第2話 出立
夏昊殿を出た後、
渡り廊下の先に、ひとつの人影を見つけて凪は立ちどまった。
凪が近づくと、それを待っていたように、その人は柵から背をはなして言った。
「話は終わったのか」
小柄な凪は相手を見上げると、思わず呼びかけた。
「
旋は共に夏の宮で寝起きする【忍び烏】のひとりで、凪より年上だった。
夏昊殿に入る機会など、そうそうあるものではない。これがただならぬ事態だと、旋も内心察しているのだろう。
しかし、あえて何も聞くつもりはない様子で言った。
「それで、ここを出るのか」
静かに問われた凪は、旋の隣に並ぶと、ひとつ頷いた。
「明朝、ここを発つ」
「ずいぶん急なんだな」
夜明けが近いのか、東の空は、闇より明るい群青に染まっている。
「登極が近いからね」
凪は、声に含まれた批難には気づかないふりをして言った。
そう、登極が近い。
凪たち【忍び烏】は、夏の郷の巫女姫である《葵の宮》のために存在するといっても過言ではない。
その巫女姫に危険が迫っているのなら、そして宮代である篠竹の命ならば、遂行しないわけにはいかないのだ。
旋は、やや不満そうに、口をとがらせた。
「他にも使えるやつはいるだろうに。なんでわざわざお前が抜擢されたんだ」
それは気になっていたことだっただけに、そこを突かれて、凪は何も答えられなかった。
しかも、篠竹の話した内容は、凪の想像の上をいくものだった。
もしも本当に、冬の郷の四獣がまぎれているのなら——そして《葵の宮》に、危害を加えるようなことが起こるのだとしたら、何としても避けなければいけない。
一刻も早く、《楓の宮》と謁見しなければ。
でも、なぜそんな重大な使命を託されたのかは、凪にもわからなかった。
他にも、旋をはじめ、優秀な【忍び烏】はたくさんいる。
それにも関わらず。
「まさか徒歩で行くわけじゃないだろう」
いくら隣——方角では西——に位置するとはいえ、秋の郷までは、かなり距離がある。
しかも、秋の郷の巫女姫、《楓の宮》が住まう
旋の懸念をよそに、凪はつぶやいた。
「それなら心配いらない。特別にヒュウマで行けるそうだから」
ヒュウマとは、飛翔する馬、という意味で、特別な奇獣だった。
背にはふたつの大きな翼があり、一日で千里を天翔けると言われていた。
「それはすごい。本当に、大使として行くんだな」
「うん……」
凪は、無意識に視線を西の方角へむけた。
ヒュウマで行けるなんて、名誉なことだ。
頭ではそう理解していても、どこか不可解な気持ちが、暗雲のように胸にたちこめている。
それが重大な使命のせいなのか、冬の四獣のせいなのか、凪にもわからなかった。
理由のない不安を押しやるように、凪はふりむくと、旋の方を見た。
「早くすませて、ここに戻ってくるよ」
それを聞いて、旋は軽く、凪の背をたたいた。
「大事な役目なんだ。しっかり果たしてこい」
そう言われて、
凪はこれが【忍び烏】として、初めての単独の任務であることに気づいた。
旋の言うとおりだ、と凪は思った。
自分は、歯車のひとつ。
【忍び烏】として、使命を果たすだけだ。
そう思うと、迷いが吹っ切れる気がした。
凪はその言葉をきっかけに、渡り廊下を再び歩き出した。
***
篠竹の言うとおり、
奇獣舎には、ひときわ優れたヒュウマがつながれていた。
漆黒のぬれた瞳は、凪を認めると、物言いたげにこちらを見返してくる。
たたまれた翼も、瞳と同様につややかな黒色をしていて、それは予想よりもやわらかそうだった。
黒い肢体は毛並みに光沢があり、空を翔けるのにふさわしい、しなやかな筋肉を内に秘めている。
——これが、ヒュウマか。
式典や行事で、見かけたことはある。
でも実際に、ここまで間近にするのは、これが初めてだ。
そう思うと、重大な任務を任されているという実感が、今さら湧きあがった。
