第11話 邂逅
地震の爪痕は深かった。
各地で山が崩れ、海辺には津波が押し寄せ、多くの里が壊滅した。
揺り返しもきつく、しつこく繰り返す。
額田の邸も大きな被害を受けた。
額田の寝室のあった建物が崩れただけでなく、他の建物にも歪みや亀裂が見つかり、そのままでは危険で住むことが出来ない。揺れが続いている事もあり、庭の立木の枝に布をかけて天幕にした下に敷物を敷いて、急ごしらえの御座所が作られた。まわりに建具を巡らして、なんとか落ち着ける場所を作る。
敷物を重ねても、湿気はじわりと冷たかったが、どうしようもなかった。
寝所まわりが崩れて閉じ込められた額田だが、幸い怪我はなかった。さすがに埃まみれではあったが、すぐにお湯が沸かされ、身体を拭って着替える事もできた。
着替えて庭の南側に作られた御座所に入った時には、すでに昼をまわっており、粥が用意されていた。暖かい粥の入った椀で掌を温め、匙ですくって胃に流し込むと、ようやく生き残った実感がわいてくる。
そして生き残った額田には、雑務も押し寄せてくるのだった。
額田の寝所のそばには多くの衣装や装身具が保管されていた。それらは額田の財産の一部でもある。できるだけ救い出したいと願うのは当然の事だ。
当分は木材が不足するであろうから、崩れた建物の材も使えるものはとって置きたい。そうしなければ邸の再建に、長い時間がかかるだろう。
もちろんそんな事を全て、額田が指揮をとって行うわけもないが、それでも端々に目を届かせようと思えば、時間も手も取られる。
額田は忙殺された。
やらなければならない事が多すぎる。
それは額田に限った事でなく、他の皇族、豪族、朝廷そのものに至るまで、京全体がどこか浮足立った、落ち着かない喧騒に満ちた。
この度の地震では崩れた邸は珍しくなく、火事を貰って焼け落ちた邸もある。建物などの下敷きになり、あるいは火に巻き込まれて、命を喪った殿上人もぽつぽつといた。それを思えば建物が崩れ、傾いではいても、下人にいたるまでひとりの死者を出すこともなかった額田の邸は、まだ恵まれているのだ。
崩れた家から拐われた娘、家族を失っていつの間にやら行方の知れなくなった子供の噂なども、密やかに聞こえてくる。
殿上人でこれならば寄る辺を失った庶人など、ただもうどうしようもなく悲惨な境遇に陥ってゆくだけだ。
忙しいながらも剣の事を忘れたことはなく、難波まで人をやって様子を窺わせたりもしたが、幸いにも難波に津波の被害はなく、剣の納められた社はしっかりと建っているという事だった。
ただ、額田に剣の話を教えてくれた老婆が命を落としたのだという。それも波にさらわれたの、梁に潰されたのというような話ではなく、幾度も揺れの続く内にふと倒れてそのまま、というような死であったらしい。老いて弱った身には災害の続く落ち着きのなさが、こたえたということなのだろう。
額田が自ら難波に足を運んだ頃にはすでに年が明け、今上の治世はすでに十四年目を迎えていた。
「草壁皇子さま、お久しぶりでございます。」
幾分線の細い、大人しげな青年に額田は笑いかけた。青年が少し眩しげに目を細めて笑う。皇后の一子、大兄の草壁だ。
母にも父にも祖父にも似通った顔立ちをしているのに、その誰とも印象が違う、繊細さと真面目さを強く感じさせる青年だった。すでに正妃との間に三人の子をなしている。
葛野を即位させるにあたり、もっとも大きな障害となる皇子だ。
「お久しぶりです額田どの。また何用あって難波へ?」
「用と言う事はございませんけれど、」
額田は慎重に言葉を紡ぐ。額田の「用」をこの皇子に気取られるのはまずい。
「地震からこちらゴタゴタしましたし、ちょっと出かけてきたくなったのですわ。海を見るのが好きで、よく馬を借りて遠駆けしますの。今日もそうしようかと思っております。」
「そうでしたか。そういえば御邸に被害が出たと聞きました。大事ありませんでしたか。」
「崩れた梁を帳台が受けてくれたおかげで無事でした。家人も欠けることもなくて。」
「それは不幸中の幸いでした。」
あたりさわりのない会話の内にも、額田は草壁の表情を探る。特に裏があるようには見えない。
皇后讚良の息子らしく、何事にも静かに落ち着いて対応する草壁だが、讚良ほどの底知れなさをたたえている訳ではない。それでも簡単にスキを捉えさせない周到さはすでに身につけているように見える。
その点で言えばおなじ今上の皇子でも、大津の方がよほど扱いやすそうだ。地味な印象の草壁と違い、おおらかで明るく闊達な大津は人気はあるが、周到さには欠けているように思える。
難波で出会ったのが草壁でなく大津なら、額田もここまで警戒はしなかったろう。
「では今日は思う存分骨休めなさって下さい。」
そう言って草壁は、木簡を抱えた川島皇子を見つけてそちらに歩み去った。
川島は一人ではなく、舎人らしき男がそばに控えている。そちらを一瞥して去ろうとして、額田は何かに引っかかった。
舎人の顔をそっと見直す。
いかにも舎人らしく日に焼けた顔は、驚くほどに整っていた。肩などはしっかりとしているが、どちらかといえば小柄な方に入るだろう。死者の気配を纏っているようにも思えるが、それは舎人という荒事にまつわる者ならないことではない。だから額田が引っかかったのはそこではなかった。
前にも会ったことのあるような。
どこかで確かに見た顔だ。
彼でなければ彼と似た顔を、額田は確かに見た事がある。
モヤモヤとした疑問は、剣の納まる社に参り、帰りの船に乗ったところで不意に解けた。
猿女真礼。
清らかな、穢なき、美貌の
性別が違い、日に焼けていたことで印象はかなり違ったけれど。
あの舎人の顔の造作は真礼に、生き写しと言いたいほどに良く似ていた。
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