第3話 楓の宮


朝焼けに染まる郷の全貌が、霞のなかで薄紅に輝いている。

普段なら目を奪われそうなその光景も、今し方の出来事に気を取られ、凪はボンヤリしてしまうばかりだった。


——葵の宮さま。



もう、はるか彼方に遠ざかり、置き去りにした宮の姿を思う。


それについて考え始めると、胸がはりさけそうな気持ちがした。

実際に会うのは、何年ぶりだろう。


葵の宮として、正式に夏昊殿に住まわれてからは、じかに会うことはもう許されなかった。


だからこそ、登極される日を待ち望んでいたのだ。


登極さえすめば、正式に巫女姫の手足として働くことができる。


——それなのに。


怒りで上気した頰ばかりが、目に焼きついていた。


だからといって、行かないわけにはいかなかったのだ。

でもなぜか、苦い気持ちが胸の底にざらりとはりついていた。それは、後悔に似た気持ちだった。


間違った選択をしてしまったような。

あれだけの叱責でそう思わせるなら、彼女は確かに巫女姫としての資質があるのだろう。


葵の宮を、失望させたこと。

苦い気持ちの根源は、そこなのだ。


しかし、それがわかったところでどうすることもできない。

凪は、どんどん高度を上げるヒュウマの背につかまったまま、歯を食いしばった。




祝融門を越えたと気づいた頃には、もう秋の郷は目の前だった。

南西の方角から、突如現れた黒い影を警戒したのだろう。

秋麗殿の入り口と見られる門の前には、人の姿が集まり始めていた。

それを見極める間もなく、ヒュウマは降下した。


凪は、問い質されるのを覚悟して、どう口上を述べようか考えたが、どうやらその必要はなさそうだった。



凪が門の前に降り立つと、長い槍を持った男のひとりが、他を制して言った。



「夏の郷の使者か」


尋ねられて、凪は頷いた。


来た方角と、ヒュウマに騎乗していることから、おおよその事情を察してくれたのだろう。


男は凪に、しばらくそこで待っているように告げると、他の門番と共になかへ入っていった。




ひとりヒュウマと取り残された凪は、あらためて秋麗殿の門を背に、辺りを見渡した。


一介の忍び烏が他の郷に来ることは、任務以外にない。



夏昊殿が山を削り、切り立った崖の上にあるのに比べて、秋麗殿は、こんもりとした山の緑を残している。

門へ続く欄干の細工には、紅玉がいくつもはめこまれており、高く昇った陽の光を反射してまたたいていた。


欄干に手をかけ、そのまま見下ろすと、市場があるのか小さく人の行き交う様子が見える。

いくつもの天幕が並ぶ風景をめずらしく眺めていると、ふいに、凪のまわりに影がさした。



思わず見あげると、

いつのまにか、音もなく、

欄干の上、

誰かが太陽を背に近く立っていた。


油断していたとはいえ、そうもたやすく背中をとられると思っていなかった凪は、動揺して相手にむき直った。



逆光になっているため、表情を読みとれない。

——と。

陽がかげった瞬間、相手は口を開いた。



「お前、——だな」



小さくつぶやかれた声を聞きとれずに、凪は眉をひそめた。

よく見ると、相手も自分と同じくらいの少年のようだった。


細い欄干の上に屈んでいる様子は、いかにも俊敏に、身が軽そうに見える。


色素の薄い髪は、陽をすかして燃えるように輝き、注意深くこちらを見つめている。


凪が圧倒されて何も言えないでいると、相手はもう一度言った。



「秋の郷の宮は、公務で忙しい。文を届けに来たなら、俺が預かってやる」


そう言うなり相手は、胸元に縫いつけてある書簡を奪い取ろうとしたため、凪はすんでのところで危うく身をひいた。



「何をする」



体勢を崩したまま、凪は驚きと怒りをもって相手をねめつけた。

門の近くで成り行きを見守っていたヒュウマも凪に駆け寄ったが、いきなり現れた少年に、どこかおびえている様子だった。


