第8話 葵の宮


そして、拍子抜けするほど何もなく、夜が明けた。


ここまで来て何も得られないなら、凪の足取りをたどる手がかりは、もうなくなってしまう。


それは、琥珀の焦燥をつのらせた。

琥珀は、何らかの手がかりが得られると踏んで来たのだ。

しかし結局、収穫は何もなかった。


ただ、何もなく時だけが過ぎていく。

それが嫌だった。


でもこれ以上、深入りできる立場でもあるはずがない。



もともと何か持ってきたわけでもないのだが、簡単な身支度を侍女が手伝ってくれた。


与えられた部屋は寝台があるだけで、ほとんど何も置いてない簡素な部屋だったが、そこさえ立ち去りがたい気がするほどだった。


宮代とは、顔をあわせたくはなかった。

会って、あの上面の声を聞いたら、頭にきて殴ってしまうかもしれない。



御影にそう言ったら、苦笑しただけだった。


失礼ながら挨拶は辞退したいとそば近くに控えた侍女に言うと、はからってくれたのか、特に誰とも会わず、気づいた時には夏㚖殿の門の前に来ていた。


燐と玻璃は、まだ来ていない。

明け方の空に、うすく星が光る。


夏の郷と言われるだけに気候が暖かいのか、ぬるい風が琥珀の頰をなぞった。



振り向くと、

見送りのつもりなのか、

部屋で準備をしてくれた侍女が、まだ後ろで律儀に控えている。


琥珀はそれを見て、思わず声をかけた。



「お前も、ありがとな。もう下がっていいよ」



侍女はひとつ、会釈したかと思うと、まっすぐ顔を上げた。

その目の強さに、琥珀はひきつけられた。



「私も一緒に、連れていって下さい」



琥珀は、目がくらんだ。


これは——確か。



覚えのない感覚。


体に、戦慄が走る。


世界が歪み、彼女のまわりが、淡く発光した。



一体何を言いだすのかと、あきれて御影が侍女を制したが、彼女はゆずらなかった。




「あなたは、きっと『蜻蛉かげろう』を使えるはず。それで私を見えなくして下さい。この術を、あなたなら、もう解いたのでしょう」



そう話す、彼女の声も、遠く感じた。


この術。


これは、


——『氷花ひょうか




「——ばかな」



それを聞いて、御影は蒼白になった。


『蜻蛉』という技は、秋の郷の四獣の秘儀なのだ。


ただの侍女が、知っているはずもない。


加えて、琥珀が四獣であることを、これは既に知っている発言だった。



「お前は——」




冬の郷の四獣か。


琥珀はそう思い、かすむ目を見開いた。



警戒した御影が、琥珀の前に立つ。


そこで彼女は、初めてほほ笑んだ。


こういうほほ笑み方を、琥珀は知っている。


《楓の宮》の微笑と、それはよく似ているような気がした。



深い瑠璃色の瞳。


その目が再び、強くきらめいて、


試すような視線を、琥珀に投げかけた。


この人は、



「葵の宮——」



「私は正式な宮ではないけれど、術をかけることはできるのじゃない。現にこうやって、術も解けるのだから。あなたの郷には迷惑をかけるけど、これは私の四獣を取り逃がした、あなたの宮の責任でもあるのよ」



