第4話 罠
明朝、まだ辺りが暗いうちに、凪は起きだした。
その気配を察してくれたのか、野外ではヒュウマが待っていたようにこちらを見上げていて、凪は微笑んだ。
もう、ここを発つと決めていた。
それなら一刻も早い方がいい。
手綱を握り、ヒュウマの目を頼りにまだ暗い庭園を進んでいくと、まもなく秋麗殿の門へ続く道に行きあたった。
凪は立ちどまる。
歩みを止めたのは、気配を感じたからだ。
一瞬、ひざまずこうかと思ったが、もうあえて、それはしなかった。
きのう、そうしなくていいと言われた手前、凪は振り返り、まっすぐに向き直った。
「もう、行くのですか」
丈の長い羽織をまとい、後ろに髪を垂らした楓の宮が、そこに立っていた。
薄暗いため、表情は読みとれない。
だが、心配そうな顔をしていることはわかった。
他の郷の宮に気にかけてもらえることを、どこか恐れ多く感じながら、凪は頷いた。
「登極には、四獣が必要になります。夏の郷の四獣を見出してからでも、遅くないのでは」
「それは、宮代も考えておられます」
凪は、先日の会話を思い返して言った。
「でも今は、他の郷に、この窮状を伝えるのが急務なのです」
凪はそう確信していたが、楓の宮の気持ちは別にあるようだった。
「では、引き止めるわけにはいかないようですね」
とだけ、小さくつぶやくと、
「最後にひとつだけ、あなたに教えましょう」
と、凪を見つめ返した。
夜明け前の薄暗いさなかでも、楓の宮の眼差しがむけられるのを感じ、凪は背を伸ばして次の言葉を待った。
楓の宮は言った。
「夏の郷の四獣とは、南方に配された四神、朱雀のこと。古来から、名を、
——焔。
夏の郷の四獣。
その言葉を聞いた時、凪は、心の底がうずくような気がした。
とても大切なことを、あえて告げられたと分かっていた。
凪が黙ってその場で頭を下げると、再び楓の宮は言った。
「このまま東へ渡ると
「ありがとうございます。でも俺は、もうひとりで行くと決めたのです」
楓の宮は、かなしげに微笑んだ。
「それならば、どうぞ気をつけてお行きなさい」
凪はもう一度黙って礼をすると、再び手綱を取った。
門は開いていた。
凪は騎乗する。
飛び立つ合間に、振り向くと、楓の宮がこちらを見上げる様子が小さく目に映った。
瞬間、
その姿が、
葵の宮の面影と重なった。
——葵の宮さま。
凪はその思いだけを胸に、空の彼方へ高く舞い上がった。
***
生まれた場所を、凪は覚えていない。
ただ、幼くして【忍び烏】と定められた者は、
夏の郷の
聞けば、まだ同じ年頃の少女だというから、忍び烏たちは自然と浮き立った。
みんなが何かと噂するものだから、凪も知らずしらずのうちに、まだ見ぬ宮への思いがかきたてられた。
——どんな方でもいい。
お守りすることに、変わりはないのだから。
そんな気持ちをかためていたある日、
凪たち【忍び烏】は、特殊な凧を使って飛ぶ訓練をしていた。
空中でバランスをとらないと風にのれない仕組みで、落下傘を体に巻きつけてあるものの、打ち所が悪ければ、小さな怪我ではすまない演習だった。
よく晴れて、雲もなく、穏やかな春の日だった。
何人もの同僚たちが、風にのって飛び立っていくさなか、凪は苦戦していた。
焦りもあったと思う。
何度も失敗し、落ちそうになって、ようやく舞い上がれたと思った瞬間に、
東の方角から、突風が吹きつけた。
すでに空にのぼっていた忍び烏たちは、なんとか体勢を整えてもちこたえたが、まだ姿勢を保てていない凪にとっては、ひとたまりもなかった。
あっという間に風に流され、命綱である凧糸は切れてしまった。
ぐるぐる回転し、上も下も分からなくなり——
いつのまにか、
気絶していたのだろう。
気がついた時、
凪は、大きな木の上に引っかかっていた。
そして目の前には、
夏昊殿があり、
その欄干に、
こちらを見つめる、ふたつの目があった。
深い、瑠璃色の瞳。
凪は、
体のあちこちが痛むのも忘れて、
その瞳に見入った。
とても綺麗な女の子だと思った。
その少女は、冷静に、木の上で凧糸にからまったまま動かないでいる凪を見つめていた。
欄干と、木の上にいる凪は、
ちょうど同じくらいの高さだった。
少女はしばらく見つめていたかと思うと、突然口を開いた。
「ゆるさないから」
少女は、ひと言言った。
「そんなことで、死んだらゆるさない」
幼いながらも、激しさを秘めた口調だった。
少女は続けて言った。
「死ぬなら、私を守って死になさい」
そう言うと、
少女は凪に背を向けて、見えなくなった。
瞬間、悟ったのだ。
——ああ、あの方が。
自分が命を賭けて守らなければいけない、ただひとりの御方だったのだと。
その後、仲間の忍び烏たちに助けられ、なんとか事なきを得た。
今思うと、葵の宮が知らせてくれたのだろう。
その当時は、言われたことの意味が分からなかった。
今もたぶん、すべては分かっていない。
でもだからこそ、早く任務を終えて、郷に帰らなければと思うのだった。
***
異変を感じたのは、今から句芒門に差しかかろうとする辺りだった。
ヒュウマも何かを感じ取っているのか、知らないうちに速度を落としている。
凪は手綱を引いて空中で停止すると、辺りを見回した。
いつのまにか、空気がはりつめている。
——まちがいない。
誰かに見られているのだ。
そう意識すると、鼓動が速くなった。
表立って出てこないということは、こちらの出方をうかがっているのだろう。
おだやかでない気配は、凪を緊張させた。
誰かが、
凪の一挙一動を監視している。
いったい何のために。
春の郷には、まだ警戒されるほど近づいてはいない。
それに、こちらが名乗り出る前に殺気をむけられるなど、ただごとではない。
背に、冷たいものが流れ落ちる。
ヒュウマも気配を敏感に感じ取って、どこか不安げだった。
凪が、引き返そうと手綱を引いた瞬間——
一本めの矢が、鋭く
凪は、すんでのところでかわしたが、それをきっかけに、ヒュウマがおびえて跳ねた。
二本めの矢が、続けて飛んでくる。
狙いは的確だった。
ヒュウマが咆哮をあげる。
どこかに刺さったのだろう。
凪は夢中で、その背にしがみついた。
——俺が誰だか知っていて、矢を射るのか。
そう思った刹那、
焼けるような痛みが、左腕に走った。
凪は、
気づいたら、もう手綱をはなしていた。
それ以上、握っていることが、できなかったのだ。
この高さから落ちたら、助からないだろう。
頭の隅で、そう考える。
焦燥が胸をおおった。
矢羽根が視界に映る。
世界が反転する。
——ゆるさないから。
いつか聞いた言葉が脳裏の奥で響き、凪は、虚空のなかへ投げだされた。
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