相手は悪びれない口調で言った。



「わざわざ届ける手間を、俺が省いてやろうと言っているんだ」


「そんなことは、誰も頼んでいない。これは直接宮にお渡しする」



少年は、欄干から見下ろす格好で言った。


「わからないやつだなぁ。俺が渡すのと、どう違うんだ。それにその文は、夏の郷の宮代わりからだろう」


「だから、何だというんだ」



得体のしれないやつに事情を知ったような顔で言われ、凪はムッとした。

相手は凪の腹立ちもかまわず言いはなった。



「どうせろくなものじゃないだろう。お前はさっさとその文を俺に渡して、早く郷へ帰った方がいい」



「——何を」



凪が怒りで顔を赤く染めたのと、少年が欄干を蹴ったのが同時だった。

相手は素早く凪の頰に当て身をくらわせると、再び文を抜き取ろうとした。




——やめろ。


そう叫んだつもりが、何も声にならない。

絶望的な気持ちが喉元までせりあがり、無力感で目の前が暗くなる。


ここで、この文を奪われてはいけない。


そう思うのに、体が動かなかった。


——と、その時、




固く閉ざされていた門が薄く開き、

陽の光をともなって、なかから天を裂くような鋭い声がした。



「おやめ」



凪が見あげると、濃い紅の袍をまとった女性ひとが、厳しい眼差しをこちらにむけていた。

先ほどの門番たちが、守るように周りを固めている。

その瞳も、髪の毛も、まとった袍と同じように赤い。



少年はしぶしぶ、といった体で凪から離れたが、抜き取った文は、彼の手元にあった。




「それを返しなさい。勝手なまねは、私がゆるしません」



その人は、少年が凪に文を返すのを見届けると、柔和な笑みを口元に浮かべて言った。



「とんだ失礼をしてしまいましたね。どうか、気を悪くしないで下さい」



「あなたは……」



やすやすと大切な書簡を、見ず知らずの少年に取られたショックから立ち直れないまま、凪はその人を見た。


耳元に紅玉の耳飾りが揺れているのを見て、凪は直後、ハッと思いあたり、地にひざまずいた。


するとその人は、再び微笑んで言った。




「頭をたれる必要はありません。あなたは宮代わりとしてここにいる。そして、あなたがもし平伏するのなら、あなたのあるじだけで良いのです」


「楓の宮さま」



凪が面をあげてつぶやくと、楓の宮は言った。



「慣れない場所に、さぞお疲れでしょう。先の非礼をお詫びしなければ。なかへお入り下さい」



***



回廊を楓の宮とともに歩いていくと、ほどなく大広間に行きあたった。

目の前には広大な庭園があり、咲き誇る花の甘やかな匂いがする。

それとも、香を焚いているのかもしれない。


こうして見ていると、夏の郷の中枢である夏昊殿が、質素に思えてくるくらいだった。


門からまっすぐここまで歩いてきたが、夏の郷のように、【影獅子】が寝起きする場所は、またこことは離れているのだろうか。



さまざまなことに思いをめぐらせていると、楓の宮は、広間の奥にある玉座に腰かけて言った。




「この庭に、あなたのための部屋を用意してあります。今日はひとまずそちらでお休みなさい」



ひざまずかなくてもいいと言われたが、巫女姫を前に立ち尽くしていることはできなかった。

凪はその場で片膝をつくと、胸元から書簡を抜き取り、それは楓の宮の前に差し出された。



楓の宮は、何も言わずに文に目を通した。


これで、自分の成すべきことは終わった。


凪が内心ホッとしていると、楓の宮が静かに口を開いた。



「あなたにも、言伝が書いてありますね」



思わぬ言葉に、凪は面をあげ、そのまま固まった。


「私に——ですか」



楓の宮は、凪を見つめてひとつ頷くと、文に目をおとして、その言葉を告げた。



「余力があるようなら、秋の郷に続き、次は春の郷へむかうようにと」




