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朝倉みさきのために僕が扉を開けたことについては、実は彼女には話さなかった理由があった。
一年前、僕が記事を書いていた沿線情報誌では、飲食店特集が続いていた。私鉄沿線のいろんな店を取材してまわっていた僕は、電車の利用頻度がとても高かった。たいてい取材のアポイントは場所がばらばらで、沿線を行ったり来たりすることになった。
その数ヶ月間、僕は何度か電車の中で、みさき――もちろんそのときはまだ彼女の名前は知らなかったけれど――の姿を目にしていた。とりたてて美人というわけではなかったし、どちらかというと地味な感じだったけど、なぜか僕は彼女のたたずまいに魅かれていた。車内で彼女の姿を見かけると、ついちらちらと彼女に視線を向けてしまっているのだった。
みさきがはじめて彼と会ったあの日、僕も同じ車両に乗り合わせていた。例の居眠り男の斜め前で、つり革につかまって立っていたのだ。
僕がその車両に乗り込んだときには、もうすでに男の体はみさきの方に倒れかかっていた。最初僕は、彼女の知り合いなのかと思った。それくらい、男のもたれかかり方は遠慮がなかった。
でも、よく見ると二人は知り合いには見えなかった。シートの隅で小さくなってうつむいている彼女をなんとかしてあげたいと思った。でも、どうすればいいのか、どう声をかければいいのかわからず、僕はしばらくためらっていた。
電車が停車して、人が乗り込んできた。みさきの前にベージュのステンカラーコートを着た男性が立った。そして、数分もしないうちに彼は「大丈夫?」とみさきにいって、男の肩に手を伸ばして起こしにかかった。
僕は彼の行動力に感心した。たぶん彼はすぐにみさきの窮状と彼女の性格を察して行動を起こしたのだ。
それから一週間後の夕方、そのときも何件かの店の取材を終えて、そのまま夜のアルバイトに向かう途中だった。扉の脇に立って本を読んでいた僕がふと顔を上げると、少し離れた場所にみさきが座っていた。
彼女はじっと何かを見つめては、すぐにうつむき、それを何度も繰り返していた。その視線の先に目を向けると、あのときみさきを助けたステンカラーコートの男性がつり革につかまって立っていた。
電車が駅に近づくと、男性は僕が立っている扉の近くにやってきた。みさきも立ち上がって、男性の少し後ろで扉が開くのを待っている。
みさきが彼に声をかけようとしていることはなんとなくわかった。扉が開き、僕の目の前を横切って乗客たちが降りていく。でも、みさきは扉の前で立ち止まってしまった。
この沿線で、電車の扉が開いてから閉まるまでの平均時間は十七秒。僕は以前、取材先でそのことを聞いて覚えていた。
十七秒が過ぎていく。みさきは降りようかどうかためらっているようだった。ホームに目をやると、男性はまだベンチの前にいる。
みさきは数歩下がってからまた扉のそばまで近づいた。でも、自動扉のレールの前で、またぴたりと足が止まった。
僕はなんともいいようのない気持ちに襲われた。みさきの真剣な横顔が目の前にあった。こちらまで胸が苦しくなってきた。
十秒が過ぎて、発車のアナウンスも終わり、扉が閉まりはじめた。
みさきは唇をかんで、足元に視線を落とした。
扉が閉まりきる直前、思わず僕は持っていた傘を扉の隙間に差し出していた。
運命の振り子は常に左右に振れている。
でも、その動きを変えることは意外と簡単だ。
そっと手を伸ばし、振り子の先に触れればいい。
居眠り男の肩に手を伸ばす。
小さくなって座っている女の子に手を伸ばす。
閉まりかけた扉の隙間に手を伸ばす。
それでほんの少し運命が変わる。
実に簡単なことだ。
あのとき、ホームのベンチに座っている女性が彼女だとは、最初は気がつかなかった。足元に倒れた僕の傘を握りしめ、それをじっと見つめている姿を見て、ようやく彼女だとわかった。
「あのぉ」と声をかけた僕に視線を向けた彼女の顔を間近で見たとき、僕の胸の中で何かの音が鳴ったような気がした。
ホームで彼女の話を聞きながら、僕は迷っていた。
「もしよかったら」という言葉で始まるたくさんのセリフがいくつも僕の頭の中に浮かんでは消えていった。でも、スマートフォンの画面を寂しそうに見つめる彼女に対して、僕はそのうちのひとつたりともいうことができなかった。
僕たちはベンチから立ち上がり、電車が停車位置に止まった。
「彼、きっと迎えにきてくれますよ」
僕の言葉に、みさきは微笑んでうなずいた。それはどこかぎこちなくて、無理に浮かべた微笑みのように見えたのは、たぶん僕の勝手な思い込みだろう。
電車の扉が開き、あの十七秒間が始まる。
僕は車内に乗り込む。
扉のそばに立ってふり返ると、みさきがホームに立っている。
みさきがぺこりと頭を下げ、僕も会釈を返す。
一年前に、みさきが立っていた場所に僕が立ち、彼が立っていた場所にみさきが立っている。
十秒が経過する。
扉が閉まります、ご注意ください――アナウンスが僕に告げる。
僕の左手には魔法の杖が握られている。
十七秒が過ぎていく。
扉が閉まりはじめる。
運命の振り子が揺れている。
でも僕は魔法の杖を使わない。
軽く手を振り、彼女も手を振り返す。
そして、僕の目の前で扉が閉まる。
そして、扉は閉まる ~沿線ライター小清水くんと些細な出来事シリーズ①~ Han Lu @Han_Lu_Han
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