「よろしくな」
小声でつぶやいて背をなでると、ヒュウマはおとなしく、凪に頭をたれた。
従順で温和な性格の奇獣なのだ。
奇獣舎は、夏昊殿の東、ひときわ切り立った崖の上にある。
そこから夏昊殿と、さらには夏の郷の入り口である
自分はそこに行き、篠竹から託された文を渡すだけでいい。
凪は手綱をとると、ヒュウマとともに静かに奇獣舎を出た。
崖の上からは、霞みたった夏の郷が、はるかに見渡せる。
そこでヒュウマとともに佇んでいると、群青の空が、やけに近く見えた。
——《葵の宮》
凪が夏の宮に来たばかりの頃、まだ幼かった姫宮は、【忍び烏】と共にいることもめずらしくなかった。
登極が決まってから、もうずいぶん長く会っていない気がする。
勝気で、好奇心旺盛で、姫宮という枠に、どこかおさまらない少女だった。
登極したあかつきには、きっと良い巫女姫になるだろう。
そんな回想を胸にヒュウマに乗って飛び立とうとした時——
後ろから物音がして、凪は
その人物は、
頭まで灰色の布で体を覆っていた。
それで身を隠しているつもりらしいが、よほど急いで来たのか、頰は上気しており、瑠璃色の髪が布からのぞいている。
その髪と同色の瞳が、
凪の姿を射抜くように、強くきらめいた。
凪が絶句したのは、
まさかここで会うとは思わなかったからだ。
そしてこの人が、こんな場所に、いていいはずはなかった。
「あ、おいの宮……」
かすれた声で細くつぶやくと、その少女は凪を見つめたまま、断定的に厳しく言いはなった。
「秋の郷に行く必要はないわ」
数秒、あまりの言い草に凪は固まったが、ハッと我にかえるとヒュウマから降り、地に片膝をついた。
「お言葉ですが……篠竹さまから文を預かっておりまして……」
しどろもどろにそう答えると、瑠璃色の瞳が細く、凪をにらみつけた。
《葵の宮》は、声に怒りをにじませたまま言った。
「同じことを何度も言わせないで。秋の郷に行く必要はない。よって、その文を宮に渡す必要もない」
——《葵の宮》は、冬の四獣がまぎれているという噂をご存知なのだろうか。
冷や汗がでる思いで、凪は考える。
知らないのかもしれない。
それで、凪の行動を不審がるのだろう。
しかし、誰がわざわざこの話を《葵の宮》の耳に入れたのだろう。
色んな思いがぐるぐる頭のなかをめぐって、凪はどうしたらいいかわからなくなりそうだった。
篠竹の話したことを思いだす。
まさかここで、
今発とうとしているところで、とりやめにすることはできない。
その思いにとりすがるように、
意を決して凪は
「私は、篠竹さまの
《葵の宮》は、怒りといらだちを、さらにつのらせた。
「私の
凪は一度、唇を噛みしめた。
そして、消え入りそうな声でいった。
「……今、この郷の宮代は、篠竹さまでありますれば」
「私は登極していないから、まだ宮ではないということね」
《葵の宮》はそう切り返すと、凪に背をむけた。
そして、あきらめたような口調でつけ加えた。
「それなら、さっさと行ってしまいなさい」
その場にいる《葵の宮》をおいて行っていいものか、凪にしてみれば非常に立ち去りがたかったが——
このままだと、本当に夜が明けてしまう。
そうなっては、さらにここから発てなくなるだろう。
凪がヒュウマに乗っているところは、誰にも見られてはいけない約束なのだ。
凪は後ろ髪ひかれる思いだったが、やむにやまれず、ヒュウマに飛び乗った。
ヒュウマはそれを待っていたように強く地を蹴ると、またたくまに空へ飛びあがった。
「——葵の宮さま」
凪は最後呼びかけたが、もう声は届かなかったかもしれない。
そのまま仄白く明けていく空にむかって、ヒュウマは凪とともに雲にまぎれていった。
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