***




案内された部屋には寝台があり、ひとりになった途端、凪は仰向けでそのまま倒れ込んだ。


やわらかい布の感触。


開け放った窓から入る風が、頰をなぜてゆく。

凪は目をつむった。



篠竹は、秋の郷に行くように言っただけだ。

文は、あとで書き足されたのだろうか。

これ以上の助けが必要になるという、異変を予測して。


よりによって、当の葵の宮にも秋の郷へ行くことを知られていたのだ。

あの場で、あれ以上のことを口にすることはできなかったのかもしれない。



ふいに、

気配を感じて凪は起きあがった。


すると、切り抜かれた窓枠に、先ほどの少年が腰かけて、足を揺らしながらこちらを見つめている。



凪はうんざりした。

再び目をつむって倒れこみたくなる。


少年は、そんなことはおかまいなしに、目線を寝台の前にあるガラスのつくえにむけた。



「食べないのか、それ」



卓の上には、まるめた餅や、色とりどりの果物が、器に盛られて美しく並んでいる。


空腹でないと言ったら嘘になるが、先ほど楓の宮に告げられた言葉が頭のなかをめぐって、すぐに食べる気にはならなかった。



凪が何も返事をしないでいると、少年は機嫌をそこねた声でぼそりとつぶやいた。




「さっきは悪かったな」



思わず凪が少年の方を見ると、バツが悪いのか、彼は視線をそらしたままだった。


「お前にとっては、その方がいいと思ったんだ。今でもそう思うけど、宮にこれ以上怒られるのも、面白くないもんな」



その言い方が、年相応に子どもじみていて、凪はおかしくなった。

こうやって見ると、年下にさえ見える。

それほど小柄でいながら、凪は彼にかなわなかったのだ。

先が思いやられる。



「お前、名前は何ていうんだよ」



唐突に、彼は聞いた。



「——凪」



そっちは、と書こうとして、凪は口をつぐむ。

余計な干渉をしてはいけないのだ。

聞かれるまま、とっさに答えたことを、少しだけ後悔した。

少年は、足を揺らしたまま聞いた。




「本当に、明日春の郷へ行くのか」


まるで、確かめるような言い方だった。

凪は一度言葉を呑み込むと、頷いて言った。




「任務なら、仕方ない」


本当は、夏の郷へ帰りたい気持ちもあった。

葵の宮の、怒った顔が浮かぶ。

すると少年は、突然、明るい声で言った。




「じゃあ、俺も、ついて行ってやろうか」




凪は問い返すのも忘れて、少年に見入ってしまった。

彼は続けて言った。



「お前、凪、だっけ。なんか危なっかしいし、俺が一緒にいたら安心だろ」



あまりの言い草に、凪は怒るのも忘れて、ただ首をぶんぶん横にふった。



「そんなこと、絶対にだめだ。これは俺に与えられた任務なんだから。それに、君には君の仕事があるだろう」



仮にも凪は、郷を代表する【忍び烏】なのだ。

ヒュウマを貸してもらってるだけでも身に余ることなのに、他の郷の人まで巻き込むわけにはいかない。



凪が必死に否定するため、その気になっていた少年も、しぶしぶ最後にはあきらめた様子だった。



「本当に、頭がかたいやつだなぁ。せっかく俺が協力しようって言ってるのに」



少年はそう言うと、凪との会話にも飽きてきたようで、ぴょんと窓枠を飛び越えると、庭園に降り立った。



凪が窓辺から見ると、少年は首だけはすにむけて言った。




「俺は琥珀こはく。何かあれば、いつでも呼べよ。きっと助けてやるから」




そんなに自分は、たよりなく見えるだろうか。

脱力しそうな気持ちで、凪は見送った。



あいつも【影獅子】のひとりなんだろうか。

自分と同じように。


それしかない気もしたし、違うような気もした。


凪は、器の上の果物をひとつ取ると、おもむろにひと口かじって、甘みが口に広がるのにまかせた。






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