16/Seek for the loss《1》

「どうした? 気分でも悪いか?」


 アルビスが問うと、泉水は顎に蓄えた無精髭を撫でながらだらしなく笑う。


「そりゃあね。大事な弟とその友達に、しかも命を助けた直後にも関わらず、こうもあっさり拒絶されたんだ。お兄ちゃんとしては少しくらい傷ついて当然だろう?」

「くだらんジョークだな。私も貴方も、竜藤の血に絆を感じたことなど一度だってないだろう」


 寂しげな様子を装っていた泉水だったが、アルビスの言うことはまんざらでもないようで、今しがた自分が言ったことに対する寒気を表明するように肩を小さく上下させる。


「感謝はしてるぜ、竜藤泉水。だがよ、桜華を唆して追い詰めたような奴がいるかもしれねえ集団に、俺が我が身可愛さで逃げ込むなんて真似、絶対ぇにできねえんだよ」


 たとえば公龍が少しだけ狡猾になり切れるなら、〝切り札トランプ〟の懐へと入り込み、〝クラブ〟の〝整理者レギュレーター〟とやらに近づく方法を選ぶこともできたのだろう。いや、冷静になって考えれば、きっとそうすることが桜華の無念を晴らすための最短経路であることは間違いないのだろう。

 だがそれでは駄目だった。目的のために手段を選ばなくなってしまっては駄目なのだ。それではただ復讐心や憎しみ、怒りに落ちていくだけ。自らの全てを投げうつような仇討ちを、たぶん桜華は望んだりしない。

 だからあくまで正攻法で。あの世で見守ってくれている桜華に胸を張れるように、道を進んでいかなくてはならないのだ。

 それに確信めいた予感もあった。

 泉水に言われるまでもなく、公龍たちは《東都》の決して触れてはならない核心へと着実に近づいている。このまま進んでいけば自ずと、《東都》の転覆を目論む人間の一角を担う〝クラブ〟の〝整理者レギュレーター〟とは、必ずどこかで鉢合わせることになる。

 焦る必要はない。今はただ、クロエや汐――手の届く範囲にある大切な人たちを、救い出すことだけを考えていればいい。


「……見上げた信念だ。あえて茨の道を進むんだね。皮肉ではないよ。ただ羨ましいんだ。僕は小さい頃から散々、そういう男に苦渋を舐めさせられ続けてきたからね」


 口を開けば裏のありそうな台詞を吐いていた泉水だったが、その言葉に他意は感じられなかった。

 案外、泉水の行動を支える原理は拙い子供時代に根拠を持っているのかもしれないと、公龍は事情もよく知らないままに直感でそう思った。


「さて……僕は話すべきことを話し終えた。次は君たちに順番を譲ろう。訊きたいのはキリノエ教授のことだろう。何が知りたい?」


 泉水の思わぬ切り返しに、公龍は思わずアルビスを見やる。抱いた驚きはアルビスも同じだったらしく、いつも通りの鉄面皮に微かな警戒心を浮かべていた。どうやら仲間になろうとなるまいと有用性が変わらないというのは、本当のことらしい。泉水はどちらにせよ公龍たちを使つもりなのだろう。


「キリノエには協力者がいたらしい。彼に開発途中のRsウイルスの実験映像を流した人間だ。それは貴方だな、泉水」


 警戒そのままにアルビスが早速問う。泉水はもったいぶるようなこともなく頷き、あっさりと肯定した。

 この程度の情報は隠す必要もないと思っているのだろうか。だが言ってしまえば泉水は内通者だ。竜藤の血を継ぎながら、彼らを鮮やかに裏切っている。《リンドウ・アークス》がどれほど〝切り札トランプ〟について感知しているかは定かではないが、もし泉水の裏切りが《リンドウ》側に露見すれば命取りになることは間違いない。


「ちなみに、九重くんを紹介したのも僕だよ。なんとかして君たちを《東都》の陰謀の渦中に引き戻す必要があった。だけど失敗だったね。《リンドウ・アークス》のほうが一枚上手だった。まさかこのタイミングでキリノエが殺され、その罪が君に被せられるとは」


 泉水が肩を竦める。その軽薄な言い草に、公龍は思わず殴りかかりそうになって固く拳を握る。しかし手負いの身体でベッドから立ち上がって詰め寄るより先に、公龍の怒りを敏感に察知した泉水が言葉を接いだ。


