第17話 残り香

 しゅっという衣擦れの音をさせながら、葛野は黒紫の官服をまとう。うだるような暑さも、さすがに夜明け前のこんな時間にはいくらか和らいでいる。

 「では、行ってくる。」

 髪をとかしつけて冠を被ると、着替えを手伝っていた妻にそう言って部屋を出た。

 見事に飼い太らせた栗毛の愛馬にはすでに鞍が置かれている。葛野は鞍に跨ると、下人に馬を引かせて門を出た。

 葛野が普段、暮らしているこの邸は妻の持ち物だ。祖母の暮らす本邸にはあまり足を向けない。祖母がもう口だししてくるようなことはないのだとわかっていても、苦手で好きになれないことに変わりはない。そこは理屈の問題ではなかった。

 祖父である先帝崩御のおりに倒れた祖母は、ついに今にいたるも本復していない。半ば夢の内にいるかのように振る舞いながら、時に歌を紡ぎだす。当然表立った場に出ることも絶えてない。

 葛野は妻の縁で藤原不比等と付き合うようになり、その引き立てで官界に踏み出した。雅楽や山陵の管理などに携わり、今では治部卿の地位にある。

 宮門のそばで、同じように騎乗して出仕してきた不比等と出会った。不比等の馬は艷やかな黒毛だ。今、葛野が乗っている栗毛も不比等から贈られたものだった。

 「夜明け前だというのにたいして涼しくもありませんな。」

 「まことに。」

 二人は馬を並べて宮門をくぐる。

 東の空が明らむのに応えるように、じい、とその日最初の蝉が鳴いた。


 朝廷という以上、毎朝の朝議は当然なれど、この日は特に御門からのお召があり、皇族、公卿、官人は打ち揃って御門の出御をお迎えした。

 御門のお召に先日ついに卒去した太政大臣高市皇子の件が絡んでいることは、誰でもわかっている。具体的には高市がいなくなったことで、皇嗣の問題がくっきりと浮かび上がったと言うべきなのかもしれない。

 御門は先帝との間にたった一人しか御子を産んでいない。その草壁皇子は先帝の死後しばらくして夭折した。草壁皇子は正妃むかいめとの間に三人の子をもうけており、その内の一人は皇子でもある。

 ただ、この皇子を皇嗣とするのは簡単な事ではない。

 先帝には皇后であった御門の他にも数多の妃、夫人が仕えており、その腹々には何人もの皇子が生まれている。草壁と、その死の直前に謀反を冒して処刑された大津皇子を除けば決めてには欠けるものの、皇嗣として不足のない皇子は幾人かいた。その中で最も有力だったのが、この度亡くなった高市皇子だ。皇子達の最年長者だった高市は実績を積んですでに太政大臣大臣にまで上りつめていた。正妃も草壁の正妃の同母姉で、御門の最も血の濃い異母妹でもある。高市の息子が、草壁の娘である皇女を皇后おおきさきとして、即位するのではないかという憶測も一部にはあった。

 しかし、草壁の子、軽はまだ十四歳。高市の子長屋もやっと二十一。しかも共に父が即位していないという弱みがある。

 議論は白熱し、紛糾した。

 実を言えば葛野は迷っていた。

 この日に先立ち邸を訪れた不比等に、密かにそそのかされていることがあったのだ。

 「御位は御門の御血筋に伝え給うべきと申されませ。」

 兄弟相続や、異腹の皇子を立てるのではなく、御門の御自らの血筋への譲位となれば、自然と軽皇子が最有力に浮かび上がる。

 そして、その言葉を葛野が口にする事で、そこには重々しさが加わる。

 葛野が、即位そのものを否定された先々帝の嫡子であることは、隠れもない事実だ。血筋だけで言えば葛野もまた、皇位を狙える存在となる。

 両祖父と父が天皇すめらぎ

 母は皇后。

 むしろ本来であれば誰よりも正統な血筋だとさえ言えるのだから。

 空転する議論に、場の空気が奇妙に緩み始める。

 ふと、不比等と目があった。

 「私の思いますに。」

 するりと口をついた言葉は、歪に緩んだ場に響き渡る。

 「現に玉座におわされる御門の、順当なすえにこそ御位は伝えられるべきと存じます。」

 高くなるざわめきに、今度は意図的に声を張った。

 「兄弟での相続は諍いのもと。天意は人の身にははかりがたきもの。ならば誰にもわかる形での継承こそが、もっともあるべき形ではございますまいか。」

 皮肉に、聞こえただろうか。

 実父から位を譲り受けた葛野の父は、叔父に追い落とされ、即位の事実さえ認められていない。

 「葛野どのは良き事を申される。」

 静かな声が、響く。

 柔らかく、深く、それでいて厳しさをはらんだ声。

 この国をしろしめす今上、鸕野讚良うののさらら

 葛野の父を殺したのは、先帝とその皇后であったこの女性だ。

 「争いは亡国のもと。国の基を確かならしめるに、皇位の継承の形を定めるは大切な事。葛野どのの達見をもって、まさにその基といたしましょう。」

 皇嗣は軽皇子と決まった。


 「ようなされました。」

 満面の笑みの不比等に、葛野は苦く笑った。

 「これで御門のお心にも、葛野どのの赤心せきしんが届いたことでしょう。」

 あれは赤心まごころだったろうか。

 葛野はただ、生きたいだけだ。

 生きて、血を遺したい。

 父の、母の、そして自分の命をつないでゆくことで、確かにここにあったのだと示したい。

 ふわ。

 香りがした。

 初夏を告げる甘ったるくて濃い香り。今更香ってくるには少し、季節が進みすぎている。母の殯の記憶に纏わりつく、祖母を連想させる香り。

 「どうかなさいましたか。」

 立ち止まった葛野に不比等が問いかける。

 「いえ。」

 葛野は一瞬とめた歩みをすぐに再開する。

 香りはまるで吹き抜けるように一瞬で消えて、なんの残り香も遺してはいかなかった。



                終

 

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巫の系譜 真夜中 緒 @mayonaka-hajime

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