第14話 黄丹

 くつくつと鍋が煮えている。

 濃く煮出された液に布を浸して揺らす。

 浸して、揺らして、引き上げる。

 幾度か繰り返した布は、ほのかに赤味を帯びた鮮やかな黄に染まった。

 葛野が眉を顰める。

 先日、干した紅花を贈ってきた者がいる事は知っている。紅花は特に貴重な染料だ。

 その紅花を梔子に加えて赤味を足した黄丹の色は、皇太子以外に着用する事は許されない。今染められている色は黄丹というほどに赤くはないが、それでも際どい色であるのは確かだ。

 祖母と顔を合わせると、神剣をお迎えに行くの行かないのの話ばかりなので、葛野は最近遠乗りばかりしている。今日も祖母に見つかる前に出かけようと厩に来て、家人が染物をしているのに出くわしたのだ。鮮やかな黄に染められた布は、板にぴんと張り付けて乾かされる。いずれ葛野の衣に仕立て上げられるのだろうが、それを身につけることは避けようと葛野は思った。

 厩番が引き出してきた馬に跨ると、逃げるように邸を出る。

 特に行きたい場所があるというわけでもない。ただ、祖母との不毛な会話から逃げたいばかりに出た遠乗りだ。どうして祖母はあれ程に、葛野を皇位につけることに執着するのか。

 いや、本当は葛野にもわかっている。

 白村江の敗戦からこちら、朝廷は大陸の動向を探り、侮られないことに汲々としている。むしろ葛野にとっての朝廷や政は、そういうものだと言い切ってもいい。白村江の敗戦は葛野の生まれる前だ。

 敗戦によって半島の権益を決定的に失い、同時に大陸の強さを身を持って知った日本は、なんとか足掻き、追いつき対等な立場となるために、積極的に大陸の文化を取り入れた。

 その過程で変わってしまうものがある事は、致し方のないことだろうと葛野は思う。

 しかし祖母にはどうしてもその変化が許せないらしい。

 川の流れを押し止め、水を川上へ戻そうとするような祖母のやりようは、あまりにも馬鹿げている。そんなむなしい執着のために、使い潰されたくはない。

 自ら縊れる父の影。

 ゆらゆらと揺れる爪先。

 見たはずのない、父の死に様。

 祖母がなそうとしているのは、葛野を父の立場に追い込もうとする事だ。葛野の生命を惜しげもなく、自身の執着のためにつぎ込もうとしている。

 もしも必要だと感じれば、祖母は葛野を躊躇いなく殺すだろう。母の事を殺したように。だが、今は葛野を殺すことはできないはずだ。祖母には葛野以外の駒がないのだから。

 いっそ、御門に神剣の事を知らせようかとも思うが、葛野には祖母に知られずに御門につなぎを取ることのできる術がない。結局、祖母から逃げ回るぐらいしかできないのが、葛野の現実なのだ。

 馬を進める葛野を時々甘い香がかすめる。まとわりつく梔子の香はじわりと葛野に絡みつき、おいすがる。

 忌々しい。

 老いてなお艶やかな祖母の笑みが、葛野の脳裏に広がる。

 梔子の染めにひとつまみの紅花を加えさせたのは、間違いなく祖母だ。そういうことのひとつひとつが、たまらなく厭わしい。

 静かに生きたいと、願ってはいけないだろうか。

 母のように、日々の生活の中に幸いを見つけながら生きることの、何が悪いと言うのだろう。

 ひゅっ

 手にした鞭で手近の梔子の花を払う。茶色く萎れかけた花は、それでも濃い香を撒き散らしながら散った。

 

 

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