みを浮かべて言った。
「どれ程の事態なのか、この書簡だけでは判別がつかぬ。ちょうど占でも出て気になっていたし、そのようにすると《桜の宮》に伝えておくれ」
飛英はやっと、我に返って言った。、
「お待ち下さい。その——珂雪とは」
「ああ、申し遅れていたな。うちの郷の四獣だ。そこにいるだろう」
柊の宮が視線を送った先には——近習と見られた、薄着の彼がいた。
柊の宮と同じ、銀色の髪。
飛英と視線が合うと、
珂雪は微笑んだ。
——まさか、どうして気づかなかったのだろう。
しかし、そこで一気に、彼女が四獣であることが、気配でのみこめた。
彼ではなく、彼女であることも。
「ごめんなさい。少し、術を試してみたかったの。だって滅多に使えないんですもの」
珂雪はそう言うと、すまなそうな顔をしてみせた。
この時、飛英は分からなかったが、
彼女の言う「術」とは、彼女自身が使う『禁じ手』のことだった。
飛英は、このようにあっけなく、彼女の術にかかっていたことに対し、軽い衝撃を覚えた。
平手で顔を殴られたような、新鮮な驚きだった。
「寒さで気が弱っていたからね。それで余計に惑わされたのさ。夏㚖殿はここと比べると大分暖かいから、まぁ見張れても数日が限度だろう」
「夏㚖殿の動向を探って、どうするおつもりですか」
「どうもこうもしないさ。ただ、注視する必要はあると思ってね」
柊の宮はキセルをくわえると、うまそうに煙りを吐いた。
淡い紫色に、細い煙が部屋のなかをめぐった。
「あとは、新しく登極する宮が決めることだ。いくら宮代が阻止しようとしても、四獣を見出し、封じれば登極することはできる。それができるかどうかは、本人次第だね」
「焔——というのは、それほど恐ろしい四獣なのですか」
最後に飛英がそう尋ねると、柊の宮は目を細めて言った。
「私も実際に目にしたことはないが、故事によると、はるか昔、争いの発端になった四獣、と書かれている。『禁じ手』があるのは知っているだろう。焔はその術ー「送り火」で、当時国のすべてを焼きつくそうとした。
水の神である玄武によって、一時的に火は消しとめられ、見かねた天宮が天空から巫女姫を遣わした、と。そこまで苛烈な技を行使できるのは、四獣のなかでも焔だけだろうね」
***
桜の宮の言いつけ通り、飛英は冬華殿を出ると、まっすぐ郷に帰ることにした。
柊の宮が出してくれた飲み物のおかげで、行きよりは寒さも感じなかったが、早く馴染みのある郷の暖かい空気に触れたかった。
玄冥門を抜けると、次第に外気がゆるんでいくように感じられて、飛英は、背でヒュウマを
「お前は、柊の宮についてどう思う」
問いかけられ、
姮娥は率直に言った。
「なかなか大胆なことをするお方ですね。自身の四獣を、そうやすやすと見張りに向かわせるとは」
「それは桜の宮も同じだろう。それにあの術があれば、四獣はおろか、巫女姫にも気づかれないだろう」
実際、飛英も気づかなかったのだ。
普通、四獣同士であれば、光輪で気配が分かる。
それすらも、見分けることができなかった。
否、
そのように、見せかけられたのだ。
冬の郷は、一番治世が長い。
そうなると当然、力の優劣も出てくるだろうが、こうもあからさまに差が歴然となるとは、飛英も思わなかった。
——しかも、俺は《転変》したこともない。
今まで、その必要性がないからと思っていたが、本当に自分が転変できるのか、今は不明だった。
『禁じ手』すら、使ったことがないのだ。
そして、その『禁じ手』——「胡蝶」に至っては、他の郷の四獣と巫女姫にしか、使うことはできない。
——試してみたい。
ふと、そう思った。
冬の郷の四獣が、自身の術を飛英に試したように、飛英もそれを試したいと思った。
どれ程の力が、自分の内にあるのか。
力で劣るなら、それはどれ程の差なのか。
どこまでいけば、その差が埋まるのか。
そして、夏の郷の、まだ眠れる四獣——
飛英にとって意外だったのは、あの宮代わりが、焔を疎んでいることなどではなかった。
焔が、先代の巫女姫を傷つけ、死に追いやったこと。
それだけの力を秘めた四獣であること——が、興味深かった。
試したい。
そしてできれば、力を手に入れたい。
飛英は、次第に強くなる願望をひとり抱えながら、姮娥と共に春陽殿を目指した。
やがて、
一年の時が過ぎ、飛英は実際に他の郷の四獣に『禁じ手』をかける絶好の機会を見つけた。
それは、
飛英が最も望んでいたことで、
相手は探し求めていた《四獣》だった。
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