第16話 離魂

 御門が崩御した。

 それに先立ち、長く行方の知れなかった剣が、御門のお手許にもどったらしい。

 その話は正式なものではなく、あくまで噂であったけれど、速やかにあまねく宮中に広がった。

 御門の崩御の直前に、祖母が倒れたのを見ていた葛野には、胸に落ちるものがあった。

 終わったのだ。

 神剣はあるべき場所に戻された。

 もう、その迎え手となる事を、祖母にかき口説かれることはない。

 きっと祖母は御門に負けた。

 御門と、その配下に負けたのだ。

 もう誰も、葛野を皇子と呼びはしない。

 葛野王

 それでいい。

 祖母は自分を憎んでいるだろう。

 憎まないはずがない。

 寝室で倒れた祖母は、今もまだ目を覚まさない。目覚めれば、祖母は憎い自分の事を殺そうとするだろうか。

 葛野に残った懸念は、ただそれだけだった。


 魂離たまがれる。

 朦朧とした意識の中、自分の身体にとどまっていることが出来ない。

 身体を抜け出た額田は、様々な場所を彷徨った。

 死に瀕した御門。

 焦りながら道を急ぐ熱田の使者。

 それから、宮中に仕える猿女真礼。

 全ては崩れてしまった。

 あれ程に心にかけ、葛野に迎えさせようとした神剣の気配に、額田は無意識に引き寄せられる。

 今、神剣を守り、仕えているのは真礼だ。

 いずれ熱田に戻す日まで真礼が神剣をなだめ、鎮めている。

 徹底的に清められた奥宮は、冷たく穢を拒む。俗にある祝である額田など、奥宮にとっては穢そのものだ。額田は硬く冷たく澄んだ結界に弾かれる。

 だが、気配がする。

 神剣の気配だ。

 額田はその気配を頼りに、結界をかわして入り込む。

 剣と、女がいた。

 美しい巫女、猿女真礼。

 清らかに硬く澄み渡る当代一の猿女。

 真礼はふと顔を上げた。顔を上げて額田を見る。

 ーなぜ、あなたの同母弟いろせを行かせたの。

 恨み言は声にならずに真礼へと届く。

 薄く笑って真礼が答える。

 「阿礼は言葉ことのはの墓守。すでに比売田の名乗りを捨てた者。そして御門の舎人です。御門が御自らの舎人を使うのを、妨げる理由がございましょうか。」

 言葉の墓守。

 初めて聞く言葉が小さく額田の胸を打つが、今はそれを問おうとは思わない。

 ー詭弁だわ。あなたが同母弟いろせを妨げられなかったわけじゃない。あなたは妨げなかったのよ。自分の意志で。

 薄い笑みが薄いまま、ふわりと広がった。

 ーいったいこれからどうする気なの?

 問いかけは真礼にだったのか、自分自身にだったのか。

 言葉を紡ぎ終わるよりも早く、結界から弾き出される。

 彷徨う 彷徨う 彷徨う。

 額田の意識は様々な景色の欠片を渡る。

 戦場、津波、崩れた山、兵を乗せて海を渡る軍船いくさぶね

 現在を、過去を、ただ押し流されるように彷徨い続ける。

 初めて大海人を通わせた夜。

 甘い香の赤子。

 海を渡ってきた人形。

 そういえば、あの人形はどうなったのだったろう。姉の鏡が鎌足に下賜された折に持っていったのだったような。

 そうだ、子を産まなかった姉にはちょうどいい。そんな事を思った記憶がある。

 姉は鎌足の子供たちを嫡母として慈しんだ。

 ふと、幼い笑顔がよぎる。

 幼いながらに美しい、ろうたけた娘。

 その娘の、はにかむような笑顔。

 額田が産んだたった一人の吾子あこ

 ずっと、人形のような娘だと思っていた。

 美しくて、大きく感情を動かさない娘。

 流されるように夫を迎え、黙って毒杯をあおった娘。

 あの娘もこんな風に笑うことがあったのだ。

 毒杯を与えたのは額田だった。

 御門に勧められれば当たり前のように新たな夫を迎え入れてしまいそうな娘が邪魔だった。

 葛野を即位させるつもりだった。

 この国のあり方を、あるべき姿へ戻すために。

 なのに、葛野は額田を拒んだ。

 葛野に対する苛立ちが、憎しみの影を帯びる。葛野が神剣を迎え、運んでいれば、多くの事が変わったはずだったのに。

 ふわり。

 絡め取られる感触。

 絡め取られ、囚われる。

 「十市?」

 この気配は十市だ。

 十市が額田を捕らえている。

 額田が生んだ娘。

 額田が殺した娘。

 すでに穢れの消えた死の気配が、額田に寄り添い絡め取る。

 死の気配と清浄を共にまとっていた稗田阿礼。

 額田の俗にある言霊の力を、死の気配が抑え込む。

 それは最も生々しい生と、洗い流されたような死。

 母と娘の姿をとって絡まりあい、もつれ合う。

 そうだ十市は額田の娘。巫の系譜に連なる者。

 ー歌はほとんど仕込まなかったわ。

 歌だけでなく、ほとんど何も。だから十市に何ができるのか、額田にはまるでわからない。

 忙し過ぎる額田にかまわれる事なく十市は育ち、育つに連れて感情の薄い娘になったのだ。

 十市が額田を捕らえる。

 額田が、ほとんど初めて十市を見る。

 生と死の世界を異にして、二人は初めて向かい合う。

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