第12話 疑惑

 御門が病がちであられるという。

 その噂を聞いたとき、葛野はぞわりと悪寒を感じた。

 御門、亡き母の父君、葛野の祖父。

 血縁でありながら遠い存在であるその人と葛野はほとんどお会いした事がない。情だけの話で言えば御門の死はそれほどに葛野を揺らしはしないだろう。

 だが、死なれるのは困る。

 祖母である額田が葛野を皇位につけようと画策している現状で、御門に倒れられては状況が一気に動くだろう。

 葛野は額田の目論見がうまくいくとは思っていない。うまくいくはずがないではないか。

 葛野が王でなく皇子と認められたところで、御門には皇后腹と故人である皇后の姉の産んだ二人の皇子がいるのだ。若輩の孫に皇位を譲る、どんな理由があるだろう。祖母が夢を見るのは勝手だが、巻き込まれるのは迷惑でしかない。

 自ら縊れる父の姿。

 見たはずのないその記憶は、いつも葛野の内にあり、絶えず葛野に語りかける。

 生きろ。

 父のようになってはならない。

 至尊の位を目指すよりも、まずはこの世に生きてあれ。

 ふと、母の歌声を思った。

 甘い、甘い、香りがしている。

 梔子だ。

 その香が母を連想させたらしい。

 どうして梔子の香に母を連想するのか、最初は自分でもわからなかったが、ある時不意に思い出した。

 母の殯屋のそばには梔子が群れ咲いていた。その、目にも鼻にも鮮やかだったはずの花が、葛野の記憶からごっそりと落ちてしまっていたのだ。

 葛野は梔子が好きではない。

 あまりに祖母に似ているからだ。

 これみよがしに咲いて、茶色く枯れても枝にあり、いつまでも甘ったるい香を放っている。

 母の棺を満たしていた死の穢。

 母の殯屋を取り巻いていた梔子の香。

 あの美しい母に、なんと不似合いな弔いだろう。

 そもそもなぜ、母は死んだのか。

 母の死は突然だった。なんの不調も予兆もなく、母は死んだ。よりによって御門の大祓に供奉する事の決まっていたその朝に。

 そんな偶然がありえるのだろうか。

 では母の死が偶然ではないとして。

 誰が母を手にかけたのか。

 母は無力だった。今や御門の皇女であるという以外、母に権威らしきものはない。父の即位ごと、母の立后はなかったことにされていた。いったいあの無力な母を、なんのための殺すというのだろう。

 例えば、祖父である御門の権威を傷つけるために母は殺されたのだろうか。

 確かに母の死によって御門の大祓は中止になった。だが、母を殺す必要があるだろうか。大祓のための斎宮に火でもつければすむことではないか。実際に母の死に遅れること数日で斎宮は焼け落ちたのだ。

 「おお、皇子さまにはお変わりもなく。」

 遠駆の帰りに、梔子の香をきっかけに物思いに沈んでいた葛野に、声をかけてきたのは祖母の客だった。古いいわれのある一族の出で、御門のやりようを苦々しく思っている。彼に限らず祖母の客にはそういう輩が多い。

 そしてそういう輩に限って、葛野の事を「皇子」と呼ぶ。

 「そなたも息災そうでなにより。」

 当たり障りなく、言葉を返す。

 「宮にお帰りですかな。ご一緒させていただきたい。」

 拒む適当な理由もなく、葛野は男と馬を並べた。

 男が話し、葛野が相槌をうつ。

 こういう輩は語りたいのだ。好きに語らせておく方が楽なことは、割に早いうちに気づいた。適当に曖昧な相槌をうっておけば、それで納得してくれる。男の話は御門のなさりようへの不満がほとんどだった。

 「前皇后さきのおおきさき様にも婿取りの話を進めておいでだったとか。そんな事になっていたら皇子さまのお立場も、いっそう厳しいものとなったでしょう。」

 相槌をうちながら流していた話にふと引っかかりを覚えた。母に婿取りの話があったというのは初耳だったのだ。

 「いやはや、立后なさった方が妻問を許すなど前代未聞の事。さすがに御門のなさりようはどうなのかと、世人も囁いておりましたよ。」

 母に婿をとろうとする御門の意図なら葛野にもわかる。そもそも葛野の父の即位そのものを認めない御門からすれば、母は皇后などではない。その認識を、御門は世に広めようとしたのだろう。

 「ここだけの話でございますが。」

 男が馬を寄せ、声をひそめる。

 「前皇后様の急なご崩御は、抗議の自死であったのではと、噂する者もおるのですよ。」

 今度はガツンと殴られたような衝撃を覚えた。母を殺した者の動機を不意に理解したからだ。

 母が皇后であることを決定的に否定させないために。

 ひいては父の即位を、葛野が皇子であることを決定的に否定させないために。

 おそらく母は殺されたのだ。

 甘い、梔子の香りがする。

 母の弔いを押し包んでいた、あまりに祖母を思わせる花。

 宮に帰り着くと、葛野は早々に男から離れた。自室に戻り、人払いをする。

 死の穢と梔子の香に取り巻かれるように黄泉へと降りた母。

 祖母ではないか。

 胸の内に湧いた疑惑を、葛野は慌てて否定する。

 まさか。

 それはあまりにひどすぎる。

 だが、どれだけ否定しようとしても、葛野は自分の内に湧いた疑惑を否定する事ができなかった。それどころか考えるほどに疑惑が深まってゆく。

 「皇子さま時が参りましたわ。」

 それからしばらくして祖母が改まった態度で言った。

 「今こそ難波より、神剣をお迎えする時かと存じます。」 

 幾度も祖母が通い、葛野も連れて行かれていた難波の社。その社に納められているのは、御門の神器なのだという。祖母は神剣を葛野によって宮中に運ばせようとしているのだ。

 「失われた神剣を皇子さまが宮中にお戻しすれば、誰の目にも皇子さまこそが次の御門に相応しく、神々の御目にもかなうことがはっきりいたしましょう。」

 ぎらぎらと底光りする祖母の目。

 葛野の中で、疑惑は確信にかわった。

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