夏の郷の巫女姫——《葵の宮》は、軽々とひと息にそう言ってのけ、御影は膝をついて叩頭し、琥珀は信じられない、と葵の宮を見た。


「なんで、侍女にされていたんだ。あれは、冬の郷の四獣の『禁じ手』だろう」



だとすると、

やはり冬の四獣は、夏㚖殿にいたのか。


琥珀は問いかけたが、それについて葵の宮は、話す気がないようだった。



楓の宮の言葉が脳裏によみがえる。


——もし、不測の事態が身に起こるとならば、『蜻蛉』を使いなさい。私が許可します。



これは、充分不測の事態だろう。


もうじき、燐と玻璃がここへやってくる。


この現場を見られるわけにはいかない。


——だが、しかし。



救いを求めて頭を垂れたままの御影に目をやると、御影はささやいた。



「ここは、お望みどおりにしてさしあげては」


「でも今、術を解いたばかりだ。この状態で再び『蜻蛉』をかけて、どうなっても責任取れないんだけど」


「その責は私が私がいます。私みずから言いだしたことですもの。あたり前でしょう」



声をひそめて話していたつもりが、葵の宮にそう言い返され、琥珀は一気に捨てばちな気分になった。



「もう、本当にどうなっても、俺知らないからな」



琥珀は言うやいなや、

右手で素早く印を切って結ぶと、口のなかでじゅを唱えて、指先を葵の宮むかって鋭く突きつけた。


一瞬、


その場に、白い閃光が走る。



——と、


その光が走って言った先、


その残光に包まれていくように、


葵の宮の姿は消えうせた。




「……消えましたね」



御影の声に、

琥珀は、何もないと思われる空間をじっと見据えて言った。


「消えたわけじゃない。見えなくしただけだ。実体は、今もちゃんとここにいる」



その証拠に、せつな、声が聞こえた。

琥珀にしか聞きとれない声で。



『ふうん。案外、大したことないのね』



ひと言めに発した言葉がそれで、琥珀はげんなりする。

これを解くには、他の四獣か巫女姫の力に頼らなければいけない。

今、琥珀がしたのと同じように。


問題はそこだった。

しかしこの状況で悪態をつけるなら、けっこう肝が据わっているのかもしれない。

とはいえ、そうでなければ務まらないのが巫女姫でもあった。


「御影」


琥珀は、吐息混じりに言った。


「悪いけど、俺は葵の宮と先に行くよ。燐と玻璃には適当に言っといてくれ」


琥珀をひとりにするのに抵抗があるのだろう、


「それは、なりません」と御影は言ったが、琥珀はとりあわなかった。



「いや、こうなった以上、ヒュウマでは帰れない。この状態の葵の宮を、ヒュウマには乗せられない。俺がくわえていく」


「くわえてって……まさかここで、転変する気ですか」



琥珀は頷いた。



「燐と玻璃に気づかれて、楓の宮に密告されるよりいいだろ」


「それは、そうですが……」


「大丈夫。目には見えない速さで飛べるから。あんたも、ちゃんと暴れずに、おとなしくしていろよ」


最後は、葵の宮にむかって言われた言葉のようだった。


それに対して葵の宮が抗議しようとした時——


実体のない体が、ふわりと浮き上がった。


否、今身にまとっている衣をくわえられたのだ。



葵の宮も御影も、

転変する瞬間は見えなかった。


煙のような白いもやが、

一瞬辺りにパッと散乱し、消えてなくなる頃、

琥珀の姿は、もうそこにはなかった。


本当に、跡形なく。


気配が完全に消えてなくなると、御影ははるか上空を見上げて嘆息した。


ヒュウマは確かに速い。


でもそれは、長距離を駆けていくのにむいた速さだ。


でも白虎は、転変する瞬間、

目に見えない速さで空を駆けあがる。


そして、

あっという間に雲にまぎれてしまう。


——と、


東の空に、

迎えのヒュウマと思われる黒い影が、視界に飛び込んだ。


——あの進言は、さすがに軽率だった。



今更後悔しても遅いのだが、御影がつい葵の宮に乗ってしまったのは、そうさせる何かが彼女にあったからだ。


本当に宮として登極する巫女姫には、人の心を動かす力がある。


逆らえない、と思わせる何かがあるのだ。


実際、琥珀に言葉を発した自分は、不思議なほど冷静で落ち着いていた。

《楓の宮》に対する時のように。


上に立つ宿命の者の言葉だと思えた。

判断をゆだねてしまう——そうすれば間違いない、と思わせる力が、宮には必要なのだ。



——まだ登極前とは思えない、充分な資質を持っていらっしゃる。無事に四獣とまみえることが、できるといいのだが。



琥珀が単独行動に打ってでたというのに、ここまで落ち着いていられる自分も不思議だった。


御影は苦笑する。


そしてもう、姿形もない、遠く離れた主の幸運を祈った。



***



葵の宮は、何が起きているのかよく分からなかった。


足が地をはなれ、凄いスピードで一気に上昇している——らしいことは、なんとなく分かったが、何しろ空気抵抗を何も感じないのだ。


いや、むしろそれがあるのなら、この速さでは移動できないだろうが、身じろぎすると体が浮遊して心もとない。


このまま体からはなれたら、どうなるのだろう。

と、思いかけたところで、琥珀の声がした。


「おとなしくしてろって、さっき言っただろ。間違っても体からはなれようなんて気をおこすな。そこからいなくなったら、もうおしまいだ。術を解いた時、体だけ戻っても、魂が戻れなくなる。その時は、死ぬよりも辛い目にあわなきゃいけなくなるぞ」


上空から言われて、

葵の宮は、そこに琥珀がいることを意識した。



そうやって現在の自分を把握すると、他の郷の四獣に文字通りくわえられているという、かなり格好悪い状態と知り、宮は憤慨した。


『せめて、背中に乗せてよ』



「姿が見えないのに、できるわけないだろ。それに俺に騎乗できるのは、楓の宮だけだ」



そういうものなのか、と葵の宮は思い——姿が見えないのも不便だが、見えたらこれはできない芸当だと思った上で言った。



『じゃあ早速だけど、このまま春の郷まで飛んでくれる?』



琥珀はくわえていた体を、あやうく取り落としそうになるところだった。



「春の郷?」



『楓の宮に聞いても、何も分からないでしょう。あのばかが、最後にむかったのはどこなの』




あのばか、というのが凪のこと、しいては焔のことだと思い当たった琥珀は、あの時、あの背中をひきとめきれなかった自分自身を思った。



「春の郷だ。でも——」



もう、彼の気配はどこにも見えなかった。


その言葉を呑み込んだ先、葵の宮は言った。




『じゃあやっぱり、そこに行くしかなさそうね。知っている? 帰ってきたヒュウマには、矢が刺さっていたのよ』



琥珀はそれに対し、言葉を発することができなかった。

目の前が暗くなる。


射かけられたのか。




『よその郷の四獣を射かけることは、しいてはその郷の宮に弓引くこと。どういうつもりか知らないけれど、わたくし——』



葵の宮はそこでひと息おくと、わずかにひとり、微笑んだようだった。


『売られた喧嘩は、すべて買う主義なの』



殺気に似た気配を感じて、琥珀は押し黙る。


これだから、巫女姫というのは——と思いつつ、琥珀は葵の宮をくわえたまま、春の郷の句芒門を目指した。
















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