第13話 眼差

 時は来た。

 災いの続いた挙げ句の未曾有の大地震。

 御門は病み臥せっている。

 今こそお迎えした御剣を手に、葛野が堂々と朝堂に乗り込むべき時だ。

 しかし。

 「私はその任にたえません。」

 思いもよらない葛野の反抗に、額田は困惑する。

 「そもそも私はあまりに若輩の身。皇子と認められたところで、なぜ今上のお後を任されましょう。まして相応しい年頃の皇子が御門にはおいでになります。」

 確かに葛野は若い。

 十七歳という歳は、皇位を継ぐに十分とされるものではない。

 そして今上には血筋、年齢共により皇位に相応しい、草壁、大津の両皇子がいる。

 しかし、今しかないのだ。

 今でなければ、額田の力が落ちてしまう。

 今上は額田の最初の夫だ。

 その今上が死病に倒れた。病は必ずしも歳と関係するものではないが、今上に関して言えば老いと無関係ではない。そして今上が老いたように、額田もまた老いているのだ。

 額田が十全に力をふるえる時間は、もう長くはない。

 草薙剣を梃子てこに歴史ある処族をまとめ、重なる災いと死病に弱っているであろう今上を押し切る。

 まさに今こそというこの時に、よりにもよって葛野に拒絶されようとは。

 「あなたは先帝と皇后の唯一の皇子。しかも今上にとっても御孫にあたられます。なんの見劣りをいたしましょう。」

 かき口説いても葛野は揺れない。

 葛野には、額田の歌人としての言葉が効かない。

 それどころか瞳にいっそう強い光を宿して、強く強く拒絶する。

 かき口説き、説得し、なだめすかし、時ばかりが過ぎてゆく。

 なぜ。

 なぜ、こんなことになったのだろう。

 今まで葛野は反抗らしい反抗をしなかった。なのになぜ今、この大切な時になって。

 十市なら。

 十市ならきっと淡々と、母に言われるままに神剣を迎え、御門のもとへと運んだだろう。

 十市がいたなら、葛野もまた動かす事ができたのではないか。

 しかし、十市はいない。死んだのだ。

 額田の渡した毒杯を、抵抗もなく飲み干して。

 十市の横顔が、その白い頬が額田の脳裏をよぎる。

 毒を煽った細い首筋。

 伏せた睫毛の落とした濃い影。

 杯を支える指先の、桜貝を思わせる爪の色。

 飲み干して、開いた瞳は静かに杯を見つめ、それから額田に向き直った。

 いつも人形のように美しかった額田の娘。

 結局歌人の技を伝えることも、ほとんどしなかった。額田の姉、鏡は娘を生んではいないので、額田の継いできた歌人の系統は、額田の代で途絶えることになる。

 その事を気にした事はなかった。

 歌人の筋は額田姉妹だけではない。額田は数多いる歌人の第一人者ではあるけれど、唯一の歌人というわけではない。俗と強く結びついてきた歌人は強かだ。歌詠みと呼ばれる者が絶える事は、まずありえはしないだろう。

 だが今、額田は自分に継承者のいない事を、初めて強く意識した。

 葛野にこれ程に言葉が拒まれるということは、もしかしたら額田の力が落ち始めているということなのかもしれない。あるいは男と言えども血縁者である葛野には、力が通じにくいのだろうか。

 美しい、美しいだけの十市の横顔。

 あの娘には額田の力は通じていたのだろうか。考えてみれば、いつも言われるままに生きていたあの娘に自分の力が及んでいたのかどうか、額田にはわからない。ずっと気にした事もなかった。

 静かに毒を飲み干して伏せた睫毛。

 額田をまっすぐ見つめた眼差し。

 ぞくり

 背が冷たくなるのを感じる。

 冷たすぎて、火傷したような衝撃を感じるほどに。

 美しく、静かな娘。

 今、額田に正面から歯向かう葛野とは対照的だ。

 しかし。

 眼差しが、額田を真っ直ぐに射抜いて歯向かうその眼差しが、驚くほどに十市と似ている。あの最期の夜に毒杯を飲み干して、額田を見つめた眼差しに。

 今しかない。

 今こそ、時は来た。

 昂ぶる心を、ひやりとその眼差しが撫でる。

 ただ静かに額田を見つめ、見通す眼差し。

 額田の力の及ばない眼差し。

 時期は長くない。

 今、掴まねば掴めない。

 じりじりとした焦燥に噛まれながら、額田は葛野の拒絶を突破するすべを見つけ出せずにいた。

 

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