「すまなかったよ。軽率だった。あの少女や君について、うちリンドウ・アークスが監視を強めている可能性をもっと考慮すべきだったよ」

「すまねえで済むかよ」


 公龍は握った拳をなんとか解き、殴りつける代わりに鋭い言葉を吐く。


「分かってる。だから協力は惜しまない。それに彼女が《リンドウ》に身柄を拘束されている今の状況は、僕らにとってもあまり好ましくないんだ」

「《リンドウ》の目的はやはりクロエ――〝鼓動し嘲笑する臓器モック・ノック・オーガン〟なのか」


 しおらしく頭を下げて見せた泉水に、アルビスが言う。泉水はそれを受けて頷き、それから言葉を選ぶような間を少し置いてから改めて口を開く。


「目的……そうだね。そもそもあれは医薬特区や《リンドウ・アークス》――ひいては《東都》という巨大な実験場を使って、レナート・ウルノフが開発に着手していたものだ。いわゆる〝F計画〟というやつだね。だがウルノフが死に……いや、少なくとも行方が分からなくなり、計画は成功することなく頓挫。だがどういうわけか、〝解薬士狩り〟の棗シロウや空木クロエといった成功例が《東都》に姿を現した。《リンドウ》としては研究成果を横から奪われたような気がして面白くないだろうね。君らの言うMKO――万能臓器Universal Gutsは、世紀の発明、人類の進化だ。この国だけじゃない。世界の主要各国が万能臓器Universal Gutsの行く末に水面下で注目しているんだ」


 世界――。それは想像を絶する大きな話だ。だが万能臓器Universal Gutsの有用性を鑑みれば当然とも言えるのかもしれない。

 万能臓器Universal Gutsの力の一端は、公龍も身をもって知っている。どれだけ傷を負わせても無限に立ち上がってくる〝解薬士狩り〟。あるいは生死の狭間を、限りなく死に近い領域で彷徨っていたはずの公龍を蘇らせたクロエの能力。もし実用化が可能な技術であれば、近い将来に人類は病気や怪我をほとんど完全に克服すると言っても過言ではない。そして医学分野での運用はもちろん、それは軍事分野において応用することもできる。


「おい、もしかして」

「……どうやら気づいたみたいだね」


 泉水が微笑んだ。公龍はにわかには返す言葉を発することができず、自らが辿り着いた結論に息を呑む。どうやらアルビスも同じらしく、元から硬い表情には凄まじい緊張が浮かんでいた。


万能臓器Universal Gutsによって体内で生成される物質はおよそ六〇〇万を超える。そしてその最たるものが、解薬士きみらが使う特殊調合薬カクテルに酷似するもの。というより特殊調合薬カクテルは本来、万能臓器Universal Gutsの開発過程で副産物的に生まれたものなんだけどね。……おかしいとは思わなかったかい? どうして人を守り、健やかにするための薬で、人がこんなにも戦うのか」


 そして泉水は決定的な言葉を告げる。


「壮絶な震災から復興を遂げた理想郷である《東都》は、万能臓器Universal Gutsで得ることのできる個人戦闘力を国内外に披露するための、デモンストレーションの場なんだよ。そして君たち解薬士は丸ごと実験動物モルモットというわけだ」


   †


 ここに連れてこられてから、どれくらいの時間が経ったのだろう――。

 時間の感覚は曖昧だ。つい昨日くらいに連れてこられたような気もするし、もう何年もこの場所に閉じ込められているような気もする。たしかなのは、この真っ白な壁や床の風景とほんのりと香る薬品の匂いがどことなく懐かしさを感じさせるということくらいだ。

 しかし懐かしさを感じる一方で、風景にも匂いにも覚えはなかった。クロエの記憶にあるのはいつだって不衛生で薄暗い廃区の街並みと下水や血の入り混じった臭いばかりだ。

 お姉ちゃんと過ごした日々。貧しいけれど幸せだった。飲食店の裏にあるゴミ捨て場から運よく手に入れた、まだ綺麗なコッペパンを二人で分け合った。半分と言いつつアンバランスに千切れてしまったコッペパンの一回り大きいほうの半分を、お姉ちゃんはクロエにくれた。

 本当は身体の大きなお姉ちゃんが大きいほうを食べるべきだったのだろう。毎日少しずつ痩せて小さくなっていくお姉ちゃんを心配するクロエに、お姉ちゃんは「クロエはちゃんと食べて大きくなるんだよ」といつも言い聞かせた。

 お姉ちゃんが小さくなっちゃうよ――本当はそう言いたかった。だけどクロエの喉はどんな声を上げることもできず、代わりに空気が引っかかりながら抜けていくような歪な音を漏らすだけ。

