第15話 使者
何かが額田の琴線を揺らした。
何かが、誰かが、神剣の社に向かっている。
ほとんど同時に、
「御門が内々の使者を社に。」
風に紛れるような囁きに、息をのむ。
早すぎる。
御門のお側には息のかかった者を潜りこませてあったが、皇后の側にはそれができなかった。だから神剣の話を掴んだのは、皇后なのかもしれない。
それでも、御門が勅使を立てるとなればそれなりの波が立つはずで、その使いが立つまでに動きを掴めない可能性を、額田は考えていなかった。
しかし、御門の使いはすでに社の近くにまで迫っている。
一応の用心に張り巡らせておいた額田の結界が、その接近に揺れている。
誰だろう。
正式の賑々しい勅使でなく、神剣をお迎えできるほどの使い。
額田は急いで自分の寝室に戻った。
地震の後に新築した寝室には、それまでの寝室がそうであったと同じように、結界の陣が敷かれている。額田にとっては最も集中して術を使える場所だ。
澄み切ったような清浄と、濃密な死の気配。一見矛盾するような二つの気配は、分かち難く結びついて共存している。
死の気配はすでに穢を帯びてはいず、その事がその危うい共存を可能にしているのかもしれない。
ふ、と、脳裏に顔が浮かぶ。
猿女真礼とそっくりの面差し。
稗田阿礼。
濃い死の気配をまとっていた舎人は、真礼の双子の弟だときいた。
猿女に通じるほどの清浄と、死そのもののような気配。あんなものを共存させうる者が何人もいるはずがない。
気になって一応調べさせた阿礼は、確かに奇妙な存在だった。
前比売田大刀自の死に際して一族の名である比売田の名乗りを稗田に変え、舎人でありながら警備ではなく、故事の記録の仕事に携わっている。
名乗りを変えた程なのだから、一族を放逐されているのかと思えばそういうわけでもないようで、なんとも中途半端な存在なのだ。
ただ、携わっているのは故事、むしろ猿女の領分であり、歌人に係る者でもなかったので、額田もそれ以上は探らずに放置しておいたのだった。
その阿礼が、神剣の社に向かっている。
彼を神剣は迎え手として受け入れるだろうか。
…受け入れるだろう。
受け入れないはずがない。
かつて英雄と戦場を馳せた剣。
数多の血を浴びた剣。
清浄と死の気配を共に纏う男と相性が悪いわけがない。
もしかしたら、天孫の血を引く葛野にもひけはとらないのではないか。
比売田も、猿女真礼も、額田が葛野を皇嗣に立てようとする事を拒まなかったはずなのに、なぜその比売田の出の阿礼が、額田の邪魔をするのだろう。
ぎり、と唇を噛む。
もっと早く、葛野に神剣えを迎えさせていれば。
今から葛野を走らせても間に合わない。
間に合ったところで、神剣が葛野を選ぶ確証もない。
何よりも、葛野がその役目を固く拒んでいる。
どうして
絞りきることのできない問が胸に浮かぶ。
どうして阿礼のような男がいるのか
どうして比売田は阿礼を放置しているのか
どうして神剣の話を皇后が掴んだのか
どうして、葛野は神剣の迎え手となる事を拒むのか。
せめてもと、神剣の社の結界に力を送る。
阻む言霊
拒む言霊
阿礼が社に拒まれれば、それは御門が拒まれた事。阿礼の歩みにすがり、まとわりつき、押し止めようと試みる。
阿礼は軽やかに、額田の力をはらう。
いや、はらっているわけではない。額田の力は阿礼に及ばないのだ。
神剣が阿礼の迎えを望んでいる。
なんでもない、当たり前の事のように、阿礼は神剣を受け取った。
長く本来の社から引き離され、かつて盗人に手荒に扱われ、荒ぶっているはずの剣。
祀る人々の真摯な誠意に、その荒ぶりをかろうじて抑えているのであろう剣は、阿礼の迎えを受け入れた。
もう、無理だ。
神剣を見出して以来、細心の注意を払って編み上げてきたものが、全てぐずぐずと解けてゆく。
絶望感の中で、力を使い果たした額田は意識を手放した。
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