 もどかしかった。ありがとうも大好きも、確かにクロエのなかにあるはずなのに口はその言葉たちを紡げない。

 クロエがそのことに落ち込むと、お姉ちゃんはいつも「大丈夫、伝わってるよ」と慰めてくれた。だからクロエはいつかちゃんと自分の声で、この大きすぎる気持ちを伝えられたらいいと前を向けた。

 だけどお姉ちゃんに何も伝えることができないまま、幸せだった日々は唐突に終わった。

 赤い帽子を被った二人組がやってきて、お姉ちゃんを襲った。お姉ちゃんはこれまで見たこともない怖い顔でクロエを見て、これまで聞いたこともない怖い声でクロエに言った。


「逃げなさい」


 クロエは言われた通りに逃げた。助けを求めるために叫ぼうとした。だけどクロエの声なき叫びを聞き届けてくれる人はなかなか現れてはくれなかった。

 それでもクロエは叫び続けた。お姉ちゃんを助けてくれと願い続けた。そして誰も気に留めてくれることのなかったそれを確かに聞き、手を差し伸べてくれたのが公龍だった。

 結果から言えば、公龍たちはお姉ちゃんを助けることはできなかった。クロエの声がようやく届いたその時には、もうお姉ちゃんは死んでいたからだ。

 それでもクロエが塞ぎ込んだり、世の中に絶望したりせずにいられたのは、公龍の存在が大きい。お姉ちゃんよりは雑で乱暴で、至らないところばかりだったけれど、彼はいつもクロエを気にかけ、得体の知れない少女であるにも関わらず、お姉ちゃんに負けないくらいクロエのことを大切に思ってくれた。

 クロエは公龍とたくさんのことを経験した。

 極限まで減ったお腹に流し込まれるカップ麺の美味しさ。

 酸っぱくて甘い、オレンジジュース。

 綺麗な洋服を着せて、生まれて初めて遊園地にも連れて行ってもらった。

 公龍とアルビスがいつも喧嘩をしている事務所は毎日賑やかで、上の階の怖くて優しいおじさんたちと一緒にパーティーもした。

 もちろん楽しいことや嬉しかったことだけではない。

 公龍もアルビスも、いつだって傷だらけで何度も死にかけた。二人が危険に飛び込んでいくたび、クロエはいつも胸が引き裂かれるような気分になったし、クロエだって爆発に巻き込まれて死の淵を彷徨った。

 たくさんの痛みとたくさんの喪失を経て、クロエたちも変わった。

 アルビスが去って、事務所がなくなって、いろいろなことが変わっていった。

 だけど公龍だけは変わらずにそばにいてくれた。

 仕事をクビになって帰って来た日も、台風で飛んできた看板が家の窓を叩き割っても、公龍はいつも変わらない笑顔でクロエのことを見守っていてくれた。

 きっと今も、クロエを助け出すためにたくさんの危険に飛び込み、命懸けで戦ってくれている。目を閉じれば、そんな公龍の姿がまぶたの裏に浮かぶのだ。

 だからクロエは泣かない。公龍が来てくれるその瞬間まで、じっと耐え続ける。それが今のクロエにできる精一杯の戦いだった。

 部屋の扉が左右にスライドする。いつも通り、白の防護服と防護マスクで頭の先からつま先までを隈なく覆った人が二人入ってくる。

 検査の時間だ。身長を測ったり体重を測ったり、身体のあちこちに管に繋がれたシールを貼ったり。なんの意味があるのかは分からないが、ずっと部屋に閉じ込められたままのクロエに起きる唯一の変化がその検査だった。


「立て」


 マスク越しのくぐもった声が言う。クロエは従い、言われた通りに立ち上がる。

 そこでいつもと違うもう一つの変化に気がついた。左右に開いた扉のところに、白い防護服姿ではない、紺色の三つ揃えスリーピースに身を包んだ男が立っていたのだ。

 クロエは男を見上げる。男はクロエの視線に気づくと、口元だけで柔らかな笑顔を浮かべた。クロエが寒気を感じたのはきっと、男の笑顔が完璧すぎるほどに作り込まれていたからだろう。その場に縫い止められたように固まったクロエは、男が近づいてきても動くことができなかった。

 クロエの目の前で男は立ち止まり、怜悧な眼差しで見下ろす。クロエのよく知るアルビスのそれとは似ても似つかない、冷たい――否、冷酷な眼差しだった。


「こんにちは。空木クロエさん。今日は少し話をしようか」

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